表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
80/291

七十九、能登制圧

 草太たちが七尾城を包囲し後藤帯刀らが北能登を制圧に向かった後、七尾城から能登畠山軍が打って出て、長続連の内応により七尾城が落城した次第については既に述べた。

 長続連から軍使が来て草太たち姉小路軍は七尾城に入城した。時に天文二十三年弥生朔日(1554年4月2日)夕方のことであった。


 すべての武将は長続連の手によって既に捕縛されており、城の大広間に一列に並べられていた。少し面白かったのは、長続連の手のものの中に氷見国人衆の三人も含まれていたことだ。彼らは本領返還を交渉することを条件として長続連の挙に参加していたが、第二陣として出撃もしており、七尾城に逃げ込まずに落ちようとした場合には捕縛する役割であった。

「斯様に致しましてございまする。どうぞご処分をお願いいたします」

 草太たちに、長続連は言った。そこには数珠つなぎに、能登畠山当主畠山義綱、前当主畠山義続父子、温井総貞、松波常重、松波義親、富来綱盛、飯川光誠等がつながれていた。

「一つ聞く。私に今後仕えたいというものはいるか」

 草太が言った側から、温井総貞が、自分が仕えたいという意思表示を示したが、草太は冷たい目で見ただけであった。草太は全員を出家させ、鞍馬山に配流することとした。草太は自分が育ったという縁もあって折々に金銀などの寄進を行っており、今回の出家、配流も鞍馬山の了承を得ていた。


「長続連、長沢光国、寺島職定、菊池武勝、この度はご苦労である。さて恩賞は別として今後の身の振り方であるが、二つの道があるのでよく考えて返答いたすように。一つは国人衆として今まで通りの領土を持ち、賦役その他を負いつつも今まで通りに暮らすことだ。苛政をせねば基本的に内政には口を出さぬ。だが、例えば築城手伝いのような賦役その他はあるものと思ってもらおう。また常備兵を持つことは暫くは禁止させてもらおう。そういう余裕があるならば開墾その他を行うべきだからだ。もう一つは領土を明け渡す代わりに我が武将の一人として仕えることだ。我が武将として帷幄に参じ、その器量を天下に問うことだ。どうだ」

 この草太の発言に、長続連は国人衆を選んだ。まだ自領である穴水城付近は陥落していない以上、そこへ帰りたがるのはある意味では当然であった。


 しかし氷見衆にとっては既に失った土地であった。返してもらえるというのは良いが、長沢光国は言った。

「本領のある村一つ程度を貰って、そこに戻れるなら武将にしていただきたい。……お前らもそうしろ。この冬、氷見は姉小路家の手によって善政を敷かれたのだ。今さら俺たちが入って善政を敷こうといっても、無理だ。領民にとってみれば姉小路家の手にあった方が善政だったと感じるだけだろうさ。そういう中で賦役でも言いつけられたらまた一揆だ。そうなれば俺たちは今度は姉小路家の手に討伐される側に回るのだぞ。悪いことは言わねぇ。そうしろ」

 こうして、三人は村一つを選択して自領とし、ただし内政は姉小路家の手に任せるという方便を使って村一つの領有を認められ、三人そろって草太の帷幄に参じたのであった。

 ただし、やはり氷見には思い入れがあるらしく、休暇には氷見に自由に戻ることを認めるという一筆を貰い、また村には彼らの屋敷を建てることが認められた。


 長家のみは今まで通り穴水城と鳳至郡南部の支配を認められた国人衆として能登に残ったのであった。領土としての加増はなく、ただ金地金一貫目が与えられた。銭に直すと長家の一年間の収入よりも多かったが、領土の加増を期待していた長続連は少し期待はずれだったようであった。

 特に、彼が欲していた輪島については領有が認められず、姉小路家直轄地に組み入れられた。



 話は多少前後する。

 軍議の結果、後藤帯刀が主将として全軍の約半数を持ち、まずは西谷内城を攻めることとしたが、木下藤吉郎が物見の報告を聞いて言った。

「ありゃダメだ。練習にもならねぇ」

 どういうことかと後藤帯刀が聞くと、兵などほとんど籠っておらず、また土を盛って土壁を築いているものの規模が小さすぎて練習にもならない、野戦のやり方で問題なく落ちる、とのことであった。

 では、といって田中弥左衛門が当たると言った。何しろ田中弥左衛門自身、戦場は久しぶりであり血が高ぶっている。兵千もあれば充分だが、練習として二手を同時に攻めてみるがいいよ、と木下藤吉郎が言った。

 そのため田中弥左衛門は大手と搦手、両方に兵の姿を見せておいて敵兵の少ない方を、と思ったが、攻める前に降伏の軍使が来た。曰く、大手も搦手も大軍がいるのであれば、敵するはずもない、とのことであった。


 次にすぐ脇にある富木城を攻めたが、ここでも木下藤吉郎が物見の報告を聞いて言った。

「あれもダメだ。練習にもならねぇ」

 城と名前はついてはいるものの、その内実はどう見ても櫓があるだけの居館であり、小高い丘に建っており土壁らしき土盛があるだけである。この二城は、下手をすれば京洛付近の庄屋の館の方と堅さは同じ程度かもしれない。しかも兵が姿を見せただけですぐに投降してきた。曰く、遠くまで見えるが見える限りに軍勢が続き増え続けているのに抗しきれるわけがない、ということであった。



