九十、加賀統一報告と新しい地へ
草太率いる姉小路家は、遂に加賀全域をその支配下に置いた。その次第については既に述べた。
草太はその報告のため、上洛し将軍足利義輝にそのことを報告する必要があった。といっても京ではなく近江の朽木谷であったが。公用のための上洛であるから、途中の諸大名も手を出すことは許されない。それは足利幕府に対する反乱を意味するためであった。
草太は、大聖寺城の改築、その終了を待ち、上洛を開始した。
姉小路家日誌天文二十三年皐月二十四日(1554年6月25日)の項に、こうある。
「姉小路房綱公、加賀一向一揆鎮圧の報告のため上洛、朽木谷御所にて謁見致し候。公、道中にても国元よりの報告書を読まれ、いよいよ内政に余念なく候」
この様子から、そろそろ草太の処理能力の限界として、全ての報告書に目を通して報告書からすべてを把握することが難しくなってきていたことが読み取れる。これが、内政改革として今まで通りに守護代、国司代を置く方向性であれば、おそらく姉小路家は並みの戦国大名にとどまったのかもしれない。だが、そこから少し離れた方法をとったのが草太であり姉小路家であった。その方法については後に譲るとしてここでは触れない。
ただ、残念ながら草太はそろそろ詳細な報告書で細部まで管理するという方法ですらすべてを把握することが困難になりつつあった、それ以外を行う余裕を失いつつあったという現実だけをここでは抑えていただければ良い。全てを視察するなど思いもよらない。草太が、例えば能登半島北部に足を踏み入れたという形跡すら、その沖を船で通り過ぎたという場合を除き、発見できないのである。
草太は、今後について考える余裕を失いかけていた。無論、報告書の処理のために大部分の時間と能力を使わざるを得ないためであった。当初の大戦略、加賀、能登、西越中、飛騨を抑えて戦国大名としての確実な生存権は確保することに成功したし、一向宗の非戦国大名化についても、草太の支配地においては成功した。多少の国人衆がいるにせよ、基本的には自給自足体制が整い、更に鉱山収入と硝石収入で潤い、飛騨の木工品のうち春慶塗は一種のブランドとして確立し、上物になると今まで百文程度だった漆器が金一匁程度まで値が上がることも珍しくなくなった。箱書きに田中与四郎が一筆書くだけで、ここまでの値が上がる。当然、それを独占している御用商のとと屋にも、多少の無理は通してもらえるくらいの貸しを作ることができていた。
だが、草太は考える余裕を失っていた。将来はどうするべきなのだろうか。朝倉家との同盟があるため、朝倉家と事を構えるつもりは今のところなかった。美濃斎藤家とも外交関係はうまくいっており、恒久的な同盟関係を結ぶことも視野に入ってきた。今回の上洛の帰りに一度、大垣で斎藤義龍殿と話をして恒久的な同盟関係を構築することを確認できる、その予定であった。東越中については、服部保長を通じてきな臭い匂いがあるとは聞いているが、今のところは兵糧と塩の買い付けもうまくいっており、椎名家及びその背後にいる越後長尾家とも外交関係は悪くない。唯一外交関係が悪化しているのは信濃方面であり、甲斐武田家の抑える地域であった。草太は甲斐武田家の強さを、歴史としてよく知っていたため、できれば合戦は回避したかった。
姉小路家としての領国拡大は、別の理由からも問題があった。既に報告書が読み切れない、領内の詳細な把握が困難であるという点であった。この問題を何とかしなければ、姉小路家の領土拡大は内政細部を疎かにすることとなり、確実にそれは姉小路家を内部から腐らせていく原因となるのは明らかであった。
もう一つ、草太が考えなければならないのは、このまま足利幕府に従い続けるべきかどうか、という点であった。最終的には戦国を終わらせる、という志は志として、それは必ずしも姉小路家による武力統一を意味しない。一つの道は、朝倉宗滴が示したように佐幕、即ち姉小路家をはじめとする諸大名が足利幕府を補任する形で戦をなくする、というのは、確かにあり得る話であった。それに失敗したから戦国時代があるにしても、それは姉小路家の武力統一にした処でおなじことであった。有力大名による連合政権、という形も、確かにあり得る形であった。
