フィフティ・シェイズ ~上質な官能作品の見どころ~
『フィフティ・シェイズ』シリーズは、楽しめる人と楽しめない人が二極に別れる代表的な作品だと思う。原作は「官能小説」に分類される作品だが、実のところかなり文学性が高い。単なるエロ小説・単純なエンターテイメント作品ではないと私は、この作品については考えている。
この作品を楽しめる人はそのどこを楽しんでいるのかというと、その小さな部分の要素はたくさんあるが、シンプルに言えば、「男の傷がどう癒えてゆくのか」という、その過程を楽しんでいるのだ。主人公グレイは多くを持ちながら、心の底に深い傷があり、その心の歪さを抱えて、凍えるように生きている。源氏物語の光源氏も実はそうで、だから女性は彼にハマる(沼る)のだ。
単なるエロと、こういった作品の濡れ場の異なるのは、その行為に心の叫びがあるかどうか、である。フィフティ・シェイズなら、主人公のグレイは、恋人のアナに対して、二つの全く矛盾する感情を抱えている。すなわち、無茶苦茶に壊したい、という感情と、どこまでも優しくしたい、という二極の感情である。グレイはアナを縛り、ムチで叩く。しかしこれは、グレイの心をもそうしているのだ。グレイはアナを支配し、鞭打つが、それは実はアナに対してでなく、自分の心にそうしているのである。
グレイは、自分の歪さに無自覚なわけでは無い。映画の説明ではグレイが自分の性質について「無自覚」というような書かれ方をしているものもあったが、これは全くの解釈違いである。グレイは、自分の歪をわかっているから、余計に暴力的になるのだ。その激しいプレイの中で彼の心は、「俺を助けてくれ」と叫んでいる。本当は、理解してほしいのだ。だからこそグレイは、本当の自分を(つまり自分の暴力性を)彼女に開示する。誠実であろうとするがゆえに、自分の異常性さえ彼女の前に露にする。
こういう構造を取る(そしてその部分を描き出すことに主眼を置いた)ものだから、グレイのこの心の葛藤が読めないと、この作品は楽しめない。グレイは、運命の女性がいなければやがて破滅していく、そういう孤独と脆さを持った男である。だからアナが、彼の人生には必要なのだ。アナは、グレイにとって唯一の理解者である。その結びつきというのは、単なる恋や愛ではない。何しろ、グレイにとっては人生も命も、全部がかかっているのだから。(→それくらいのものがかかっていないと、男はこんなに女性に真剣にならない、という洞察も当然あるべきだ)
アナにとってはどうかというと、実はアナも、かなり夢見がちな女性である。とはいえアナの恋は、最初から運命がかかっていた恋ではない。アナにおいては、ただただ、グレイにハマっていっただけなのだ。グレイを引き上げようとしたいがために、その沼の中に、どんどん沈んでいく。その様子のなんと耽美なことか。そしてまた良いのが、アナがこの、ハマっている自分を自覚しながら、そこに興奮し、楽しんでさえいる、というエッセンス。ここがまた、ナイスですね。
さて、最後は構造論的な話で〆ようと思う。
映画では最後、アナが命を落としかける。実を言えば、子供ができた段階で、アナは、グレイを引き上げる上昇力を失ったのだ。そのアナの堕落の危機で、グレイの男としての上昇力が発揮される。アナの死の危機は、グレイを心の沼から上昇させる最後の一押しであった。そしてグレイのその上昇する力で、アナをも引っ張り上げた。「子供を一緒に育てていこう」というのはまさにそれを象徴するセリフである。ここにおいてグレイは、アナに救われているだけの男から、アナを死の運命から引っ張り上げる「男」になった。
ラブストーリーにおける男性性というのはつまり、「上昇力」である。それを男が自覚できるまで、女性は男を支える。構造上、どうしても最後の一押しは、女性の命がかかってしまう。しかしそれでも良いのだ。というより、そこがまた、美しさでもある。
こういった種類の作品が楽しめない人は、非常にもったいないので、ちょっと見方を変えてみてほしいと思う。「結局こうだろ」とまとめられない部分に、その作品ごとの本当の良さが眠っているものである。




