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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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七十三、外交攻勢

 大幅に時は遡る。草太が兵を引き連れて氷見へ向かう、その直前のことである。弥次郎兵衛は一つの建白書を草太に提出していた。

 草太は政務の時間に弥次郎兵衛を呼び出し、聞いた。

「朝倉と同盟を、か」

 草太にも意図は分かり切っていた。加賀一向門徒衆を壊滅させる、その布石である。敵の敵は味方、というわけである。問題はいくつかあった。その最たるものは朝倉家と姉小路家は未だに何の接点もない、ということである。

「伝手はあるのか」

と草太が聞くと、弥次郎兵衛は無論、といった。既に朝倉宗滴にわたりが付いているという。

「なに、簡単に言えば沖島牛太郎、あれの伝手でございますよ。商売柄、敦賀の先は越前、伝手がない訳がございません」

 草太はとりあえず進捗状況を尋ねた。

「既に接触はしたのか」

「いえ、御屋形様の裁可を貰わなければ、これ以上話を進めるのは無理でございます。ただ、今のところは加賀を共通の敵とする相手、としかございません」

「で、どうするつもりだ」

 建白書には、外交交渉すべきだ、としか書かれていない。

「当家には外交のできるものがおりませぬのでそう書きましたが、時間のあるうちに一度お忍びででも朝倉家にお邪魔してみたらいかがでしょうか」

 簡単に言ってくれるな、と笑って、そして言った。

「話は進めよ。朝倉家とは厚誼を結びたいものだ。出来れば早いうちにな」

「早いうちに、でございますか」

 草太は歴史を知っていた。それが何年後かは分からないが、朝倉宗滴の死と朝倉家の衰退、滅亡、それはそれほど遠くない未来だということは分かっていた。

「朝倉宗滴殿がご存命の間は、朝倉家は強国だろうが、その後を継ぐだけの将がいない。おそらくは次の代が大変だろうよ。その中で育つものもいるだろうとは思うのだがな」

とだけ言い、加賀は通れまいなぁ、と人ごとのように言った。



 そして、能登動乱の前半である、能登末森城攻略までの次第、即ちは大槻一宮の合戦の次第については既に述べた。帰還する兵の大部分は滝川一益と渡辺前綱に任せ、自身は諸将と馬回り五百と共に一足先に増山城に戻っていた。

 姉小路家日誌天文二十二年霜月晦日(1554年1月3日)の項には

「姉小路房綱公、内々にて上洛仕り候。放生津より船に乗り敦賀、越前金ケ崎城にて朝倉義景殿、朝倉宗滴殿と面会し、加賀は南北より攻め候事を確認致候。引き出物あり候由。朽木谷にて足利義輝公、また京洛にて一条公他にご挨拶致候。堺にも一声かけし処、田中与四郎、漆塗りを買い上げ候故、帰りの荷が重くなり候」

 とあり、次の日付が天文二十二年師走二十八日(1554年1月31日)なので、その間に上洛していたことが分かる。毎度のことながら間隙を縫って上洛する草太であった。



 草太、平助、木下藤吉郎、細川藤孝の四名と三人の小者に飛騨の漆塗りを多数持たせ、また各所へ送る荷を飛騨、美濃経由で送らせる目録、京への手紙を言付ける者があればその手紙と様々を持ち、放生津から船に乗ったのは霜月晦日であった。増山城に戻ったのが霜月二十八日であるため、三日といなかったことが分かっている。もっとも、草太が増山城に居てもこれからの時期はすることもないのも事実ではあった。試験的にではあるが、政務一切を飛騨は牛丸重親に、西越中は弥次郎兵衛にそれぞれ任せ、その報告書のみをみて判断する、という訓練をしていたため、草太がいない方が都合がよい部分があったためでもある。

 草太抜きでどこまでやっていいのか、という見極めは各人に任せているが、全てにおいて詳細な報告書を作成させていた。基本的には、合戦など他国に大きくかかわることは草太の決済が必要である。


 ところでこの僅か三日の間に、草太は七太郎に二つのことを命じている。実のところ、七太郎の新兵器開発方は「御屋形様の趣味」と言われるほど、草太以外が命令を下すことは滅多になかったし、命令系統からすれば草太直属の部署ということになる。だからといって偉い訳でもなく、部下も連絡係が一人と徒弟が一人だけ、他部署への権限も勘定方に対する材料費の請求程度しかなく、逆に技術を教える義務があるなど余り関わり合いになる人間もいない部署である。


 さて、命じたことの一つは、皮革等の専門家と協議して降雪時にも対応できる装備について研究せよとあった。先頃制式採用された革製背嚢の他、革製の手袋や着物、袴など一式であり、革の足袋も命じられたものに含まれていた。確かに気温が下がり綿入れもなければ体力は奪われるとはいえ、各人で用意すべきものまで制式採用として用意すべきだという周到さに、七太郎でさえ頭を悩ませることになるのは、また別の話である。

 この革製の足袋や着物についてはすぐに出来た。というよりも、大部分は既に山の民と呼ばれる者たちにとっては必需品であり、製法も難しいものではなく、五箇山や白川郷での真綿屑を二層にした革製の着物の間に挟むことで、驚くほどに暖かいものが出来上がった。手袋も同じ方法で作ることが出来、しかも材料は有り余っていたため単価を下げて自給することが可能であった。