いずれにせよ、姉小路家の最終的にとるべき形を決めるのは、草太自身でなければならなかった。その意味でも、いくつかの腹案を用意しなければならないと、草太は考えていた。
そして、意図的に草太が考えないようにしていたことがあった。それは、畿内の情勢であった。畿内は、将軍家自身が朽木谷に逃げ落ちるしかなかったくらいに混沌を極めていた。小大名が乱立しているだけならばまだ良い。旧勢力の畠山、細川、細川から実力で分離独立した三好、更に一向宗の総本山である石山本願寺、その中で武力侵攻そのものを完全に封じている堺など、どこでどうつながってるかも草太には分からなかった。しかもそのただなかに、天皇陛下はおわし、公家もいた。
一切問答無用とばかりに武力統一する、というのが一番簡単かもしれないな、とは思わないでもなかったが、さてその方法をとるべきかというのは草太にとって悩みどころであった。
こういう悩みを抱えながら、改修成った大聖寺城に後方より呼び寄せた後藤帯刀を入れ、一鍬衆千と鉄砲衆三百を与えて国境の防備を整えた上で、滝川一益、渡辺前綱を筆頭にに加賀、能登、西越中での一鍬衆と鉄砲衆の徴兵を任せるとともに、一鍬衆にも投槍器の使い方を教えるよう命じた。使う機会は、一戦に一回か二回程度であろうとも、使える手は一つでも多い方が良く、何より投槍器自体は構造も簡単で手製でも出来、持ち運ぶのも簡単、ただ投げる槍だけが重いという問題だけなので、訓練であれば何の問題も起こらないはずであった。
だが、これ以上の大軍を何に使うのか、と問われれば草太にも分からなかった。半ば惰性で軍を拡張していった。石高並みにしたところで、百万石に相応の軍備であれば百石当て六人としても六万という数になる。諸方に防衛部隊が必要としても、常備兵が六万というのは明らかに過剰な軍備と考えざるを得なかった。勿論、どこにも侵攻しないのであれば、である。
現状として言えば、能登には二千が居れば治安維持には充分であった。加賀も、朝倉家との同盟があるからと安心はできないが、それでも大聖寺城に千三百、尾山御坊改め金沢城に五千を入れればとりあえずは充分であった。西越中も椎名家との良好な関係を考えれば、比較的長い平野部の国境線を有するとはいえ、やはり増山城に五千も入れておけばとりあえず充分であった。飛騨も、南方美濃斎藤との良好な外交関係、この上洛の後、同盟という形をとるが、この方面も治安維持のために五百も兵が居れば充分であった。飛騨の北東、土城は千の兵が居れば数万の兵でも抜けない、とは栗田彦八郎のお墨付きであったし、鰤街道に設置した三つ折り屏風の石垣砦も鉄砲衆を中心とした兵千が居れば防衛としては充分であり、残りの飛騨全体の治安維持のためには千五百も兵が居れば充分であった。
以上を合計しても、一万八千に届かないため、六万という兵は四万二千の動員能力を常時持っている、ということに他ならず、明らかに過剰であった。
勿論、それに対応した武器弾薬の備えも、賄える範囲であった。それほどまでに、神岡鉱山をはじめとした鉱山収入、北回り航路や鰤街道の通行料などの収益があり、また飛騨に置いた兵器工廠は鉄砲作成方を除いて拡張を続けていた。問題は鉄砲作成方の拡張が遅々として進まないこと、特に新型銃については未だ月産三十丁程度にとどまっていることなど、確かにまだまだ問題はあったが、中筒月産五十丁を維持したままでここまでの増加ということであるため、ある意味では時間が解決すべき問題であると考えていた。
とはいえ、四万人以上の常備兵が余剰となる、というのは常備兵がある程度揃ってからであり、現状としては余剰となっている兵は一万に満たず、それも半数以上が基礎訓練の段階でしかなかったため、直近としての問題は少なかった。
