20-2
馬の背で風を受けて走っていると、前の世界での事を少し思い出した。
私のお父さんは昔、私が生まれる以前にスポーツカーを何台か乗り継いでいたそうだ。
お母さんと結婚して私が生まれてからは、ファミリーカーに乗り換えたが、時々レンタカーでオープンカーを借りて来て私を乗せてくれた。
私は運転できないから、お父さんの言っていたハンドリングがどうとか言うのは分からなかったが、ただ、屋根が無くて頭上を風が流れて行くのが気持ち良かったのを覚えている。
自転車で風を受けて走るのも楽しかったが、自転車だと家の近所くらいしか走れないのでそんなにスピードが出せない。
私のは電動アシストが無い自転車だったので、自分の足の力だけで漕がないといけなくて、疲れてしまうのもあった。
特に夏は汗だくになるから、自転車に乗るのは春や秋が丁度良かった。
自転車も良かったが、レンタカーでは観光地の緑豊かな郊外の道を走るのは最高だった。
今こうして緑の丘をジルヴァに乗って駆けていると、前世でオープンカーや自転車に乗っていた事を思い出す。
そんな事を考えれるくらい、私はレースの緊張感なんか忘れて、乗馬を楽しんでいる。
「いけない、いけない。一応勝負なんだから、真面目にやらなきゃ」
私はそう呟いて、先行するザビーネさんを見る。
スタート直後に差がついたが、その後はあまり離されずに付いて行けている。
丘を越えると、道が森の中へ続いているのが見える。
踏み固められた広い道なので、スピードを落とさなくても良さそうだ。
ザビーネさんとの差はまだ縮まらない。
午前中の練習で彼女とその愛馬は結構なスピードで走っていたので、こちらより疲労が溜まっていると思っていたが、そんな事は無かった様だ。
全力疾走に近いスピードで走っていた様に見えたが、ある程度はセーブしていたらしい。
それ以前に馬のスタミナを舐めていた。
「・・・そんなに甘くは無いか。乗馬歴はザビーネさんの方が長いはずだもんな」
私はそう呟く。
このままでは追い付けないので、何処かでこちらのペースを上げないといけない。
このまま森の中を進むと、折り返しの場所にそこまで走った事を証明する印を渡してくれる人が居るはずだ。
不正を防ぐために印がどんな物なのかは私達には教えられていない。
仕掛けるなら、それを受け取ってからだなと考える。
森の中を十数分ほど駆ける。
張り出した木々の枝が直射日光を遮るので、空気は更に冷たくなっている。
ジルヴァの上がり始めた体温が少し落ち着く。
道が緩やかにカーブしているので、前を行くザビーネさんの姿は見えなくなっている。
どれくらい離れているか分からなくなったから、不安に成ってペースを上げたくなるが、そこはぐっと我慢する。
暫くして前方から蹄の音が聞こえて来た。
ザビーネさんの乗る白馬が、向こうからやって来る。
「この先が折り返し地点みたい」
私はそう呟く。
すれ違う時、ザビーネさんが不敵に笑うのが見えた。
私達との差を確認して安心したのかも知れないが、それでもその顔には少しだけ焦りの色が見えた。
自分がどれくらいリードしているか確認したけど、余裕綽々とまでは言えないって事だろう。
案の定、少し走ると私とジルヴァも折り返し地点に到着する。
手綱を引き馬を止め、待機していた係の人から印の赤いハンカチを受け取る。
直ぐに来た道を引き返したいけど、私は少しの間だけ休憩をする。
腰に挿していた水筒から飲み物を飲む。
ユキが作ってくれたハチミツと塩入りのスポーツドリンクだ。
私は一口だけ飲んで、残りをジルヴァに飲ませてやる。
ペットに人間と同じものを与えるといけないとは言われるけど、それは体重の少ない犬や猫の場合だ。
馬は犬猫よりはるかに大きく体重も重いし、普段は草しか食べていないのだから、多少の塩分は問題ない。
と言うか、牧場では塩分補給の為に岩塩の塊を置いておいて、たまに舐めさせたりもする。
ジルヴァの荒くなっていた息が整ったのを見てから、私は軽く鞭を当て、元来た道を走らせる。
来た時より少しスピードを上げさせる。
ジルヴァは私の意を汲んで素直にペースを上げてくれた。
暫く走っても中々追い付かない。
休憩の時間が長過ぎたかと後悔し始める。
それでも、なるべく焦りを表に出さない様にする。
馬はそう言う騎手の態度に敏感だからだ。
往路に比べて、復路は大分良いペースで走れている。
もう少しすれば、必ずザビーネさんの背中が見えてくると信じる。
でも少し弱気になったりもする。
乗っている馬の底力はそんなに違わないはずだ。
ザビーネさんの白馬は確かにいい馬だけど、ルカさんが貸してくれたこのジルヴァだって負けてはいないと思う。
そうすると、乗っている人の力量の差が出ているのかも。
あと、向こうと差が有るとすると、騎手の体重だ。
私は女性にしては背が高い方なので、その分体重もある。
それでも体重差は10kg有るか無いかのはずだ。
そう信じたい。
森の中の道の半部位を戻って来た辺りで、漸くザビーネさんの背中が見えて来た。
蹄の音で気付いたザビーネさんが、こちらをチラリと振り返り、乗っている白馬に鞭を入れる。
一瞬ペースを上げた白馬だが、直ぐに元のペースに戻る。
走り詰めだった疲労がここに来て出ている様だ。
「この調子なら、勝ち目が有りそうかな?」
また少し差が開いたが、私はジルヴァに今のペースを守らせる。
まだまだ先は長いのだから、ここで急いでもしょうがない。
私はザビーネさん達だけに注意を向けない様に気を付ける。
先行者を意識し過ぎると、そのペースに惑わされるからだ。
視線をザビーネさんの先の道に向ける。
ふと、風景に違和感を感じた。
道の脇の茂みにうごめく黒い塊が見える。
「熊だ!!」
私はそれの正体に気付いて、叫ぶ。
しかし、後から追い掛ける私達に意識を割いていたザビーネさんはそれに気付くのが遅れた。
先に気付いた白馬が急に止まろうとする。
乗っている馬が意図しない動きをした事で、ザビーネさんが鞍から放り出される。
「え?」
何が起きたのか分からないままに彼女の身体が宙を舞う。
「ザビーネさん!!」
私が叫ぶ。




