七十八、能登天文二十三年の変
草太たちは正月の宴の終わりと共に諸将と共に増山城に移動した。
途中、内ケ島氏理の籠る上見城に入り二泊した。到着は夕刻であり出発は朝であったから、丸一日上見城に居たことになる。その間、内ケ島氏理と役目上の話も個人的な話も随分としたようだ。ようだ、というのは、平助でさえ遠慮した話が多かったからに他ならない。
ともかく、姉小路家日誌によれば天文二十三年睦月十日(1554年2月11日)、草太は増山城に入った。ここから一月半ほどは雪に埋もれているため、軍事的な行動も何もない。ただ、防寒具の用意だけは急がせていたという資料は残っており、また試用隊の試験が終わり制式銃として中折れ式の新型銃が制式採用されたのもこの時期である。とはいえ、当面は複数種の銃が混在することによる混乱を避けるため、ある程度の数が揃い次第配備を行うことになっていた。
だが、この時期に特筆すべきは、長続連との内応の約束を服部保長が取り付けたことにあるだろう。姉小路家日誌天文二十三年如月二日(1554年3月5日)の項には、こうある。
「服部保長、能登畠山が重臣、長続連との内応を約し候。姉小路房綱公、これを喜びて曰く、城攻めなれば内応は大いに結構なり、とぞ」
また、七太郎の冬装備がいきわたるのを待っていたようであり、この時期の姉小路家日誌には何度も
「姉小路房綱公、冬装備の配備状況を尋ね候」
とある。それも天文二十三年如月十八日(1554年3月20日)の項に、遂に
「姉小路房綱公、冬装備の配備状況を尋ね候処、行渡り候と聞き、大いに喜びて(略)」
とあるように僅か一月半程度で一万着近い冬季装備を製作できる辺り、姉小路家の能力の高さが知れよう。とはいえ、材料さえあれば簡単に作れる簡単な型であったためというのも大きかったが。
ともかく、この日を境に姉小路家の軍は進軍を開始した。
姉小路家日誌天文二十三年如月二十日(1554年3月22日)の項に、こうある。
「姉小路房綱公、かねてよりの懸案であった能登畠山家について軍を発し候。一鍬衆一万、中筒衆千五百、馬回り五百、その他輸送隊及び医療隊五百の合計一万二千五百となり申し候」
雪が解け始めて農繁期を目の前にして、能登畠山家の畠山義続と温井総貞は、全軍で七尾城防衛を固めることとした。そのうえで加賀一向門徒衆に使いを出し、機を見て背後を襲うか、越中への侵攻を頼むことで合意した。七尾城さえ無事であれば、他の城は一旦は敵に渡しても何とかなるはずであった。とはいえ、例えば穴水城は長家が、天堂城は温井家が、松波城は能登畠山家の庶流である松波畠山家がそれぞれ治めている。すべての兵力を七尾城に集めることは難しかった。
しかしながら、増山城を発したという軍勢が到着するまでに可能な限り兵力を集め、七尾城の堅さに任せて籠城する、という策自体は、悪くなかった。問題は、どれだけの兵を誰が集めるのか、という点にあった。
結論だけを言えば、長家がその全軍に近い三千を、温井家も三千を、松波畠山家は千を、そして能登畠山家の四千に氷見衆その他を合計して約一万二千という大軍に膨れ上がった。特に長家と温井家は本拠の防衛を捨てており、それだけでも異例のことであった。
増山城を発した一万二千という大軍は、羽咋郡から七尾にかけての邑知潟地溝帯へ入ったあと北上を開始した。物見の報告によれば、全軍で一万二千程度の軍勢が七尾城に詰めているという。だが、決戦をするつもりは今のところ見受けられなかった。
「籠城、か」
草太は誰に言うともなく言った。同等程度の兵力であれば迎撃に出ても良さそうなものだが、よほど前の敗戦が効いたのだろう。
俄かには落とせない。それは分かっていた。ここから先は我慢比べになる。ならば、誘いの隙を作って敵を誘い出そうにも、誘い出せないだろう。長家寝返りの策も、適切に使わなければ意味がない。
「軍議を行う」
そういって草太は、諸将を集めさせた。
「能登畠山家は早晩、城を出ます。まず三月、というところですな」
軍議冒頭、服部保長は断言した。早ければ二月、というところらしい。理由を聞くと
