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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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九十三、外征の準備

 姉小路家日誌天文二十三年水無月十一日(1554年7月12日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、若狭及び丹後の平定に付き将軍家からの命を受けたことを一同に諮り候。当家は佐幕の家なれば、若狭武田家の支援を考え候えども、まずは民の安定をば第一とすべしと改めて方針を確認致し候。大遠征なれば支度も充分に仕るべく、諸方に手配りを致し候。まずは服部保長、情報なきとて情報収集を急がせ候事を確認致し候。更に、水軍の建軍についてもご確認之有、能登七尾城下に設置いたし造船方、既に新造の安宅船二隻、関船二隻及び買い入れし中古船の改装にて船は葉月の終わりまでには大方完成いたすと見えたり。ただし、将なし。一同に諮ると滝川一益、九鬼嘉隆を推薦致し候。引き抜きに付き滝川一益に支度金を持たせ早速出立させ候。

 また、七太郎、珍しく列席し、船に関心を持ち候に付き、堺表、更に場合によっては遠く九州の地に向かいたき儀を述べ候。公、堺までは許すがそれ以上は許さず、ただ加賀にて渤海の文物と触れ申すよう命じ給えり」

 ここで分かるのは、草太は将軍家に謁した時点ではまだ若狭に対する野望は全く持たず、むしろ単に将軍家に謁見する際の不確定要素の一つとして、つまり将軍家に服していない勢力の存在を危惧していたという点である。室町幕府に正面から反抗する勢力は、まだこの当時は存在しない。甲斐武田家にしろ越後長尾家にしろ、条件付きではあるものの将軍家の命によって停戦に応じたりしていた時期である。室町幕府は力を落としながらも、その権威を保っていたといっていい。ただし、武力は持たず、張子の虎に過ぎないと看過されて畿内の諸大名には良いように扱われていたのであるが。

 また、重要な記述として、姉小路家自身が姉小路家を「佐幕の家」と定義している点であった。つまり、室町幕府という体制を、少なくともこの時点では受け入れていたと言えるのである。これは重要なことである。必ずしも姉小路家の武力統一による天下を、少なくともこの時点では目指して居ないことが分かるためである。

 もう一つ重要な記述として、姉小路家水軍の発足がこの時期であるということが読み取れる。姉小路家水軍については、その存在自体が地味ではあるものの、日本海においては北回り航路全体の守護者として北は東北、蝦夷の交易から南西は博多までを守護したと言われるほどの勢力を誇るが、その発足がこの時期であるという。

 更に、七太郎が軍議に出席できるほどの地位を持っていた、出席したという確実な記述を発見できるのはこれが初であるという事も興味深い事実である。草太が七太郎を高く買っていた、その証座であろう。また、加賀が渤海と交易していたことは著名なことではあるが、姉小路家日誌にて確認できるのもこれが初出である。



 姉小路家が将軍足利義輝の要請を受けて、若狭、丹後の平定に力を入れることになった次第については既に述べた。だが、そもそもの若狭、丹後の状況が不明であった。

 無論、将軍家への謁見の際に乱入される可能性を測るべくある程度は細作も入れてはいるものの、詳細なことは全く不明であり、これから探ることとされていた。ただし、いくつかの勢力に分かれており、朝倉家、丹後守護一色家と抗争を繰り返し、また内部で内部抗争を繰り返し、一部は三好家の支援を受けているとも言われる。いずれにせよ、混沌としていたのは間違いなく、これを平定する、というのは武力統一が不可欠であり、場合によってはそのまま丹後一色家のみならず家臣を丹波守護代内藤家に入れて乗っ取った三好家や混迷のあおりをうけて将軍家を推している細川京兆家とも戦いが起こる可能性も少なからずあった。しかも、平定後に軍を返すとすれば、若狭武田家などその地を治めるものに相応の力がなければ結局は軍を引いた後に元に戻ってしまう可能性が高かった。

