もののけ姫の結末
実はもののけ姫については、複雑な思いを持っている。
好きだけど、好きなんだけど、でも、同じくらい憎い。
なぜかと言うと、あの結末が気に入らないからだ。「お茶を濁したな」と観るたびに思う。監督の意図があるのは重々承知だが、それはちょっと、違うんじゃないですか、という所を今回は書いていきたい。
もののけ姫のテーマを語る上で一番大事なこと、そのことを探る鍵はずばり「なぜシシ神がアシタカを助けたのか」だ。所説は置いておく。
まず、シシ神は何者か。
生と死を司る神である――という説明だけでは、物語のテーマはつかめない。実はもののけ姫には、三つの勢力がある。一つは人間、一つは動物、そしてもう一つが自然である。シシ神は、コダマたちと同じように、自然の勢力に属し、その化身でもある。だからシシ神は動物の味方でもないし、人間の味方でもない。シシ神には自然の存続という目的があった。
それぞれの勢力の関係を整理すると、動物は、その生活の根底に自然が無ければ生きてゆけないので、自然の側についている。一方人間は、自然を破壊して勢力を拡大しているので、動物とは対立関係にある。自然の化身であるシシ神はというと、動物と人間の対立によって、いっそう自然が破壊されてゆくのを知っているので、どちらかを滅ぼすのではなく、調和を求めている。
動物と人間の調和無くして自然の存続はない。その実現には、動物と人間の境界にいる者、どちらの側にも所属し、同時に所属しない者が必要だった。それが、アシタカだった(サンは実質的には動物の側であるが、助かった理由は後述する)。
シシ神の生と死を与える判断基準は、「自然にとってどうか」であった。オッコトヌシもモロも命を奪われたが、それは、彼らが人間と共存する気が無かったからである。シシ神は、「共存」こそ自然の存続の可能性だと信じていたのだ。他方アシタカは一度目、シシ神に命を奪われなかったが呪いは解いてもらえなかった。なぜか? それは、機が熟していなかったからだ。
アシタカはあのときまだ、動物たちのことを良く知らず、動物と人間と自然という三つの関係が理解できていなかった。だから、あのまま呪いを解いてしまえば、アシタカが、人間の側についてしまう可能性が高かった。あの時点ではまだ、アシタカはサンのこともよく知らないのだ。アシタカが森のことを愛し、そしてサンに対して、特別な想いを持ち始めるのは、シシ神がアシタカを助けた後のことだ。人間の身でありながら、動物の側にいる者を命懸けて救った――そこにシシ神は、可能性を見出したのだ。動物と人間に調和をもたらし、自然を存続させることのできるのは、この男しかいないと。
自然は素晴らしかった。
美しい水、緑の森、太古の木々、コダマ達。そして、そこに暮らす動物たち。誇り高き狼の一族。そして、サン。アシタカは彼らに出会って思ったのだ、この自然を滅ぼしてはいけないと。だから最後、シシ神はアシタカだけでなく、サンをも助けたのだ。サンを殺してしまったら、アシタカは自然を守ることを考えなくなるかもしれない。サンが生きてゆくためには、豊かな自然が必要なのだ。だからアシタカは、サンがいるから、自然を守ろうという決意を固めるのである。「共に生きよう」という言葉は、その決意の言葉であった。
他方人間ときたらどうだ。
戦争、自然破壊、動物は肉でしかないと考えている。同じ人間同士でさえ、殺し合いをしている。キャラとしては面白いのもいたが、種としてはあくまで利己的だった。しかしそれは、動物の側にも言えることで、彼らも彼らで、全く一枚岩ではない。動物の方も実は誰一人として、自然のことなんて考えちゃいなかったのだ。
動物の方が力を持っている分には、自然にとっては問題なかった。しかし、人間の方が強かった。人間は自然を破壊して種を繁栄させる。だからシシ神は、人間のこの自然破壊をコントロールできる人間を探す必要があったのだ。そしてその人物こそ、アシタカだった。アシタカは人間でありながら動物を生かそうという考えを持ち、また、戦の果てにあるものも知っている。刹那的な人間や動物と違い、アシタカはこの点において、シシ神と同じような視点で物を見ている、ということになる。
と、解釈はここまでだが、私は、もののけ姫におけるこの人間と自然の構図が大嫌いだ。自然はもっと凄まじいはずだ。自然は人間との共存なんて望まない。どうして人間の立場が自然より上なんだ。その前提は何だ。同格ですらないはずだ。自然のちょっとした力加減で、人間の文明など軽く消し飛んでしまうものだ。そういう時になって人間は、「助けてください」と、自然に共存を申し込んでくる、そうじゃなかったか?
