第十三話 Gematria
「ヒャハハッ! あのバカ女、そういう手立てでもってこの物語を変えようとしてんのかよ」
暗雲。否、それよりも深い夜。否、まさに闇そのもの。それまで地上を照らしていた太陽などとっくに闇に呑まれてしまい、不吉な空気だけが力帝都市を、世界を包み込もうとしている。
その最中、怒りに己の身を焦がし尽くした少年を見下ろす一人の男の姿。男は空と同じような真っ黒なロングコートに身を包み、白髪とも銀髪ともとれる髪を風になびかせ、そして深紫の淀んだ瞳で全ての行く末を見届けようとしている。
「主人公の目的を、根底から潰す――確かに物語はいつも、主人公がなすべきことをなしてこそ正しい結末を迎えることができる。だからこそ穂村正太郎にとっての柱の一つである“子乃坂ちとせを守る。そのための力を得る”という大義を、根元からへし折った……」
目的を失った主人公など、ただの一般キャラにしか過ぎない――男は穂村を評する言葉として、このような言葉を呟いた。それはまるでこの世界そのものに何かしらの意図があるかのような、まるで別次元からこの世界を俯瞰して見ている者が発するような言葉であった。
「『誇大妄想女』にしては考えたみてぇだが、一つテメェはミスを犯しちまっている」
しかし代償として、一人の主人公と同格――否、それ以上の『悪』を生み出してしまったことを、力帝都市の市長は気がついていない。
「『主人公』ならある意味目的が単純な分、道筋を制御しやすい。だが自由奔放、我が道を行く『悪』ならばどうなる? それも相手はこの世界における最強格の『力』といえる『衝動』を、『大罪』を二つも抱えている存在だ」
もしこの場に穂村のことを知る第三者がいたとすれば、一体どういうことなのかと男に問いかけたであろう。しかし男は自己完結をするかのように勝手な結論をつけ、そして満足するかのようにその場を去って行く。
「じゃあな、クソ女。オレは別にこの結末であろうと目的を達成できるが、テメェはここで野垂れ死ぬ。まっ、生きていたらまた殺りあおうぜ。ヒャーハハハハハハッ!!」
男はそのまま姿を煙に巻くかのように黒煙に消え、誰に聞こえるであろう高笑いだけをその場に残していった。
◆ ◆ ◆
――憤怒。生きとし生けるものであればこの感情を一度も持ったことがないというのはあり得ない話であろう。更に火事場の馬鹿力という言葉もあるほどに、人間の怒りの力というものは、本来その者が持つ力とはかけ離れた計り知れない力をもたらす。
――それは例外なく、『憤怒』という力にも適応される。
激情に特別な人格など必要ない。ただ己を突き動かす『衝動』だけが『憤怒』の想いを、力を駆り立てる。
そして『憤怒』に身を任せようとしている穂村正太郎にとって、『穂村正太郎』という人格など、とっくに必要なくなろうとしていた――
「――ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!」
地を揺るがしながら這い、心の臓腑に恐怖を刻みつけるような咆吼。それは人間の持つ怒りというよりも、生命そのものが放つ憤怒の声といえるものであった。
発した主の姿もまた、もはや穂村正太郎という人間の原型をかろうじて保っているばかりで、身体の一部は既に真っ黒な闇に浸食され始めている。
穂村正太郎はまさに、自分の望む姿――怒りに身を焦がす一つの『焔』と化そうとしていた。
「っ……こんなもの、我は想定していない……!」
全知ではなく、全能たる者が発した一言。ある意味では発してはいけなかった一言を、『全能』たる市長はこぼしてしまった。
「…………」
燃えさかり、手当たり次第に蝕む黒い焔。しかしまだそれは本格的な浸食活動を行っておらず、あくまで穂村の周囲一辺を焦がし尽くすだけ。
「しょうたろー!」
背後から立ち上る黒炎。それまで逃げていた足が止まり、一瞬の状況変化にそれまで呆けていたイノとオウギ。とっさに穂村を止めようと駆け寄ろうとしたが、それを力尽くで止めたのは、他でもない時田マキナと森や四姉妹の長女、守谷小晴だった。
「待ちなさい! あれはもう、アンタ達の知る『焔』じゃないわ!」
「違う! あれはしょうたろーだ! しょうたろーが苦しんでいるのだ!」
出来ることならば時田自身も、そう信じたかった。しかし自身の持つ観察眼が、能力がそれを否定する。
「あれはもう、アタシ達の知る穂村じゃないのよ……」
