ドラクエⅪ ~過ぎ去りし時を受け入れたかった~
ドラクエⅪのストーリーが、どうしても納得できない。どこか納得できないかというと、主人公が、時間を遡るところだ。全体を言えば、ものすごく面白い作品だった。だからこそ、この腑に落ちない思いも強くなる。時を遡るというストーリーにしたことで、ドラクエのテーマ――特に今回の大きなテーマだった「勇者とは何か」が薄れてしまったのではないかと思うのだ。
この作品のどこが面白かったか、琴線に触れたかというと、それはやっぱり、絶望から立ち上がる所だ。魔王の手の平の上で転がされ、そうとは気づかず世界樹に赴き、そこで、主人公は勇者の証を奪われる。魔王は手に入れた勇者の力を利用して世界樹を枯らし(ここの演出は鳥肌が立った)、文字通り世界を、暗黒に染め上げた。この絶望感、屈辱感――なかなか味わえるものじゃない。主人公はからくも助かるが、助かったが故に、世界の荒廃を目の当たりにすることになる。3Dで表現されていた美しい自然、国、人々、町――それが一瞬にして、全て奪われてしまったのだ。こんなことならいっそ死んだ方が良かったのではないかと、プレイヤーすら絶望するような状況だ。ここまで世界が、ストーリーの中で破壊されたことは、これまでに無かった。
魚の姿に変えて主人公をかくまった海底王国は魔王軍の襲撃をうける。人魚の女王は主人公に望みを託し、上昇する渦にのせて主人公をその襲撃から守るのだ。このシーンも、本当に良かった。渦に乗せられて逃がされる主人公。入れ違いに、魔王の軍勢が海底王国に、そして女王に殺到してゆく。女王はその時に言うのだ。「勇者とは! 最後まで決して諦めない者のことです!」。あぁ、この言葉を思い出すだけで、涙があふれてくる。かつてアバン先生も同じ事を言っていた。そうなのだ、勇者とは、決して諦めない者のことなのだ。そしてそれを勇者に告げる女王の毅然とした振る舞い、そして強い瞳の光――その先には、勇者という希望がいる。
主人公は、かつて美しかった――そして今はすっかり姿を変え、地獄のようになってしまった世界を歩き回り、少しずつ仲間と再会してゆく。しかしこの旅もつらい旅だった。ただフィールドを歩いているだけで辛いのだ。破壊され尽くした世界を観なければならないのだから。その世界を目に焼き付けながら、仲間を探してゆく。魔王に対する怒り、そして正義の心が、その中でふつふつと湧き上がってきたものだ。
やがて主人公は、魔法使いの姉妹の故郷をおとずれる。そこで、仲間であったベロニカの死に直面する。ベロニカは、世界樹から主人公や仲間たちを、全ての魔力を使って、逃がしたのだった。だから主人公も、他の皆も生きていたのだ。
主人公は、人魚の女王やベロニカや、他の登場人物に生かされた。彼ら、彼女らは、主人公ならなんとかしてくれる、主人公が生きてさえいれば必ず、という希望を持っていた。世界のため、正義のため、悪を討つため、そのために皆、自分のできることを命をかけて行ったのだ。皆、自分の役割を知っていた。定めから逃げなかったのだ。
よく、「運命なんて壊してやる」とか「運命なんかに屈服するものか」というような考え方を是とする作品を目にするが、ドラクエはそんな薄っぺらい「運命」なんて描いてはいない。ロールプレイングゲームの「ロール」とはまさに「役割」で、世界における自分の「役割」を見つけてゆくところに、このファンタジー作品の素晴らしさがある。ドラクエⅦの副題は「人は誰かになれる」だったが、この「誰かに」は「誰にでも」ではないのだ。この違いは大きい。ドラクエⅦでもまさにこの「運命」「宿命」「役割」というものを探求する内容となっていた。
やがて主人公は、多くのものを失い、心も深く傷つく中で、しかし最後には勇者としての役割を果たし、魔王を見事打ち倒す。多くを失ったが、しかし世界樹は蘇った。失われた命は、これから生まれ来る命の礎となったのだ。そして生きている者たちの心の中に、命をかけてこの世界を守ろうとした人々の魂が刻みつけられ、生き続けてゆく。セーニャがベロニカの力を得たシーンは、そのことを示している。
ここまでは完璧な物語だった。しかしこの後主人公は過去に飛び、過去のあの時――魔王が世界樹を枯らしたまさにあの時に戻り、魔王による世界樹の破壊を阻止し、倒してしまう。この時間軸では、世界は平和なままである。魔王よりも強い大魔王というのも出てくるが、世界が壊されることはない。誰もあの絶望を知らない世界になる。知っているのは、主人公とプレイヤーだけだ。
過去に戻るとき、ドラクエお決まりの「はい」「いいえ」の選択がやはりある。「はい」にしなければストーリーは進まないから、「はい」にするしかないのだが、自分なら、「いいえ」だった。だからそこで、私は一個データを作って保存した。その後「はい」にして、過去に戻って全クリしたわけだが、それは、半ば強制された選択だった。同じ事を考えた「勇者」は、他にもたくさんいたのではないだろうか。私はここで過去に戻らず、失われた命を受け入れて、これからの時代を切り開いてゆくことこそ勇者の役割だと思ったのだ。ベロニカを助けに行くというのは、主人公のエゴであって、勇者はそんなことするはずがない。過去に戻るというのには、世界を壊すかもしれないという、大きな危険が伴うのだ。言い方を変えればそれは、ベロニカが守ろうとした世界を危険にさらすことであり、つまりそれは、ベロニカの魂と信念に対する冒涜だと私は思う。人魚の女王も、「勇者とは」の言葉の前に言っていたはずだ。「前を向きなさい、振り返ってはなりません」と。
ドラクエⅥではどうだったか。少し状況は違うが、主人公は魔王を倒すことによって、幻の大地と現実の世界とを完全に分断させた。それはつまり、幻の大地の多くの愛する人々との別れを意味していた。それでも主人公は、勇者の役割を果たしたのだ。決してバーバラと別れたくないとか、そういったエゴで役割を放棄したりはしなかった。世界を正しい形に戻し――そうだ、ドラクエⅥでも、その後には希望が生まれたのだ。次世代への希望が。
PSリメイク版のドラクエⅣにおける第六章も、私はあまり受け入れたくなかった。ドラクエⅪの過去へのワープも、それと同じように、私にはかなり受け入れがたい。作品は面白かったけれど、でも、やっぱり未だに受け入れられないでいる。