 これは即ち平定には長期的な展望をもって望む必要がある、ということを意味していた。場合によっては、若狭武田家を名ばかりの守護にして姉小路家の実質的な領土化も検討する必要があった。同様のことは丹後にも言えた。しかも、場合によっては地侍の強い丹波をも平定する必要があることも示していた。


 そうすると、兵は数千人程度ではらちが明かず、少なく見積もっても一万人規模で必要となる可能性が高い。

 特に水運を使えば兵糧その他を運ぶことはさして難事ではないとはいえ、万余の軍を維持するために水運を使うとすれば、北回り航路の圧迫や混乱を引き起こしかねない。そもそも、能登以西の日本海沿岸部は奈佐家が縄張りとしているところであり、奈佐家は丹後の西隣但馬国に根拠地を持つことを考えると、水運を主と考えるのは危険であり陸運を主とすべきであると考えられた。とにかく、若狭、丹後への攻略軍出発までにしなければならないことがかなり多くあり、そう簡単に兵を出せるような状況ではなかった。


 軍議で以上のようなことを服部保長が述べた後、詳細は判明次第に報告いたします、と言って言葉を切った。草太は、安請け合いしすぎたかと少し反省した。数千の兵で出兵し一撃を加えて平定、その後帰国という位を考えていたのだが、それではいけないのであった。

 軍備が整い終わっていないにしろ、この時点でさえ二万程度であれば各所の手配りをしても出兵は可能であった。問題は、その兵站線をどうするか、という点であった。


 一つの手段は水運を使うことであるが、水運を使うにしても、その担い手は姉小路家にはいなかった。

 一応は水軍を作る予定はあった。そのための造船方さえ七尾城下に作り、放生津の船大工を中心に船大工を募って移住させてはいた。船自体も、大型の安宅船を二艘、中型の関船を四艘を取り合えず発注し、能登半島は輪島の津を整備させて根拠地とする、という予定で進められていた。だが、当面はそれほど急がせることもなく、また船戦のやり方自体も誰も知らないが、中長距離からの鉄砲、矢の応酬と小太刀の型を中心とした切込み、というところからすれば、さして陸上の戦と大差はないものと高を括っていたためもあり、将となる人物は手に入れば手に入れよう、程度でしか考えていなかった。

 基本的に、漕ぎ手以外は一鍬衆、鉄砲衆を乗せれば済むだけの話、と簡単に考えていたのである。中核となるべき将は、草太にとって全くの慮外であった。


 だが、実際に水軍を使う可能性が極めて高いとなれば、そのような悠長なことは言っていられない。早急な水軍の設立が必要であった。

 滝川一益の話になるが、船戦は野戦と攻城戦を足して二で割ったようなものであり、また船戦独特の陣形の類もあるため、素人が指揮した艦隊と玄人の指揮した艦隊が戦った場合、相当の兵そのものの差がない限り数の違いなどは生かせず玄人の艦隊が勝つ、という事であった。そのために水軍を設立するのであれば最低でも一人、将となる人物が必要であった。

 草太は、水軍の設立を命じるとともに、水軍の将となる人物を必要としていた。何となれば、沖島牛太郎に奈佐日本介を紹介してもらい、船を与える代わりに何人かを放生津までを縄張りにさせ、代わりに姉小路家水軍の将を務めてもらおう、などという都合のよいことを考えていた。


「誰か適当な将となる、次男三男辺りを知らないか」

と軍議の際に相談すると、滝川一益が一人いると紹介した。九鬼家の次男、九鬼嘉隆であった。聞けば、一時は同じく放蕩仲間であったという。

「あ奴は結局、身を持ち崩し尽くさずに更生し、実家に戻りました。九鬼の家は水軍の家、兄が家督を継いだので今は部屋住みの身の上のはずです。しかも、放蕩の時期に色々ありましてね、実家は居心地があまり良くないはずです。おそらくは実家でも持て余し気味の飼い殺し、というところでしょう。某が行って連れてまいりましょう」