「正太郎さん……」
『衝動』に駆られた少年を、『憤怒』に呑まれた少年を小晴は哀れむような視線で見つめる。しかしそれ以上は何も出来ず、危険なこの場から妹たちを連れて立ち去ることを優先する。
「とにかく逃げましょう、第十四区画に……いえ、もっと遠く、できる限り離れた区画に」
「偶然ね。アタシもそれに賛成よ」
既に障壁は逃げ道を絶とうと目の前に立ち塞がっている。どんな手を使ってでも、この場を逃れるに他はない。
「私がドアを作ります。ですので、そこから外へ」
小晴の能力である『投影』を駆使して、ありもしない外へとつながるドアを障壁に作り上げると、そのまま全員を外へと出して自らも脱出をはかる。
「……正太郎さん」
ドアを閉め、完全に一人の少年を置いてきぼりにする前に、小晴はその目に焼き付けるかのように、後ろを振り返って燃えさかり崩れ落ちる第三区画を見つめて呟く。
「……『衝動』なんかに、負けないで」
ドアは固く閉ざされると、再び元の壁へと静かに消えていった。
◆ ◆ ◆
――戦いが始まる。想像を絶する、人智をあざ笑うような圧倒的な暴力のぶつかり合いが始まる。
「…………」
互いに無言のままにらみ合い、静かに時が過ぎていく。
『憤怒』対『全能』。焼け落ち、火の海に沈んでいく一角にて戦いの火蓋は――
「……ッ!?」
――『憤怒』の突進からの膝蹴りによって、切られることとなった。
「がッ――」
一瞬で意識を持って行かれない程に、深く突き刺さる右膝。しかし『全能』に悶絶している暇などない。怒り任せの災禍を纏った左の拳が右ほおを捉え、打ち抜かれた直後に今度は右の拳が市長の左ほおを打ち抜く。
そして先ほどのお返しとして、憤怒の焔によって加速された高速回転からの蹴りが、一人の市長の身体を遙か彼方まで吹き飛ばす。
「がはァッ!!」
壁に叩きつけられ、思わず口から血を吹き出す『全能』。しかしそれだけでは『憤怒』の憂さ晴らしが止まることはなかった。叩きつけられた直後に目の前に現れる黒炎、そして再び繰り出される膝蹴りが背後のビルに巨大なクレーターを発生させ、更に市長の肉体をめり込ませていく。
そのまま無残に無抵抗に地に落ちていく力帝都市最強の市長。この場に第三者がいたとして、『全能』と称される筈の市長がここまで完膚なきまでに叩き潰される光景を見たとしても、到底信じられないものでしかないだろう。
そしてそれは一番、『全能』たる市長自身が感じ取っていた。
「ば、かな……能力が、効いていない……!?」
初撃の膝蹴り。呆けていた己の腹に深く突き刺さった一撃は、甘んじて受け入れることができる。しかしその次、最大限防御力があがるよう能力を使用したにもかかわらず、その防御力を貫通したダメージが二回、自身の顔面を捉えた。核爆発すら耐えられるはずの防御力を誇る肉体を揺らす拳を二度受けた時点で、逆に言えば市長の思考は混乱により一時停止状態にまで陥ってしまっている。
そこへ追撃の回転蹴り。そしてトドメの膝蹴り。一連のシンプルな攻撃ながら、全てにおいて『全能』の力を『憤怒』は超えていたということになる。
「あり得ない……私は、私は全能だ!! 全ての力の頂点に立つ――」
「うるせぇ」
気丈に立ち上がろうとしたところで、対戦車ライフルを彷彿とさせるような、音速を超えることで空気を破裂させる、衝撃の右ストレート。その一撃は市長の身体に深く突き刺さり、背後から硝煙を突き抜けさせるまでに至る。
「ごっ!?」
極限までの一点への破壊力のこもった黒炎の一突き。それは再び市長に無様に両膝をつかせるに十分だった。
しかし市長の方も、これで終わるわけにはいかなかった。
「……あり得ない……! こんなことが、あってたまるかぁああああああああああああああああ!!」
不意な拳の振り下ろし。天を揺るがし大地を割り、障壁までヒビを入れて瓦解させる程の破壊力。
「我こそが、『全能』! 我こそが最強!! 我らこそがッ!! 『全知全能』なる者ぞッッ!!!」
神を同格とし、あまつさえに見下さんとする高慢さを前に、黒炎を身に纏う少年の中の『高慢』さが、応じるように乱暴な言葉を吐き捨てる。
「ハッハァ!! 高々『全知全能』程度の糞アマが、頭に乗ってんじゃねぇ!! ブチ殺してやるよォ!!」
威嚇をするかのように、力を誇示するかのように。少年は猛烈な焔を吹き上げて敵を見定める。
――最強対最強。戦いは、既に始まっていた。




