諦めに似た空気の中で
無尽蔵のエネルギーを生み出す魔晶石を利用した爆弾―――魔力反応弾。
それは、我々の世界における原子爆弾や水素爆弾より、汚染という意味で質が悪い兵器。
一度使用されたら最後、使用された地域周辺は、生態系が存在できない魔力異常地帯と化す。
その地域は立ち入るだけで生命の危険にさらされ、それは二度と元に戻ることはないとされる。
世界をそんな風に変えてしまう悪魔の兵器、人類最大の禁忌とされる無差別殺戮兵器。
保有が国際法で禁止されているのは当然として、開発もしくは生産をもって、対象国は全人類に対して宣戦布告したものとみなすという、異常ともいうべき厳罰を定めている兵器は他にはない。
そのもたらす惨禍と同じ反応が出たということは?
「米軍の仕業!?」
普通ならそう考えるのが最も妥当だ。
鍾乳洞の地下に隠されていた自爆用の魔力反応弾が作動した。
そう、判断することも出来るのだが、何故か紅葉は断定する自信がなかった。
トラップとして魔力反応弾が仕掛けられた?
馬鹿な。
百発を超える反応弾をみすみす諦めるのか?
しかも、この鍾乳洞周辺は世界遺産に登録されているんだ。
そんな所で、例え自国の中とはいえ、魔力反応弾を使用するなんて、あり得る話じゃない。
「不明―――ただ」
白石は答えた。
「もし、そうだとしても、このタイミングはおかしい」
「……そう……ね。じゃなくて!」
紅葉は血相を変えて怒鳴った。
「ぼっとしている場合か!
艇長、全速出して!
全騎、ブースターが壊れるまで退却っ!
白石、モニター続けて!
本当に、魔力反応弾が使用されたなら、魔力崩壊から解放まではタイム・ラグがあるから、その気になれば逃げられる!」
グンッ。
TACのエンジンが唸り、床が小刻みに揺れる。
電車が急停止したような、Gによる揺れの中、紅葉は器用にバランスを取って転倒を避ける。
「フィアちゃんは!?」
混乱する通信の中、誰かわからない声だけが不思議と紅葉の耳に飛び込んできた。
「考えるな!助ける身がここでどうにかなったら、誰があの子、助けに行くのよ!もっと自分を大切になさいっ!」
「―――っ!」
「総員、シートベルト着用っ!ヘルメットを―――」
ドンッ!
耳をつんざくような音がして、TAC機内の照明が一斉にブラックアウト。機材が次々と火花を噴き出した。警報とオペレーター達の悲鳴が交錯する。異様な感じで重力がかかる中。紅葉は激しい痛みを感じることもなく、意識を失った。
「何が起きたんだ!?」
衝撃波に襲われたのは、経験からわかる。
具体的にと言われれば、巨大なハリセンで、後ろから叩かれたらこうなる。
“死乃天使”に起きたことを語れと言われれば、とりあえず美奈代はそう答えることにした。
機体バランスをとって地面に激突する事態だけは回避したものの、状況はまるでわからない。
「後方で大規模爆発。周辺の重力に異常!魔力数値が狂っています!危険域!」
「魔力数値!?」
「自然界には」
牧野中尉が言った。
「四大元素に基づく魔力が存在します。自然の、例えば砂漠は地水火風の元素のうち、火の元素に属する魔力が強くて、逆に寒い所は弱いとか」
「いや、あの、そうじゃなくて。何でそんなことになったのか。そう聞いているんです」
「可能性が一番高いのは」
機体の状況を確認するのに忙しい牧野中尉は、脇目も振らずにコンソールを操作する。
「魔力反応爆弾の使用」
「セリフ・ギロチンと呼ばれたアレですか?」
美奈代は目を見開いた。
「でも、アレは国際法で保有どころか開発も禁止されていると」
「反応弾っていうのは」
牧野中尉は答えた。
「材料と知識さえあれば、作成は意外と簡単なんです。アメリカで、政府が材料を原子力に精通した学生チームに渡して、反応弾開発を命じたら、本当に完成したって冗談みたいな話もありますしね」
「それは魔力反応爆弾でも同じ?」
「当然」
「……全騎。被害はないか?各小隊長は部隊の状況報告」
「狙撃隊、小清水です。部隊被害なし」
「前衛、宗像だ。こちらも正常。ただし」
「ただし?」
「衝撃波でTACが一回転した。津島中佐達が負傷している。中佐は頭部を負傷した模様。意識がない。他にも骨折や打撲をした者が数名」
「さすがに」
美奈代は呻いた。
「TACではあの衝撃は」
「墜落しなかっただけでも、艇長と操舵手の腕を褒めるべきだ。“鈴谷”に収容させよう」
「そうだな。“鈴谷”に通報は?」
「私の方でしておいた。“見通者”をこんなコトで死なせるワケにはいかん」
「全騎。今度こそ問答無用で“鈴谷”へ帰還するぞ?」
「……了解」
涼は、通信モニター上の芳の顔をちらりと見た。
―――仕方ない。
芳は目でそう告げると、小さく頷いた。
こんな状況で何が出来る?