軍学校の問題も、木下藤吉郎が何とか目鼻を付け、形ができつつあった。現在は期間は半年で百名程度の隊を二つ三つ預けるのに十分な教育を施す、ということであり、一期生はこの夏にも基礎課程を終え実地訓練に入り、秋にはいずれかの武将の与力としてつけられて実地訓練を行わせる、ということであった。現在は家柄が士官の条件であったが、このように訓練によって氏素性の明らかではないものも士官になれるという途を作ることは、今後も考えると草太には良いことであると考えられた。
因みに一般の学校、文字と算盤を教えるための師範学校は既に第一期生が飛騨及び西越中南部で展開中であり、第二期生もこの夏に西越中を中心に展開予定である。来年の今頃には、能登、加賀まで文字と算盤を全ての民が習うことができる、そういう体制が整う予定であった。
鞍の上で様々なことを考えながら、ふと次につうに会えるのはいつになるか、つうに金沢城に移るように指示を出していたかを思い出せず、さりとてこれからつうに金沢城に移るように再度命を発するのもどうかと思い、そのようなことを思ってしまった自分を女々しいと思った。
姉小路家日誌天文二十三年水無月二日(1554年7月1日)の項にこうある。
「公方様、姉小路房綱公を謁見なされ、加賀一向一揆を鎮めし事を大層お喜びなされ、賞して刀一振りを賜り候。また姉小路家の精兵を閲兵し、大層満足され候。公方様、姉小路房綱公に美濃土岐家の美濃奪還を依頼し候えど、公、美濃は斎藤家にて既に収まりき、既に土岐家の美濃奪還は民の迷惑以外にはなしとぞ申し、辞退なされ候。また公方様、若狭等の事情に心を痛められ候処なれば、若狭等への出兵を命じられ候。公、これにはさすがに抗しきれずに了承致し候」
一鍬衆千名、鉄砲衆二百五十名、馬回り五十名、補給隊及び医療隊五十名の総勢千三百五十名は、朝倉、六角領内を通過し、瀬田から北上して朽木谷にて将軍足利義輝の謁見を受けた。時に天文二十三年水無月二日(1554年7月1日)のことであった。
型通りの挨拶が終わった後、
「久しいの。息災であったか。加賀一向一揆を鎮めたること、既に聞いておる。まずは祝着である。刀一振りを褒美に取らせる。……それにしても一向宗の分派とは、また思い切った手を使ったようじゃの」
とは将軍、足利義輝であった。
は、と頭を下げた草太であったが、次の一言には草太も黙っていられなかった。
「その手腕を見込んで、飛騨より美濃へ侵攻し、土岐家の美濃奪回を命ずる」
「恐れながら申し上げます。美濃は既に斎藤家の手によって充分に治められておりまする。民百姓、また家臣一同、斎藤家の治世に不満が募っておるわけでもございません故、無用の混乱を避けるためにはその儀は平にご容赦を」
ふと、草太は足利義輝という人物は外交という機微を探る能力には欠けているのではないか、と思った。長期にわたって国境を接していて、小競り合いの一つもなく付近の砦にある程度大きな兵を貼り付けもしないのは、外交関係が良好な証拠ではないか。
「ふむ、民の無用の混乱、とな。確かにそうじゃな。……分かった。その儀は撤回する。だが代わりに若狭、丹波及び丹後の安寧を命ずる。わが妹が若狭武田家の嫡男、武田義統に嫁いでいることもあるが、それは気にせずとも好い。民の安寧をまずは考えたいというのであれば、若狭、丹波から丹後にかけての安寧、断るまいな」
草太は、これは断りがたいと思っていた。諸国の事情から、若狭は内部で既に火種をいくつも抱えており、内乱のおそれが充分以上にあったうえ、丹後の一色家の侵入と撃退を続けているときいていた。ただ、問題は若狭とは国境を接していないということであった。そこで草太は言った。
「朝倉家に軍の通行許可を公方様から頂ければ、その儀は承りましょう。ただ、どのような結末になるとも限りませぬ故、そこだけはご容赦ください」
分かった、と足利義輝は言い、独り言のようにふと漏らした。
「力なき公方、というのも空しきものよの」
こうして草太は、若狭、丹波及び丹後の安寧を図るための出兵、という大義名分を得た。ただ、それが民の安寧につながるかもしれないが、更なる混乱を呼び起こすこととなるとは、草太はこの時はまだ知らなかった。