 次に攻める城は、天堂城であった。木下藤吉郎が物見の報告を聞いて言った。

「今度は練習になりそうだ」

 どういうことかと後藤帯刀が聞くと、多少の兵が籠っている、ある程度まともな空堀、石垣や櫓のある、正に城であった。が、それほど大きいものでもなく、練習としては丁度よかろう、ということであった。籤を引いて誰が当たるかを決めようということになり、小島職鎮が当たることになったが、某、城取は経験ございますぞ、と頭を掻いていた。ならばお手並み拝見と言われ、小島職鎮はまずは物見にいくつか質問した後、大手門前に兵を伏せ、自身が少数の兵を率いて搦手より攻め寄せた。火矢を撃ちまさに火の出るように攻め立て、短時間に搦手の門を破り、大手門から敵兵が脱出するように仕向けた。そしてその敵兵の後ろに見え隠れするように兵をつけていかせ、約一里先にある宅田城に入ろうと大手門を開けた隙をついて一度に宅田城も落としてしまった。

 宅田城攻略後の軍議で、少しばかりやりすぎましたな、と小島職鎮は苦笑いした。


 残るは長家領である穴水城を除けば珠洲郡の二城であった。そのうち一つ、飯田城は七尾城に兵を出していないとのことであり、三百の兵が飯田与三右衛門を守将として籠城の構えを見せており、また松波城も松波畠山家が全力を七尾城に出さなかったらしく同じく八百の兵が松波義龍を守将として籠城の構えを見せていた。

 木下藤吉郎は物見の報告を聞いて

「ようやく本番というところかね。先に飯田城、次に松波城と行きましょうか」

「藤吉郎殿、少し出すぎですぞ。確かにそなたには全員に城攻めの経験を伝えるという使命があるでしょうが、我らは藤吉郎殿の与力になった覚えはありませんぞ」

 こうやんわりたしなめたのは、小島職鎮であった。たしなめられた木下藤吉郎は一言謝ると、

「まずは力押しで飯田城を落とすとしましょうか」

と言った。


 木下藤吉郎は兵に土嚢を作らせ、搦手で騒いでいる間に大手門に土嚢を積み上げ城門脇の石垣練塀を坂に変えてしまった。こうなればその坂を上って兵数の差で押し切るのは簡単であった。狭い場所であっても使勝手の良い小太刀が城内での戦いでは重宝したことは、特に重要な戦訓であった。また、集団を意識しての戦い方を小太刀でするということがどういうことかについては今後の検討課題であることも戦訓であった。

 守将であった飯田与三右衛門は落城必至となると切腹していた。

「切腹とは、こんな城位で、なぁ」

 木下藤吉郎は少し寂しげに呟いた。木下藤吉郎たちは知る由もないが、同日に七尾城が落城した。



 七尾城落城の報を受けて、投降勧告をすべきだと主張したのは後藤帯刀であった。

「我らの使命は、第一には余計な戦いをしないことである。戦わずして降伏してくれるのであれば、我々としては何もいうことはない。特に七尾城が陥落し松波畠山家の当主と一門衆を捕らえ鞍馬へ配流するとなれば、降伏を勧告すべきだろう。もしそれでもあくまで戦うというのであれば力戦するべきであろう。どうか」

 どうか、と言われても、姉小路家一門衆筆頭であり、ある意味で最も常識人の一人の提案である。誰がそれを蹴ることができるだろう。しかも内容は至極当然であった。

「ならば後藤帯刀様の名で降伏勧告をすべきでしょう。ここにいる諸将の中で最も位が高いのは後藤帯刀様ですから」

とは小島職鎮であった。


 結局、松波義龍は城兵の命を条件に降伏し、自身は切腹するつもりであったらしいが後藤帯刀の

「そんなことをして喜ぶものはいまいよ。家族と共にということであれば、鞍馬山の配流に加えるよう、御屋形様に伝えよう」

という説得により、鞍馬山への配流の列に連なることとなった。


 穴水城周辺は長家が国人衆として治めることとなったため、これで能登は全て姉小路家の手に治められることになった。それは、弥次郎兵衛の地獄の再開を意味するのであるが、それはまた別の話である。ただし、この時期弥次郎兵衛は輪島の街の顔役であった玉蔵坊英性という男を陪臣として登用することに成功しており、能登の内政は彼の手による部分が多かった。


 これにより、能登動乱はひとまず終わり、能登は姉小路家の治めるところとなった。能登畠山家の重臣たちは、長続連を除き多くは鞍馬寺に配流され、また遊佐続光のように加賀に追放になったものも多かった。

 だが、草太は今回は切腹する将が一人しか出なかったとはいえ、戦でかなりの人数が死傷したことを深く悲しんでいた。無論、こうすると決めたのは草太自身である。今更だな、と独り言をぼそりと呟いた。平助は気が付かないふりをして、わざと明るい声で言った。

「もうすぐ春ですなぁ。今年こそは花見をしたいものですな」

 そう、春はもうすぐそこに近づいていた。昨年のこの時期は、砺波郡合戦前後で花見どころではなかった。今年もこれから内政をし、加賀を攻めなければならないが、一日くらい花見をするのも悪くない、そう思った。


 この能登攻略で一つだけ草太に朗報があるとすれば、氷見から末森城にかけての治安が回復し、安全に末森城付近の港から船に乗ることができるようになったため、京洛へ行くためには放生津からよりも船旅が圧倒的に短くなったということであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