そう聞かれれば、芳だって答えようがない。
状況の変化があまりに激しすぎる。
涼は、本気でそう思った。
「ここで待機?」
「はい」
ティアリュートとユースティアがサライマを隠したのは、鍾乳洞から離れた場所にある小高い丘の影。
先程の衝撃波は、地形で避けることが出来たが、さすがに生きた心地はしなかった。
脱出ポッドに収容された負傷兵の容態は安定しているが、すぐに軍医に見せたいというのが皆の本音だ。
母艦がすぐ間近にいるのに、その母艦は「指定ポイントで待機しろ」の一点張り。しまいには返答さえしなくなった。
「母艦の位置、わかる?」
そっちが返事しないなら、こっちから殴り込んでやる。
ティアリュートは本気でそう思って、ユースティアに訊ねたが、
「不明」
ユースティアは首を横に振った。
「かなり強度な結界を展開している模様。“バラライカ”仕様のセンサーにも引っかからないなんて、かなりですよ?」
「あっちこっちに石でも投げたら当たらないかしら」
「私、お返事が恐いです」
「……それだけは同感ね」
「人類のフネが近くを航行中。まさか、母艦は逃げているのでしょうか?」
「まさか。そんなことはないと思うけど」
戦況モニター上には、人類側の飛行艦の反応が2隻。こっちの攻撃の射程範囲にいることは確かだが、ティアリュートには攻撃の意志はなかった。
むしろ、相手側に攻撃の意志がないか。
そちらが心配だった。
デミ・メース達は見逃してくれたが、飛行艦の方まで見逃してくれるかは、さすがに自信がない。
「一体、母艦はどこだ?」
飛行艦は、ティアリュート騎のモニターにも映し出されている。
あのデミ・メース達が収容作業に入っている。
母艦は一体、何をしているんだ?
この戦域からは撤退してもいいはずだろう?
まさか、ユースティアじゃないが、逃げているなんて、冗談じゃない。
私達はどうなるんだ?
「いつまでも敵の情けに甘えるってワケにもいかないし」
あのデミ・メース達は、あの時こそ見逃してくれたが、次も見逃してくれる保証はどこにもない。
他のデミ・メース達と遭遇したら、脱出ポッドを抱えたままで戦闘することは無理だ。
どうするのよ。
ティアリュートがそう呟いた時だ。
「ティアリュート様!」
ユースティアが声を挙げた。
「母艦の通信、回復しました!」
「よしっ!負傷兵の収容を!」
「はいっ。現在、母艦はビジュアル・コンシール中。ポイント座標が転送されます」
ビジュアル・コンシールとは、空間魔法技術を応用した光学迷彩魔法のこと。
この魔法が展開されると、外部から魔法で包まれた対象は見ることが出来なくなる、魔法の隠れ蓑だ。
「ビジュアル・コンシール中の艦に脱出ポッドで?自殺行為だぞ?」
「母艦がコントロールしますから大丈夫です」
「……そういう手もあったか。それで?私達は?」
「50キロ程先の戦域からデミ・メース10程が接近中。これの阻止です」
「10……か」
ティアリュートは少しだけ唸った。
1騎で5騎相手がノルマだ。
相手がメースだったらさすがに二の足を踏むしかない。
でも、今回は、人類側の作った出来損ないのデミ・メース達だ。
やれるんじゃないか?