「兵糧がありません。一万二千を養う食料を、三月分でさえ持っていれば素晴らしいですが、前々から準備していてさえその程度でしかありません。この辺の兵糧、特に米は御屋形様が御用商人の田中与太郎殿の手のものによって買い上げてしまったではありませんか。加賀だけで買っていましたが、この辺の商人が売りに行かない理由なんてありませんよ。当家のように慢性的に兵糧が不足している国ならともかくね」
そして、その二か月を有効に使うべきだ、と言った。
「木下殿と誰か、という形で城攻めの経験を皆積むと良いと考えます。空堀と逆茂木だけで、充分に防ぎきれましょう。いざとなれば長家の寝返りの合図を行えばお味方が増えることまで加味すれば、一万二千のうち六千までは富木、西谷内、天堂、宅田、穴水、飯田、松浪等の各城の攻略に宛てても構わないと思っております」
物見の報告によれば、松波城以外は全てほぼ百数十名ほどしか兵が残っておらず、ただ松波城のみは千程の兵が込められているという。攻城戦自体に不安はほとんどなかった。ただ、攻城戦の仕様について、特に木下藤吉郎のもつ経験を諸将に吸収させるというのが、この分派の意図であった。
では、と草太が言い、
「西から順にぐるりと攻めてもらおう。ここの前線は渡辺前綱、滝川一益、そして私の三人で受け持つ故、残りの全員でぐるりを回ってくるが良い。各員、攻城戦のやり方についてしっかり学ぶことを優先せよ。無論、最優先はその地にいる民の安寧である。間違えるな」
応、と一同返事をし、野戦はほとんど想定されていないため脇差、小太刀を主力兵装として持った一鍬衆約五千と中筒隊五百を中核とした軍団がまずは一日北上して西谷内、富木を攻めることとなった。
城門から一町と二町の距離に空堀を二重に配した陣を構え終えた草太は、さっそく後藤帯刀を主将として分派の兵として一鍬衆五千、中筒衆五百を中核とした兵団を北部攻略隊として派兵した。
一方の能登畠山家、畠山義続と温井総貞は、籠城戦の構えを見せていた。兵糧は二カ月半程度と多くはなかったが、その間に加賀一向門徒衆に背後をついてもらい、挟撃することで撃退する策であった。この急場を凌げさえすれば、まだまだ巻き返しが効く。姉小路軍が陣を構え終えたようであったが、こうなれば後は我慢比べである。
しかし、分派が西谷内、富木城を落とし、更に北上して天堂城を攻略すると、俄かに戻れないのは明白であることもあり、また自分の本城を攻撃されたこともあって、温井総貞が進言し、城から打って出る方針に転換した。
温井総貞が言った。
「兵数はこちらが向こうの倍近く、それなのに籠城を続けるのは無意味でございます。鉄砲隊は雨に弱いため、次の雨の日にでも決戦をしましょう。先頭は我が手と松波畠山家の四千が、次に畠山本陣と氷見衆その他の五千が、後詰に長家の三千が仕りましょう」
この提案に畠山義続は同意した。
「雨の日、か。なるほど、敵も鉄砲は使えまい。こちらも弓隊が使いにくいが、敵の鉄砲隊をつぶせるのは確かに有利だな」
そして、次の雨の日に決戦と決してこの日の軍議は終わった。
無論、長続連の手のものによりその内容はつぶさに姉小路家側に筒抜けであったのは言うまでもない。草太は可能な時期を見計らって七尾城を占拠するよう命じた。
姉小路家日誌天文二十三年弥生朔日(1554年4月2日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、かねてより七尾城下に陣を構え候処、雨天を突き能登畠山の軍勢、俄かに出陣し、(略)かくして七尾城は公の手に落ち候。また畠山義綱殿、温井総貞殿以下、主だったものは出家させかねてより依頼し置きたる鞍馬寺に追放と相成り申し候。公曰く、位にあらざれば民を害するなし、位あらば闘争致し候ゆえ、位なくして一命は助け候、とぞ」
他の資料、例えば長家家譜にも同様の記述があり、この日に七尾城下での決戦が行われ、その結果として七尾城が姉小路家の手に落ちたことは間違いがないと思われる。
