八十三、尾山御坊前合戦
姉小路軍が加賀へ侵攻し津幡城が落城した次第については既に述べた。
姉小路軍の先遣隊である渡辺前綱、滝川一益、木下藤吉郎の三名の率いる一鍬衆五千九百、鉄砲衆千五百は津幡城から南進し、尾山御坊から北へ一里の地点で野営をした。無論、夜襲の警戒は怠らず、空堀と篝火、鳴子を諸方に張り巡らせていた。
因みに、この当時になると折り畳み式の踏み鍬が土嚢袋五枚と共に配備されているため、空堀の作成は慣れたものである。とはいえ、そう深いものを必要とするわけでもない。幅一間深さ一尺という簡易的な空堀を作ることが多かった。この時に掘られた空堀も、幅一間深さ一尺の簡易的な空堀であった。
その夜、尾山御坊では主戦派と非戦派、恭順派と言ってもいいかもしれないが、議論を戦わせていた。主戦派は杉浦玄任を筆頭に、超勝寺実照もそれに引きずられる形で主戦派に傾いていた。安吉城主窪田経忠、岸田常徳も主戦派であった。というよりも、主戦派ではないのはただ一人しかいなかった。それは瑞円であった。
瑞円を覚えている方は少ないかもしれないが、草太が飛騨入りをする際、尾山御坊で通行手形をくれた、あの老僧であった。末席もいいところである。であるが、声を大にして言った。
「信心をできるなら、戦などすべきではないのだ。戦事に介入するのは、我らの仕事ではないのじゃ。姉小路家の支配は、他国では非常に良い評判じゃ。加賀にだけ苛政をするとは思えぬ。ならば、我ら僧は僧らしく信心を本分とすべきじゃ」
だが、末席の悲しさか、人の欲か、はたまた一向宗という上下関係の厳しい組織の上層部がこぞって主戦派であったためか、ともかく瑞円は物理的に黙らせられた。
「では、城にいる兵を報告してもらおうか」
超勝寺実照は言った。安吉城の衆三千を筆頭に、総勢一万五千という大軍であった。しかも昨年の兵糧売却により装備はかなり充実していた。ただし、問題はこの人数を養うだけの兵糧が心許ないこと、及び長引くと田植えなどに影響が大きくなりすぎるということであった。最大動員数は五万とも六万ともいわれるが、それだけの数を集めてしまうと秋の収穫はほとんど見込めなくなる。その意味では、この一万五千という数でも少し過大であった。
「長引くと兵糧が持たぬ。また田植えにも影響が大きい。早期決戦ということにするとして、明日の朝出撃しようと思う。どうか」
応、と諸将が言い、かくして翌朝尾山御坊北部の平野で数を生かした戦いが繰り広げられることになった。
一方の草太率いる本陣もこの夜に合流し、軍議が行われた。
「尾山御坊には一万五千ほどの兵が籠っている様子でございます。数の上では、本陣を入れてもあちらの方が多い。恐らくは今夜の夜襲か明朝からの合戦ということになりましょう」
滝川一益が大雑把に戦況を説明した。草太は、ならば逆茂木を、と言おうとしたが、空堀のこちら側に土嚢を積んでいるのを見て、止めにした。
「一益、この戦、どう見る」
服部保長が不意に滝川一益に声をかけた。どう、とはと滝川一益が返すと服部保長が妙なことを言った。
「明日の朝の戦だがな、不吉な予感がするぞ。負けるにおいではないが、不吉な予感だ。なんだろうな、これは」
古来より大軍に法なし、という。大軍であれば特に陣法を工夫しなくても数の力だけで勝利できる、ということであるが、寡兵でも策次第で大軍に勝つことはしばしばある。その場合にはその勝利の要因となるものがどこかにあるはずである。
この尾山御坊の合戦では、本願寺側にいくつかの失策が指摘されている。
まず第一に、翌朝に戦をする、と時を移したことである。夜襲であればまだ勝ち目があったかもしれない。夜襲であれば、草太率いる本隊はまだ合流していなかった可能性が高く、また本隊合流の混乱の隙を付けたかもしれない。
第二に、鉄砲隊がいかに多くても数の力で押し切れると思ってしまった点である。実のところ、一万五千という数は、鉄砲隊が十斉射すれば全滅する可能性すらある程度でしかない。姉小路家ではこの時期、早合を一人当たり二十個用意させており、二十発は連射することが可能なことは確認されている。だが、三十発はかなり怪しく、五十発は打てない。勿論、清掃整備すればまた元通りに戻るというのは確認済みである。
最後に、姉小路家側に接近した、という点である。当然のことながら、姉小路軍は陣を張って待ち構えている。そこに、精々倍程度の兵を突入させてもどうにもならない。精鋭軍の陣の堅さを読めていない、という問題であった。
最善手は、城が落ちない程度の兵数を残して帰農させ、自分たちは籠城し、可能な限りの譲歩を姉小路家から引き出すことであった、と言われている。
姉小路家日誌天文二十三年弥生十九日(1554年4月20日)の項に、こうある。
「姉小路房綱公、夜半に着陣致候。戦の気高ければ、朝には戦ならんとて、兵を交代で休ませ候。果たして朝、敵出陣し候。物見の報告によれば物頭は不明なれどもその数一万五千とぞ。平押しにこちらを攻め立てんと致し候処(略)かくして合戦は公の勝利に終わり候。されど残兵二千ばかり城に戻り籠城仕り候」