それに、そろそろ、人類側とやり合っておかないと、出所不明の傭兵同士の噂にいつまでたっても振り回されることになる。
やるか?
じゃなくて、もう、やるしかない。
そういう時期に、自分がいることに、ティアリュートは気付いていた。
「出来るか?ユースティア」
「はい」
ユースティアは頷いた。
「脱出ポッドへのビーコン来ます」
「えっ?」
ユースティアの言葉にギョッとなった。
「ビーコンが来るってことは、母艦はそんなに近いの?」
ユースティアに聞く必要もない。
戦況モニター上にやっと表示された母艦の位置。
それは―――
この時点で、美奈代達も“鈴谷”に収容されていた。
皆がハンガーに騎体を収容する作業に入っていたし、外部からハンガーに入るためのハッチも閉鎖作業が開始されていた所だった。
戦闘が終了した時の普段通りの作業が淡々と続けられている。
ただ、それだけの光景が、
“鈴谷”にとっては当たり前の“日常”が、そこでは繰り広げられていた。
美奈代達もまた、規定作業を終えて、三々五々、騎体から降り始めていた。
騎体のハッチを開き、騎体から出た美奈代の前。
“D-SEED”から祷子が騎体を降りる姿が見えた。
黒く艶やかな髪が照明を反射して美しく輝く。
少し、髪を伸ばしてみようかな。
そっと美奈代が自分の髪に手を伸ばしてみた。
似合わないか。
ちょっとそう思うと、不意にフィアの金髪が思い出され、胸が痛んだ。
通路では、先に降りていた宗像が待っていた。
いつも通り、手を挙げて挨拶をする。
そんな時だった。
「―――えっ?」
美奈代が目を見開いたのも無理はない。
閉じられようとしていた巨大なハッチの向こうからハンガーに飛び込んできたのは、数騎の見たことのないメサイア達。
1騎が左腕でハッチを押さえ、その間を縫って別なメサイア達がハンガーに乱入してきた。
一体、何が起きているんだ?
整備兵達も手を止めて、ポカンとしている。
皆、何が起きているのかわからない。
「敵だっ!」
誰かがそう叫んだ時には遅かった。
ハンガーに飛び込んできたのは、メサイアではない。
魔族軍のメースなのだと、居合わせたほとんどの者が、その時、やっと認識することが出来た。
そして、ハンガーベッドを制圧したメースの後ろ。
TACらしき見慣れない乗り物がハンガーベッドの最前列に固定されていた月城騎の前で急停止して、中から武装した甲冑姿の兵士達が飛び出してきた。
「くそっ!」
敵に蹂躙される“鈴谷”。
そのことに、美奈代はとっさに“死乃天使”に飛び込もうとしたが、
「和泉っ!」
美奈代は後ろから誰かに押し倒された。
床にキスしなかったのは奇跡のような話だった。
ガガッ!
