八十、能登動乱反省会
能登天文二十三年の変と姉小路家による能登制圧次第については既に述べた。
だが、弥次郎兵衛を頂点とする内政組の仕事は、これからである。姉小路家ではいつの間にか、文官と武官という別ができるようになっていた。というよりも、弥次郎兵衛と太江熊八郎が中心として内政を回し、時々木下藤吉郎が手を出している程度で、その他のものは平時には領内の警備か、さもなければ軍事調練位しかできることが少なかった。
とはいえ、軍事畑の人間にとっても、今回の能登制圧の戦訓を吸収すべく、なぜ勝てたのかという点については日々議論が行われていた。まずはその議論から見ていきたい。
「それでは、能登の国制圧の反省会を行う」
と草太が宣言して、軍議が始まった。姉小路家に足りないものは何か、あるいは姉小路家の戦でうまくいった経験を共有することにより、今後の姉小路家の発展に役立えようというのが、この会の趣旨である。参加者は戦に参加した諸将、後藤帯刀、渡辺前綱、滝川一益、服部保長、木下藤吉郎、平野右衛門尉、小島職鎮、田中弥左衛門、土肥但馬守、長沢光国、寺島職定、菊池武勝であった。無論平助もいるが、発言はしないだろう。彼は将にすらなることを拒否するのだ。
興味深いのは、将として随身することを決めた氷見衆の三名も末席を占めていたことであった。
大きな戦としては、一宮の合戦、七尾城攻略戦、能登北部の各城の攻略戦の三つが題材であった。いずれも、結果だけ言えば完勝である。兵の損失さえも百数十程度であり、戦線に復帰できないほどの傷を負ったものは十数名でしかない。
「まず、戦い自体は完勝であった。これは間違いなかろう。だが、その原因は何だ」と草太が言った。
「一つ一つ戦を分けて考えませんか」とは田中弥左衛門であった。尤もだ、と受け入れ、まずは一宮の合戦の前半、対一向門徒衆から、と言った。
「対一向門徒衆であれば、いち早い物見の報告とそれへの対応、これに尽きまする」
これは服部保長の発言であった。
「正面から戦っても、おそらくは勝利できたものと思われますが、かの者たちは邑知川沿岸を南下し海岸沿いを渡る計画でございました。これをいち早く察知し、川半ばを渡らば撃つべし、との教えを忠実に再現した形での北岸の攻撃、相呼応する南岸での攻撃により、敵を壊滅させることができました」
と言ったところで、木下藤吉郎が、発言を求めた。何かときくとこんなことを言った。
「御屋形様、御屋形様はあの一向門徒衆との戦が勝利だと思っていらっしゃいますか」
言われた草太は苦笑いした。見抜かれている。
「その通りだ。あれは敗北だったと思っている」
一同、ざわついた。
「何を根拠に、と言いたいだろうが、あの作戦の根本的な勝利は遊佐続光を捕らえることにあった。確かに一向門徒衆は倒した。約六千のうち四千五百までがあそこで死に、或いは重傷を負い、降伏した。だが、遊佐続光は生きて逃げ延びた。そして末森城に入った。これが敗北でなくて何であろう」
という草太に、木下藤吉郎は言った。
「御屋形様、あの作戦の根本的な勝利が遊佐続光を捕らえることだ、なんて戦の前に言っていましたっけ」
草太は言ったような、言っていないような気になった。
「作戦の根本的な勝利、これを徹底していない、というのは、今後の課題ですな」
後藤帯刀が言った。
ふと草太は偉そうなことを言っているが一宮の合戦のうち一向門徒衆との戦いでは後藤帯刀は何もしていないことを思い出した。あの時は後方部隊を後藤帯刀が預かり、住民の移動を指揮していたはずだ。……いや、止めておこう。有用な意見は、作戦に参加していないといえども確かに重要だ。
更に引き続き起こった末森城下の戦いについて、議題が移った。
「この戦いは、能登畠山軍の撃破と末森城攻略の二つが同時に行われたと考えてよかろう。末森城は渡辺前綱殿と木下藤吉郎殿が降伏勧告に行ったとか。その様子から伝えてもらいましょうか」
とは後藤帯刀であった。その視線の先には土肥但馬守がいた。草太が窘めていった。
「降将だからといって辛く当たるでない。彼なりに考えて我らに降るという決断をしたのだ。その決断を褒めこそすれ、けなすような立場には、我らはいないのだぞ。否、いてはならないのだぞ。それをよく考えるのだ。……それで土肥但馬守、話せるなら話してもらいたい」
土肥但馬の守は、渋い顔をしながら言った。
「降ることを決めたのは、そこの渡辺前綱殿の発言が悉く当たっていたためです。敵を知り己を知れば百戦また危うからず。そのような将が来て降るように言った。ならば下らなければその先には敗北しか残っておりません」
渡辺前綱に聞くと、鉄砲の銃声を聞いて、戦局を当てたという。
「彼我の戦力を知っていればおのずと分かることにございます」