その日は朝から小雨が降り、鉄砲の運用には差し支えるとの滝川一益からの報告があった。これ以上強い雨になれば、能登畠山軍の弓隊をはじめとする部隊の運用に支障が出る、逆にこれ以下であれば今の雨覆いであっても何とか鉄砲の運用ができる。そういう意味では、正にこのくらいの雨が能登畠山家が望んでいた雨であった。矢盾を持った一鍬衆が最前列に付き、その後ろに銃ではなく投槍器を持った鉄砲衆が並んでいた。矢数は一人に付き二十本であった。大体ではあるが、急進したとして一町を駆け抜ける間に装填状態から投げられる矢は五本程度であるから、これでも余裕を見ている。無論、空堀があるから、単純な比較は難しいが。
まずは温井総貞隊及び松波畠山隊四千が城門を開き、出陣してきた。無論、姉小路軍が出陣しきるまで待っているわけもない。こちらも相応の態勢を取り、特に長距離にまで飛ばすことが得意な者達を集めた隊により、城門を出た直後から投槍にさらされた。といっても、数はそれほど減らない。飛んでくる槍の数が百数える間に二十程度では、四千という数の前には無力である。そして、陣形を整えて突撃させた。
第一の空堀を越えたところで、滝川一益が投げ方開始を下知した。千本の投げ槍が飛び、また十も数えぬ間に次の千本の投げ槍が飛んだ。二つ目の空堀に至るまでに五回目の投げ槍が投げられ、この攻撃で二千名以上のの兵が死亡、または負傷により失われた。
温井総貞は、はじめ何が起こっているのか分からなかった。物見の報告によれば、弓隊はいないはずだ。それなのに矢が飛んでくる。それも、矢盾を貫くほどの威力のある矢が。矢が全体に太く大きい。どのような強弓ならこういった矢を撃てるのか、それもこれほどの数を揃えられるのか、さらにその存在を今この瞬間まで隠していたのか分からなかった。
それでも果敢に前に出て、二本目の空堀に差し掛かったところで、一鍬衆の槍による攻撃が行われた。といっても、三人一組のこの攻撃に対処する法は既に温井総貞隊にはなく、数百が失われたところで後方で畠山義続隊が出陣を終えたのを確認して攻撃を打ち切り、畠山義続隊と入れ替わった。この戦場の交代の間も投げ槍が能登畠山軍を襲い、畠山義続が二本目の空堀にとりついた時には既に五千のうち二千が失われていた。残り三千が空堀を挟んで一鍬衆と戦っているさなかに両翼より一鍬衆が突入し、畠山義続は兵を引かせ辛くも自身が城門にたどり着くことができた時には五千の兵がほぼ壊滅していた。
ふと畠山義続は後ろに長続連隊が出陣していないことに気が付いた。戦場の喧騒は、城内をも覆っていた。畠山義続は背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、それでも百程度にまで数を減らした兵を率いて城門を潜った。
温井総貞隊は城門を入った時点で点呼を行い、四千のうち千百程度しか残っていないのを知った。小雨で視界が悪かったが、飛んできた太い矢の正体は見極めていた。槍だ。投げ槍、打矢の類だ。ただし、どうやったらそれほどの力が出るのか、温井総貞には分からなかったが。
城門内には長続連隊三千が殺気立っていた。最初、出撃だから殺気立っていたのかと思ったがそうではなく、その殺気がこちらへ、温井総貞隊に向けられていることに気が付くと、最前線に出て言った。
「長続連、謀反を致すつもりか」
これに長続連が答えた。
「我らはよりふさわしき方を能登の主に据え申すまで。操り人形の畠山義綱殿にも、重臣を抑えられずに内乱続きで操り人形の繰り手のつもりの義続殿にも、権力抗争に明け暮れる温井総貞殿にも、ここを出ていった遊佐続光殿にも、もううんざりでござる。……やれ」
長続連の三千が、姉小路軍との戦いで傷つき疲れ切った温井総貞隊に襲い掛かった。勝負は火を見るよりも明らかであった。温井総貞はただ一人の使い番を出すことも出来ず、ものの半刻もなく温井総貞隊は壊滅し、温井総貞は捕縛された。そこへ、何も知らない畠山義続隊百が何とか入ってきた。無論、抗すべきもない。畠山義続は即座に捕縛された。
こうして、七尾城は城門前における姉小路軍の圧勝と城内における長続連の内応により、姉小路家の手に落ちた。