爆竹が連続して破裂したような音がして、耳が痛んだ。
「大丈夫か?」
その声は聞こえなかったが、鼻が、その香水の匂いを覚えていた。
宗像だと、すぐにわかった。
「あ、ああ……」
美奈代は、自分が背後から抱きすくめられ、床に押し倒されたことをやっと理解できた。
「こんな時に、下手に動けば敵を刺激するだけだぞ!」
「す、すまない」
メサイア乗りとしての騎士は、一般の騎士と違って白兵戦の能力はかなり低い。
圧倒的戦闘能力を誇る戦闘人種のはずが、訓練された一般兵士の方が強いことだってあり得る。
つまり、いくら騎士だと言っても、美奈代達がどれだけ頑張っても、白兵戦で戦力扱い出来るかと聞かれれば、富士学校時代の成績評価を見るだけで済む。
使い物にならない。
しかも、相手は間違いなく魔族だ。
自分達がここで抵抗した所で勝てる訳がない。
「どうする?隊長」
「こういう時だけ……ずるいぞ」
「どうするか?そう聞いた」
「返答する必要あるのか?」
「……じゃあ」
「そういうことだ」
ボウガンの様な、見慣れない武器を構えたまま近づいてきた兵士に、美奈代達は両手をあげた。
突然、艦の目の前500メートルの鼻先に出現した大型飛行艦と、メースに襲いかかられた“鈴谷”は、衝突を回避するのが精一杯だった。
衝突回避運動から復旧する間に進められた武装解除。
それは、実は、“鈴谷”だけでは終わらなかった。
マラネリ軍巡航母艦“エトランジュ”もまた、同じような目にあっていたのだ。
両艦は、艦内に兵士に乗り込まれ、各ブロックを制圧された。
神戸の時とは勝手が違う。
艦内で抵抗すれば、メースによって船体はずたずたにされるだろう。
勝算が全くない中で、意地になって抗戦する程、美夜もキユヅキ大佐も無謀ではなかった。
艦を護るため。
乗組員を護るため。
二人の艦長は共に乗組員に武装解除という一時の屈辱―――つまり、降伏を認めた。
エトランジュより発せられた停戦命令により、戦闘寸前で停止したフォイルナー少佐達の収容が始まる艦内は、魔族軍の監視下に入った艦内のあちこちに魔族軍兵士が立っている。
“鈴谷”では、乗組員の多くはハンガーに集められ、冷たい床に座らされていた。
どうなるか不安がる皆が驚いたことに、魔族軍は流ちょうな共通言語を使って、トイレの希望や体調不良がある場合は申し出る様にと乗組員に告げてきた。
ただ、艦内司令部は、艦橋から出ることを禁じられた。
その艦橋へと魔族軍のトップが入ったのは、艦内の武装解除が本当に行われているかを魔族軍が確認した後のこと。
時間にして30分程のことだった。
艦橋に入ってきたのは、黒いドレス姿の目の覚めるような美少女と、背広姿の男達。
ダユーとユギオ達だった。
「大日本帝国―――」
強ばった顔の美夜は、敬礼しながら名乗りを上げようとしたが、
「ああ、いいですよ」
ユギオは軽く止めた。
魔族が人間同様の背広を着込んでいることに加え、あろうことか日本語で止められたことに、美夜は目を見開いて驚いた。
「弓状列島―――日本は、開戦前から頻繁に顔を出していましてね?なじみが深いんですよ。ちなみに寿司は銀座に限ります」
「は……はぁ?」
美夜と高木は、互いに顔を見合ってしまった。
「……あの?」
「乱暴な振る舞いはお許し下さいませ?」
スカートの端をつまむと、ダユーは優雅に一礼した。
美夜は、同じ事をして、女として、ここまで相手を見とれさせることが出来る自信はなかった。
艦橋にいた全員の視線を独り占めしながら、ダユーはとろけそうな笑みを浮かべて言った。
「少し―――ご協力いただきたいのです」
「協力?」
「はい」
ダユーはニコリと微笑んだ。
「お礼は、部下の命―――それ程、お高くないですけど、安くもないお話でしょう?」
「つまり」
美夜は冷静に答えた。
「言うこと聞かなければ、部下の命はないものと思え―――と?」
「はっきり過ぎる物言いは嫌いですが」
ダユーは悠然と微笑んだ。
ちらりと見た高木の鼻の下が伸びているのを、美夜は見逃さなかった。
「―――こちらに非があるのは認めましょう。ですけど」
「拒否する権利は、私にはない。私も、それは認めましょう」
美夜は答えた。
「艦を預かる者として、乗員の生命は保証していただきたい」
「無論です」
ダユーはニコリと嬉しそうに頷いた。
人類のどんなモデル、女優でも演じることが出来ないだろう嫣然とした、あるいは蠱惑的な魅力はむしろ恐くさえある。
美しさに恐怖を覚えるなんてことは、美夜の人生の中でも初めての経験だった。