と渡辺前綱は言い、だからさしたることもございませんと澄ましていた。つまりは情報戦の勝利がそのままこの勝利につながったということを意味していた。
「野戦の方は、少し危うかったのだがな。脇からの突撃、あれが成功していたらかなり変わっていたかもしれない」
と平野右衛門尉が言った。
「あれは向こうも雑兵だったから間に合った。向こうが騎馬隊を使うことまで想定しろとは言わないが、やはり騎馬隊があった方が良い」
「騎馬隊、か。今も準備しているのだが、中々鉄砲の音に馬が慣れず、数が揃わぬらしい。馬は、あれでなかなか繊細だから、どうしても、な」
と草太が報告書にあったことを言い、これからの課題だな、としめた。
次に議題に載せられたのは、七尾城攻略戦であった。
「結局のところ、大筋としてみれば後藤帯刀殿率いる別動隊を派遣して兵力を減らして釣りだし、更に長続連殿と長沢光国殿、寺島職定殿、菊池武勝殿の三名が内応して陥落した、ということで良いのですかね」
と木下藤吉郎が尋ねた。その場にはいなかったから当然である。
我々の側から見ると概ねその通りだが、と長沢光国、寺島職定、菊池武勝を草太が見た。長沢光国が代表してか発言した。
「当初の約束では、増山城落城直後に、近いうちに氷見に姉小路が必ず手を伸ばす、それを能登畠山が阻むために力を貸す、という話で、従属半分臣従半分のような立場になり申した。それが、ふたを開けてみれば能登畠山家の内部抗争に巻き込まれ、帰るべき氷見はその隙に奪取され、近いうちに必ず取り返すか別の所領を与えるという口約束だけで動いていました。が、長殿に内応を誘われて、これぁ降った方がよかろう、内応した方がよかろうというので、内応しました。第二隊に組み込まれましたが、畠山義綱殿が七尾城に戻らずに逃げようとした場合に備えての配備でした。結局、千五百連れてきた氷見衆は五十も残らず、兵たちにはひどいことをしたと思います。そんなところに領主として戻ろうといっても、なかなか」
寺島職定も引き取っていった。
「あの温井総貞なんぞは我々のことを完全に臣従した部下扱いでした。同格として扱ってくれたのは長続連殿くらいでございまして、あの方には時流が見えていたのでしょう。或いは内部抗争に嫌気がさしていたのかもしれませんがね」
ふと草太が内応のやり方を服部保長に聞くと、人間、色々ありますからね、とだけ答えた。多分、背く人間は放っておいても背くのだろう、と少し思わないでもなかった。服部保長はその背中をほんの少し押しただけなのだろう。ただし、正しい時期に正しい方向に背中を押す、というのは、口で言うと簡単だが実際に行うとなると難しい。だからこその服部保長である。得難い人材を得たものだ、と草太は自分の幸運に感謝した。
それでだ、と後藤帯刀が言った。
「戦の方は、雨だったというけれども、どうだったのだ。特にあの、投槍器という武器は使い物になったのか」
これに答えたのは滝川一益であった。
「使い物になったな。訓練でなると分かっているから使わせたのだが、あれは良い武器だな。後から調べたが、矢盾に大穴の開いたものがいくつも見つかった。おそらく矢盾を貫通したのだろう。再装填も、弓に比べれば圧倒的に遅いが火縄銃と比べれば大体同じくらいか少し早いくらいだ。難を言えば、個人の力量によって威力が大きく異なることくらいか。あとは矢が重いので数を持たせることができぬ。その位かの」
「大鎧相手ならともかく、雑兵なら十分に死傷させ脱落させることが可能です。出来るなら一鍬衆にも持たせたいですな」
とは渡辺前綱であった。間近で見ているからこその説得力であった。
中距離での殺傷力で圧倒し、近距離では三位一体の槍隊の攻撃で壊滅させる、という陣法は、ここでも有効であることが確認されただけであった。
最後に議題に載せられたのは、北方の諸城の攻略戦であった。といって、誰も特に苦労をしていない辺り、お察しというところであったが。
ただし、松波城は籠城された場合、苦労しただろうとは予想されていた。
「ああいう、小城だが妙に堅い城、ってのが時々あるんだわ。特に兵も入っていたから、あのままなら城を囲んでの兵糧攻めかね。丁度良く七尾城が落ちて、降伏してくれたからよかったのだがね」
とは木下藤吉郎であった。
戦訓として大事な話として取り上げられたのは、城内での戦闘における集団戦術であった。特に狭い道では槍を捨てて小太刀で戦うことが定められていたが、そうなると結局個人対個人の戦いとなることが多く、個人対集団、乃至は集団対集団という戦いにするにはどうするべきかは、今後も考えるべき課題として残された。
最後に草太が全体を総括して言った。
「課題も出たが、致命的な失敗はなかった。まずは重畳である。この課題を解決すべく、全員の力を合わせてこれからも改革を進めていくこととしよう」




