僕がどんなに眩しくでも
「解釈は人それぞれだからね」と、そう言う言葉でお茶を濁してしまうのは、実のところ、私は好きではない。確かにそう言われればその通りなのだが、ただ、解釈にも「方向性」というものがあると思う。つまり、Aのことを歌っているのに、見当違いなBやCを持って来て、それも解釈の一つだ、とするのは、私は気に入らない。そんなことしたら、本当に何でもありになってしまって、それは、作者のその歌詞の中に込めた魂に対する冒涜だと私は思う。
『ぼっち・ざ・ろっく!』の『星座になれたら』について解釈したい。正確には、多くの人が誤って解釈しているのではないかという部分を、ここで指摘しておきたいのである。
一番の最後、
『つないだ線 解かないで 僕がどんなに眩しくても』
というこの部分について、ここは額面通り、ぼっちがそう思っている、と解釈するべきだ。というのは、ここは、「ぼっちの本音」が描かれている部分である。つまりぼっちは、輝いている理想の自分を想定して、「僕がどんなに眩しくても」と言っているのだ。ぼっちは、いつまでも星の影でいいと思っているわけでは無い。燦然と輝いて、そしていつかは、金星さえ羨む様な輝きで「僕についてこい」と言いたいのだ。
何しろ、このアニメのタイトルは『ぼっち・ざ・ろっく!』だ。「こんなダメな自分でもいいから愛してください」は、悪いが、ロックではない。少なくとも、ぼっちの目指しているロックではない。他の歌詞でもわかるが、ぼっちは、人一倍輝きたいと思っている。ステージの上では、「こんな自分なんて」と思っていない。欠陥だらけの自分だけど、そんなことはステージの外に置いてきている。だから、ギターヒーローなのだ。戦っている時にヒーローがうじうじしないのと同じだ。ダメな自分、うじうじした自分に対するある種の怒りが、ステージの上で、そして歌詞の上で爆発しているのだ。「私を見ろ!」と。
そういうのは、言葉を変えれば「見栄」というのかもしれない。でもそれが、輝くための条件というものではなかろうか。ステージの上で理想の、最高に輝いている自分を演出する。それが、エンターティナーだ。Show Must Go Onの精神だ。
『遥か彼方 僕らは出会ってしまった カルマだから 何度も出会ってしまうよ 雲の隙間で』
なんて、ものすごくキザだ。でもいいんだ。こんな風に自信満々に言われたら、従ってしまいたくなるだろう? だから、こういうセリフを言えるような人間がロックスターなのだから。
――と、こんな歌詞を受け取って、ボーカルをしていたら、喜多ちゃんがぼっちに憧れを抱くのは、納得がいくだろう。ちなみに二番以降の歌詞は、一番に比べて少し卑屈だ。ただこの曲の場合は、それが良い味を出している。つまりまだ、星としては幼いぼっちの、その歳相応の不完全さが、この曲を完成させている。「友達」というものを知って、だから自分の「孤独」がいっそう際立って――そういう過渡期に生きる未来のロックスターの「今」を垣間見ている。
音楽の楽しさに対しても、友情に対しても、混じりけの無いこの時代。「一瞬」を想起させる言葉が「今」を強調し、そしてたまに入る不自然なハイシットシンバルが、額縁に収められたこの時代を懐かしんでいるという状況(過去を懐かしんでいる「今」)を表現している(つまりは、額縁小説と同じ構造を取っている)。
基本的にアニメは下らないものばかりだが、たまに、本当に良いものがあるからやめられない。その醍醐味を感じられる作品がまた出てきたことが嬉しい。