「私は協力をお願いに来ているのですから」
「―――何をしろと?」
「簡単です」
ダユーは言った。
「こちらの指示通り、動いていただければ良いのです」
「具体的には?」
「私の艦と一緒に、ある所に行ってもらいます」
「ある……所?」
「そう」
ダユーは、船窓の向こうを指さした。
そこには、謎の文字列が浮かんでいた。
「推定、半日足らずで消えてしまいます。あれに入ります。どこに通じているかは運任せです」
「自殺がご希望でしたら」
美夜は覚悟を決めて言った。
「どうぞ、我々を巻き込まないでください」
「―――まぁ。面白い」
「選択肢はない。それを忘れていません」
美夜はダユーと視線を合わせ続けることが出来なかった。
美貌の後ろにある、何やら得体の知れないどす黒い何かを、美夜は一瞬だけかいま見た。
それだけで、美夜はダユー対して畏れを抱くことを止められない。
蛇に睨まれた蛙のようなものだ。
こいつはただ者ではない。
本能的に、そう思った背筋に嫌な汗が流れた。
今頃になって足が震え出した。
美夜は声を殺しながら訊ねた。
「まず、お名前位は教えていただきましょうか?」
“鈴谷”が、ダユー率いる飛行艦“エーラスティア”の前方を進み、あの空中に浮かんだ謎の文字列に向かった。
「我々を殺すつもりですかね」
「馬鹿な」
高木に美夜は首を横に振って見せた。
「この艦を沈めたければ、もういつでもチャンスはあったはずだ。
それをやらなかったのには、必ず理由があるはずだ。
それに」
「それに?」
「この艦に一体、何人の魔族が乗っていると思う?」
“エーラスティア”との通信を行うため、艦橋の後ろに臨時に与えられた席に座る魔族軍オペレーターと武装した兵士の顔はまだあどけなさが残っている。
その顔に、緊張が走っている。
無理もない。
そう思った美夜は、従兵に命じて紅茶を二人に届けてやった。
湯気を上げるそれが何なのかわからず、不安げに従兵の顔を見たオペレーターは、金髪碧眼の女の子。ヨーロッパの街角にでもいそうな感じの娘だが、従兵が別なコップに中身を少しだけ移して毒味代わりに飲んでやると、それで安心したのか。最初は恐る恐る、最後にはおいしそうに紅茶を飲んでいた。
ヘッドレシーバーをつけたままの女の子が声を挙げた。
「定時入電―――針路、高度、速度そのまま」
よく通るいい声をしている。伝令に使いたいな。
美夜はそんなことを思った。
「―――まぁ、逆にこっちにとっても人質といえば人質だな」
「都合がいいのか悪いのか」
「わかったら教えてくれ。どちらにしろ」
「……ここの所、いい仕事はしていたと思うのですがね」
二人は同時にため息をついた。
「責任問題は避けられませんね」
「責任なんて、こんなものだ」
「通信をすべて停止させられているため、本国からの指示を受けられないし、報告出来ないのは、不幸中の幸いですか?」
「乗組員が私と副長だけならともかく、人の口に戸板は立てられまい……」
「除隊して、田舎で農業でもやりましょうか」
「実家、どこだっけ?」
「鴨川です」
「……いいところだな」
「一度、来て下さい。すでに老後のこと考えて、土地用意してあるんです。一軒家の軒先から海を眺めて朝飯食べて、鍬をかついで畑に出る。ここで首になれば、そんな長年の憧れの生活が、近くなるだけです」
「羨ましい……私と亭主は、目先の仕事のことばかりで、自分の老後なんて考えてもいないから」
「とにかく、生きて帰りましょう」
「それが最優先だ」
「ところで艦長?」
「何だ?」
「こういっちゃ何ですけど、艦長。クビになったらどうします?」
「二つある」
「二つ?」
「不妊治療の病院通い」
高木は、かつて美夜が候補生時代に受けた傷が元で、女性としてかなりの苦労をしていると、軍医から聞いたのを思い出した。
「このトシになって、やっとメドがついたのよ」
「おめでとうございます」
「悩みと言えば、亭主が子供欲しがっていないことかしらね」
「副司令が?」
「他人の子供は可愛がるクセに、自分の子供となれば逃げ腰になるのよ。最低よ。そういう所」
「……立場上、コメントできませんが、もう一つは?」
「もっと簡単だ」
美夜は笑って言った。
「料理学校に通おうと思っている」
美夜率いる“鈴谷”は、魔族軍の命令通り文字列にの下に生じた空間のゆがみの中へと艦を飛び込ませた。
ゆがみの向こう。
そこは―――広大な大地の広がる北米大陸ではなかった。