と、意外に簡単に話が進んだ。

 こうして七尾城下に増築させた船大工の工廠で建造された船を中心に、近隣の商家から中古船を購入して艤装を変更して安宅船や関船などとしたものにより水軍が建軍される運びとなった。



 後の話になるが、九鬼嘉隆はやはり部屋住みで持て余し気味、しかも兄に嫡男が生まれたためますます居心地が悪くなっていたところに滝川一益が声をかけ、無事に登用に成功した。

 水夫のについては本職に任せるべきという意見は草太の腹案と一致していたためこれを容れ、一鍬衆や鉄砲衆として新規に徴募したもののうち水夫の経験のあるものは舟手方という、船にかかわる専門付かせた。これは、船に酔わないものでなければ務まらないから、という程度の意味合いであり、一般の一鍬衆や鉄砲衆でも船に酔わないものと舟手方の差はなくなっていった。数年後には、舟手方を務めることができるものは全て舟手方徽章と呼ばれる徽章をつけることで区別し、ますます舟手方とそれ以外の差が流動的になるのであるが、それは数年後の話である。

 ただし九鬼嘉隆は潮の流れが分からないため、しばらくは水先案内人を欲するといった。これについては沖島牛太郎を通じてだれか適当なものを推薦してもらったが、それが録太郎であったことには少し笑った。懐かしい顔もあったものだ。録太郎も気が付いていたようだが、気が付かないふりをしていた。

 水軍についてはまた後に語る機会があろうから、九鬼嘉隆が登用され姉小路家水軍が設立されてからの話は後に譲ることにし、今は軍議に戻るとしよう。



 兵站を陸運を主とするとするとすれば、問題は朝倉領を通らざるを得ない、という事であった。勿論、美濃を通り近江の水運を使う方法もないではない。が、そうなると美濃から琵琶湖までの輸送をどうするのかという問題に突き当たり、南近江の六角家や北近江の浅井家にも話を通さざるを得なくなり、話が複雑化しすぎた。商人の荷としての輸送は、輸送物資の種類が武器弾薬の種類も量も多いことから、誤魔化しきれないと考えられたため、却下された。没収されてはたまらないためである。


 いずれにせよ長い兵站を維持しての長期戦を覚悟する必要があるうえ、最終的な着地点も見極められない問題であり、事前の準備が相当必要であると考えられた。



 軍議も終わりに近づいたころ、珍しく軍議に顔を出していた七太郎が発言を求めた。

「御屋形様、新型銃の作成も鉄砲作成方は問題なく作成できます。能登、それから加賀に来てから興味が船に移っていまして、ぜひとも船に関する研究をしたいと思いまして。そういうことで、堺か、できれば南蛮船が直接出入りしているという九州まで行ってみたいと思うのです。ただ、堺ならば半月もあれば往復できますが九州となると片道で一月は見なければなりません。そんなわけで九州行きの許可を頂きたいと思いまして」

 草太は、堺までであれば許そうと思ったが、九州となると遠すぎた。あくまでの新型銃の生産が軌道に乗っただけであり、棒火矢も擲弾筒もまだ生産が軌道に乗るどころか、生産方法を知っているのは今のところ七太郎だけであった。そのことを指摘すると、それについてはすぐに伝授いたします故、と食い下がってきた。

 しかし、船を研究するというが、となれば試作品の実験船を作ることになるが、失敗太郎のあだ名の通り、それが最初からモノになる可能性は低かった。何隻もの失敗作を経て漸く成功する、そういう種類のものであった。そこまでの余裕は、残念ながら姉小路家にはないと言わざるを得なかった。

 結局のところ、棒火矢と擲弾筒の生産が軌道に乗った後、堺までであれば許す、と草太が決定して終了となった。


 意気消沈している七太郎に、この加賀でも渤海を通じて明との交易も行われている、様々な文物に触れておくが良い、と慰めた草太であったが、七太郎がそれでまた妙なものを作らないかという心配もないではなかった。


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