ナウシカではどうだった。
オウムがナウシカを助けたのは大地の御心だ、みたいな文脈で人間は解釈しているが、そうじゃない。人間に大地の心なんてわからない。そういう所が人間の驕りなのだ。あれは、オウムという生き物が、命を賭して自分たちを守ろうとしたナウシカという少女を助けたに過ぎない。オウムは、外見こそアレだが、その知能はおそらく、人間を遥かに凌駕している。能力だって、破壊力はもちろんのこと、生物を瀕死の重傷から生き返らせるだけの力を持っている。考えても見てほしい、あれだけの集団でも、まるで一つの生き物のように行動できるのだ。あのような芸当は、到底人間には不可能だ。
ナウシカの自然はものすごかった。
オウムは、動物というよりも、自然の一部と考えるべきで、人間には到底制御できない圧倒的な力を持っていた。最後に人間たちは助かるが、それは、自然に救われたのではなく、まして自分たちの武力に救われたのでもなく、ナウシカに救われたのだ。武力は自然を倒せはしないし、人間にとって良い未来も約束しない(あの巨神兵を見たらむしろ、武力の行きつく先がどうなるか、皆わかったはずだ)。人間が種の存続を考えるならば、ナウシカのように、自然を理解する努力が必要なのだ。武力ではなく、愛なのだ。そういうことを、ナウシカは教えてくれた。
現代の人間の文明はどうだろうか。
人間は自然を支配しているような錯覚を覚えていやしないだろうか。動物を保護したり、森林を増やしたり減らしたりして生態系を操り、自然をコントロールできていると思っている。しかし実際はそうではない。大地震、大津波、火山の噴火、気候変動――荒ぶった自然は、人間の文明など一瞬で破壊してしまう。その時になって初めて人間は、自然の偉大さ、恐怖、自分たちの非力を思い出す。人間は謙虚でなければならないのだ。自分たちも自然の掌の上で生かされている、他の動物たちと同じ一つの種。その謙虚さがあって初めて、我々は種としての存続の可能性を見出すことができる。
ナウシカと、そして現代文明と自然のありようにおける精神的な問題とを照らし合わせた時、もののけ姫の結末が、いかに残念なものだったかはもう、言うまでもないだろう。最後になってエボシ様が、自然と共存しようみたいなことを言う。その心境の変化は何だ。手を喰われたからか? タタラ場が壊されたからか? そんなのは、一過性の恐怖からではないか。恐怖を忘れたら、この人間たちはまた凝りもせず、同じことを繰り返すに決まっている。
あれだけ自然を魅力的に、美しく描いたのだから、最後はそれら全てが一瞬にして滅び去った方が良かった。申し訳程度に生えてくる草など必要なかった。タタラ場とそこで暮らしていた人間だけが残り、茫然と、生命を失った山を見上げる。森が消え、火を燃やせなくなったタタラ場には、滅びの道しかない。
命を助けられたアシタカは死んだ大地の上で思うはずだ。
なぜ俺を生かしたのだ、サンを生かしたのだ。
タタラ場には滅びの道しかなく、そしてサンは、サンはどこへ行けと言うのだ。もうサンには、帰る場所もないのだ。どこで生きてゆけばいいのだ。いっそ殺してくれればよかった。シシ神様、どうして私たちを生かしたのですか。これから始まる辛い生を「生きろ」というのですか。
――と、これくらいの方がジブリらしいのではないだろうか。
自然を殺した罰を自らの生によって受けていくという人類の縮図。人間の業の深さが強調されて、観ている方は考えさせられる。痣とか死とか、そういった表面的な呪いは解消されたけれども、もっと恐ろしい「生」という呪いをかけられて終わる。――売り上げはどうだったかわからないけど、こっちのほうがたぶん、良かった。
もののけ姫の結末から、ジブリ作品の魅力が薄れていったのではとよく思う。絵がどうとか、ストーリーがどうとか、キャラクターがどうとかではない。ジブリの作品に、これまであった「熱さ」がなくなってしまった。ジブリを特別視するわけではないが、それでもやっぱり、特別なのだ。宮崎駿は、私にとって特別なアニメ監督だった。トトロ、ラピュタ、ナウシカ……普遍的な良さがあった。そしてとにかく、熱かった。ぽんぽこ、魔女の宅急便は楽しいだけではない魅力があった。紅の豚だって、素晴らしかったじゃないか。
もののけ姫は名作じゃない。
大好きな作品なのに、あれは名作じゃない、残念ながら、結末を失敗した。私はあの結末に、製作者たちの逃げを感じた。大衆受けするように、あれで手を打った、妥協した、それが見えてくる。いや、本当はわからない。私の思い込みなのかもしれない。しかし私には、もののけ姫がもてはやされるその賑やかな声の裏で、宮崎駿の泣き声が聞こえてくる。――これで良かったのか、本当にこんなので良かったのか、こんな程度でお前たちは満足してしまうのか、と。




