涙を流しても次へ、皆で戦おう
志村けんさんが亡くなった。
言葉も出なかった。泣いて日を過ごしてしまった。それでも涙は、溢れ溢れ、溢れていく。動画サイトで「志村けん」を検索する。そこに、生きている「志村けん」を探して。バカ殿が、ひとみ婆さんが、変なおじさんが、面白ければ面白いほど、涙が溢れてくる。
私はこんなに、志村けんさんが、自分の心にとって重要な存在だとは思っていなかった。精神的な支柱を、それも、大きな大きな、致命的な支柱を外されたような気がしている。逝くにしても、どうして今なのか。新型コロナウィルスなのか。
そうして一日中ぼんやりして、志村けんさんのコントを見て、寝られない中で不意に浮かんだのは、「負けてなるものか」という負けん気だ。それは、新型コロナウィルスに対してもそうだし、そのあとに控えている、「事後処理」についてもそうだ。きっと、世界中貧乏になる。そして芸術・芸能の世界でも――恐らくこの事態が収束する頃には、もっともっと多くの人命が(本当に残念で嫌なことではあるけれど)世界中で失われていくのだろう。
年上からこの世界を卒業されていく。私たちの感性、人生観、思想・行動規範哲学の根幹を成していた人物が、どんどん、卒業していく。その時に私たちは、その時にこそ、今だからこそ――先人に追いつけ追い越せと、本気でその道を進んでいかないといけない、そう思う。お笑いはどうだ、映画は、音楽は、そして文芸はどうだ。
これからも多くのすばらしい才能が、偉人が、消えていく。その時に空は真っ暗になるだろうか。それとも、今は地上にある星が飛び上がって、空を明るくするだろうか。地上の星でもいい。地上から、空から、もっともっとまばゆいばかりの光で、この世界を照らせるだろうか。
このたび、一つの大きな一等星が、雲に隠れてしまった。なんて悲しいことだろう。あぁ、本当に悲しい。でも、悲しみながらも、その星が見えなくなったことに打ちひしがれて俯くのではなく、また、いつまでもその星の影を追うのではなく、新しい一等星に成るべく、自らを磨いていかないといけない。二等星でもいい、何だったら、六等星からだって良い、星屑の小さなガス雲のようなものの一つでも構わない。
立ち向かうしかない。悲しみは尾を引くものだ。血液を流れて、いつまでも流れていくものだ。癒える悲しみ、消える悲しみがある一方で、決して消えない、体の中を流れ続ける悲しみもある。でも私たちは、立ち向かうしかない。ある人は楽器で、ある人はラケットで、包丁とまな板で、金槌で、経理ソフトやパソコンで、そして、ペンとキーボードで。
大地震、津波、火災、洪水、そしてウィルスの流行。乗り越える度に強くなってきた。だから今回も、絶対に乗り越えられる。絶対に乗り越えられるから、皆、それぞれのフィールドで頑張ろう。この悲しみを共有し、力に変えてゆこう。