そもそもの物見を出しての戦況確認も行っていない、兵数の見積もりも出来ていない時点で、一向門徒衆の練度のほども察することができよう。ただし、一つだけ付け加えておきたい。個人の武勇という点であれば、傭兵集団さえ発生する戦国末期まで、僧兵団は無視できないほどの精強さを誇っていたのは事実である。詳しくは以下で語るが、接近戦さえできれば僧兵団は同程度の数の農民兵とは比べ物にならないほどの力を持っており、そこに勝機を見出したのは間違いないだろう。
杉浦玄任は越中の戦、特に砺波郡合戦をこの中で最も間近で見ていた。といっても、勝興寺で物見がもたらした情報をつなげ合わせたにすぎないが、結局のところ遠距離での鉄砲隊の攻撃、これを何とかできれば数の圧力で何とかなる、そう考えた。そして鉄砲の玉は一人に当たれば大幅に威力を減じ、二人目を倒せるかどうか、三人目は安全であるという点、もう一つ、鉄砲隊が一度に放てる玉数は一丁辺り一発であるという点、この二点から、非常に非情な作戦を考え、実行させた。一万五千名の兵を千五百名の十列横隊とし、農民兵は前列から、僧兵は後列から並べ、この隊列のまま前のものが撃たれたら可能なら支えて進み、不可能なら打ち捨てて進む。こうして鉄砲の射程である二町から敵兵にたどり着くまでをやり過ごさせる計画であった。その時点で農民兵を中心に三列から五列は犠牲になっているだろうが、距離さえ詰めれば勝負になるはずであった。つまり、農民兵を盾として進み近距離で勝負する、ということであった。
無論、大部分の国人衆は反対した。なによりも農民兵が死傷すれば、それは生産力の減少に直結する。なるべく兵を減らしたくないというのが本音であった。しかし、死ねば極楽浄土、という杉浦玄任に押し切られる形でこの作戦が決行された。
滝川一益は、敵が隊列を整えてまっすぐ向かってくるのを見て、なんだか妙な気になった。服部保長が言っていたのはこれか、と思いながらも、距離一町半をあらかじめ測っておいた目印を過ぎたところで打ち方を命じた。第一斉射で千名近くが銃弾を受けて脱落したが、その体を持ったり乗り越えたりと様々だが、隊列が崩れずに近づいてくる。
死兵か。
最初から死んでいる、死ぬことを前提とした隊列であり戦術であった。確かにこの方法であれば数さえいればいつかはこちらへ、鉄砲隊の銃撃を受けつつもたどり着くことができるだろう。千五百丁の鉄砲が間断なく火を噴き、そして次の早合を開けて弾を込め、また銃弾を放つ。一回の銃撃で脱落するのは千に届くかどうか、という辺りであったが、人間が駆け足で一町半(160m程度)を駆け抜ける間に打てる数は、前の人間が撃たれて足取りが重くなったとしても装填状態から精々三発である。これまでは被害の多さに別の手を考えるか隊列が混乱した。だが彼らは二千数百が既に脱落してもただただ前に出ることしか考えていないようであった。
「ちぃ、敵め、誰だか知らないが、ああ、正しいともさ。だがそれが正しい選択肢だとは認めねぇよ」
滝川一益は誰にともなしに言うと、まさに空堀に差し掛かる最前列の敵に対して発砲した後、後退して渡辺前綱率いる槍隊と交代した。槍隊は確実に敵兵を仕留めていった。また弾込めが終わった火縄銃が付きだされ、火を噴くと敵は死ぬか大けがか、さもなければ当たらなかったのか。だが死ぬと死体が残る。その死体が空堀を埋め尽くしたころ、その後方から僧兵隊が現れた。空堀、土嚢が機能しなくなったころには、乱戦の中では危険すぎるため、鉄砲隊は後方に下げられた。一鍬衆もさすがに僧兵隊は農民兵ほど楽には倒せない。足元が死体で悪いながらも、前進を止めない。渡辺前綱は、支えられぬかもしれん、とその狂気ともいえる動きに戦慄を覚えた。
農民兵の死体により埋まった空堀と土嚢を乗り越えて僧兵が陣内に入ってきたのを見、その後方にはもう三列ほどいるのを見て、草太は両翼より自身が率いてきた一鍬衆を千五百ずつ、右手からは田中弥左衛門隊、左手からは平野右衛門尉隊を、手元に予備として五百を残して突入させた。鉄砲隊は、ここまでの乱戦になると使えない。後方で装弾して待機させた。
最後列にいた超勝寺実照と杉浦玄任とは敗戦を悟り、兵を引かせた。撤退の合図である太鼓を打ち鳴らさせ、真っ先に最後列を下げた。これは怯懦というよりもその前の列が撤退する空間を作る意味である。
前線の圧力が下がったことを敏感に感じ取った滝川一益であったが、乱戦になっているのは変わらない。鉄砲での追撃はあきらめざるを得なかった。圧力が下がったのは渡辺前綱も気が付いていたが、最後に戦っている一列は後方を逃がすための盾となるべく一層奮戦し、やはり追撃はできなかった。左右から突入した田中隊、平野隊も接敵した敵が味方を逃がすための盾となり、結果、二千の僧兵を取り逃がしてしまった。
これは、死兵となりながらも味方を逃がそうと身を捨てて盾となった敵兵を褒めるべきであろう。
結局、この日の姉小路軍の被害自体は僅かではあったものの、敵兵が一万三千、悉く死亡し、息のあるものほとんどなし、という結果となり、大勝と言えなくはなかった。が、それでも草太は後味の悪さに何とも言えなかった。




