幕間 乾田の法及び蕎麦の連作障害回避策についての報告書
天文二十三年弥生十九日(1554年4月10日)、草太は二つの報告書を読んでいた。一つは花背の衆から、もう一つは太江熊八郎からの報告書であった。それぞれ抜粋を読むと下記のようであった。
乾田の法が試されてより二年が過ぎ、三年目の春を迎え候。昨今、紫雲英の鍬込が始まりし処なり。
一昨年、昨年の米の収穫量は、夫々他の田に比べ一割増、二割増と増え申し処なり。三年目も増加傾向にあらる、今後も紫雲英を使った乾田の法を使うことを検討するべきと愚行致しおるところなれど、この場合においては春小麦は諦めねばならぬ。
春小麦を植えし場合には、一昨年と昨年はほぼ同程度、他の畑の一割増程度となり申し、米のみの収穫量に着目致せば紫雲英を試用した方に利点を認められし処、その分の小麦の収穫量が得られぬことを考えると一長一短なり。某としては、紫雲英を基本として数年おきに春小麦とする方法が良かろうと愚行致すところなり。
現状としては特に乾田の法を使うことに不都合も之無、収穫量も増えし処なれば、このまま乾田の法を広めるも可なりと思えども、約束の期日は今年の収穫なれば、今暫くは様子を見るも宜しかろうと愚行致す処なり。ただし、紫雲英を使う法を今年秋より導入すべきとすれば、紫雲英の種不申足、実施は限定的にならざるを得ぬことは、ご承知おきくださるようお願い申し上げます。
詳細なるは付属資料にてご確認下さるよう、お願い申し上げまする。
花背衆 代表 午五郎
太江の村で蕎麦を作らざりしため、蕎麦を作りし山際の村にて蕎麦の連作障害に付き農民に話を聞きし処、輪作と呼ばれ候法之有候。年毎に蕎麦、大豆、小麦の順に収穫致し候。また、脱穀済みの蕎麦を畑に鍬入れると良いと聞き候。いずれも蕎麦を作りし農民の話なれば、早速にも一部地域で試させ候。
また荏胡麻に付き、播種は終わり候。既に芽の出ているもの之有、一月後には間引きも行い申可候。
稗についても今年の春播き候。
太江熊八郎
草太は、どうも太江熊八郎は他の農民から話をよく聞いていないのではないかと、報告書から思っていた。輪作が行われているならば、蕎麦を作っている村で話を聞けばすぐにわかったはずである。秘密にしている法でもあるまい。ただ、大豆、小麦の苗の調達は、全面的に行うとなると難しかろうと推察された。また、稗についても、おそらくは作っている農家はあるはずであった。この点は一度、きちんと調査について話を聞かなければ、と考えていた。
一方で花背の衆の乾田の法の結果は良好であった。小麦を作る時期を村々でずらすか村の中でずらすかは別としても、小麦と紫雲英を何年かおきに植えると収穫量が増すというのは朗報であった。飛騨だけではなく西越中、加賀、能登でも同じ方法で同じように増収となれば、増収量はかなりのものとなると予測された。石高が二割増しになったとしたら、現状では三十万石近い増収となるためであった。これは、能登一国の石高に匹敵した。
全体としてみて、山がちの水の少ない地域での栽培は蕎麦を中心とした輪作を、水が多く水田を作ることのできる地域であれば乾田の法を使っていくことが、大きな方向性として考えられていた。この他に野菜類、特に根菜類と稗などの冷害にも強い作物を組み合わせてのお救い蔵の充実も、今後の課題といえた。
その夜、七尾城に来ていた弥次郎兵衛を召し、内政について話を聞いた。すると、意外なことに太江孫八郎は輪作については既に検証済みであり、現在はそれ以外の方法を模索中であるとのことであった。
「あの者は、元庄屋というだけあって、農法については我々の及ぶところではございませぬ。ただ、新規のことを行うのはどうも苦手なようでございます。それゆえ、荒れ地を開墾して荏胡麻を作る、などというときには、どうも土を徹底的に作ってから作り始めるようでございまして、大根一つ作るのも、我々の思う以上の労力を傾けて土を作りましてございます。報告書にも蕎麦の実をとった残りを鍬戻す云々とございましたが、これは手間でございます。あの者は小者にも手伝わせましたが、自ら率先して鍬戻しを行っておりました。それでいて平時の事務は怠りませぬ。得難き働き者にござまする」
草太は、なるほど、報告書にうまく表せない損な性格か、と理解した。
また紫雲英について話を聞くと、弥次郎兵衛は実は知らぬがその辺に生えている草にございます、とこともなげに言った。ただ、紫雲英の種籾を集めるのは流通自体を聞いた覚えもないため、自然に生えているものか、さもなければ来年鍬戻す前に収穫するかのいずれかをとることになるだろう、と言った。いずれにせよ紫雲英自体は
「湿地帯であればどこでも見られる、さして珍しくもない草にございます」
とかなり楽観的であった。
近代の研究では、姉小路家の歴史の中ではかなりの労力を灌漑設備と共に土壌改善に努めていたことが明らかになってる。特に飛騨ではそもそもの水が少ない地域も開墾すると棚田か、或いはソバなどの畑作に落ち着かざるを得ない。棚田にするにはかなりの水量が必要とされるため、畑作もかなり重要であった。
加賀統一後もかなり後になるまで食料の輸入は行われていたが、東越中との関係を維持するために必要であったという意見の他、農村の改革には相当な時間がかかり、そのために輸入が必要であったのであろうという意見も散見される。ただし、食料事情については、加賀での炊き出しなど数多くの炊き出しが確認されており、そこまでひっ迫していなかったというのが大勢である。