 正月にこれらは披露され、驚きと共に称賛を浴びたのであった。


 もう一つは雨覆いの改良であり、曰く、強風、豪雨であっても使えるように、というかなり無茶な要求であった。第一、火薬が湿れば火縄銃は使えない。ということはそこからどうにかすべきだということになる。先込め式の現行の中筒であれば、銃口の側にも工夫が必要であった。

 雨覆いの改良は中筒ではついにできなかった。どうしても弾込めの際に鉄砲を立てる、その時に雨水が入るため火薬が湿気て不発となるためであった。新型銃で手元部分に被せる雨覆いが登場して漸く完成を見た。

 だが雨の日に鉄砲隊がまるで遊軍になるのは避けたいという草太の命により出てきたのは、投槍器であった。聞けば以前、堺で聞いた投槍器を自作したものの、結局は試作品の山に埋もれていたという。本体は簡単な木工品であり、簡単な訓練だけで使うことができるという。投げる槍もそう難しいものは要求されず、通常の弓隊の矢と同等かそれ以下の作成難度であった。威力は弓には劣るが、一町程度であれば容易に飛ばすことができるという。これも売り込んだ先は、槍を投げるというだけで拒絶反応を示してしまい、話にならなかった。

 草太は一応の実演を見て、鉄砲隊の雨天装備として投槍器を制式採用したのであった。

 訓練の結果、三町近くまで飛ばすものもおり、また器用なものは二町先の鎧に当てるなど、鉄砲よりも射程という意味では広かった。しかし、威力はやはり劣る上、投げ槍の携行数の問題もあり、当面は鉄砲隊の補助兵装としての採用であった。

 この投槍器であるが、七太郎の工夫なのか、七太郎が聞いたものを実践したのかは知らないが、鉄製の輪に投げ槍の石突を引っ掛け、紐を二三回巻きつけて投げ槍の後ろ三分の一ほどにある突起に投槍器を引っ掛けることで発射体制が整う。鉄砲よりは楽ではあるが、完全に弓の方が速射が効く。そのため忘れ去られた技術であるのかもしれない。


 さて、草太たち一行が放生津から船に乗った。その船は一泊二日、現代の時間にすれば二十四時間ほどかけて敦賀の港に着いた。船と言えばお馴染みの草太と平助の船酔いであるが、やはりこの時期の日本海は荒れるためだろうか、やはりひどい船酔いをしたが、早船の時ほどではなかった。そして翌日、越前金ケ崎城にて朝倉義景、朝倉宗滴と面会に及んだ。

 この二人と直接面会出来るだけの下準備をするほど、弥次郎兵衛の外交手腕は優れていたと言ってよいだろう。


 謁見の間に、床の間を背に朝倉義景が、そして正面右手には朝倉宗滴が座り、相対して草太たちが座った。

 簡単なあいさつの後、朝倉宗滴が言った。

「で、この度はどういった要件のご訪問でございますかな」

 草太が答えた。

「実は当家は、足利将軍家より加賀守護を命じられておりまする。そのため、明年秋にも出兵し、一向門徒衆を叩かなければならぬ仕儀と相成りました。しかし朝倉家としても加賀一向門徒衆とは因縁浅からぬ仲、おそらく出兵も視野に入っておりましょう。そこで、加賀に関しては協調路線をとれればと思い参りました」

「加賀守護、とな」

 朝倉義景が言った。

「富樫家はどうなる。代々加賀守護に任じられていた身のはず」

 これには細川藤孝が答えた。

「足利将軍義輝公にあらせられましては、既に力を失って久しく、その地位に戻るほどの甲斐もないため、姉小路家に加賀守護を命じられております」

 この発言で、朝倉宗滴が細川藤孝に気が付いたようであった。

「そなたは細川藤孝どのか。……そうか。それほどまでにか。時に姉小路房綱殿、そなたは何を求めて戦をしているのだ」

 草太は困惑した。何を求めて、とは何が聞きたいのだろうか。困惑顔の草太に対して、朝倉宗滴が続けていった。

「人はいくつもの仮面をかぶるもの。その本心が知りたいのだよ。平時には温和かつ寛大な指導者、戦場では過酷苛烈な戦巧者。その一手一手にはいくつもの布石があり、或いは内政でさえも他国にとっては脅威になりさえする。その姉小路房綱殿の本心は、本願はいかにあるのか。最後に求めるのは何なのか。それが知りたいのだよ。無論、言わぬというのもここではある話だがな」

 草太は困惑しつつも、つまりは志を聞いているものと理解した。それ故言った。

「民が傷つき苦しんでおります。これを何とかするために、いささか矛盾しておりますが、戦をなくすために戦をしております」

「戦をなくすために戦をする。確かに矛盾しているのぅ、だが、乱世を終わらせるのは力、即ち戦に他ならぬ、か。殿、やはり」

 朝倉宗滴が促すと、うむ、と朝倉義景が言い、

「当家としては、姉小路家と同盟を結びたいと思う。どうか」

 どうか、というならば、諾というしかない。だがそれは加賀を攻略後、領土拡張の余地がなくなることを意味する。確かに領土膨張に内政が追いついていないという誹りはあるとはいえ、その後の行動を縛りすぎるのも問題ではあろう。この微妙な空気を察知したのは、木下藤吉郎であった。

「ひとまずは加賀への共同戦線ということにして、もし加賀に領土をとなれば朝倉家に当家が守護代に任ずることになりますから、上下関係として当家が上になってしまいます。それはまずいだろうと」

 これに反応したのは、朝倉義景であった。

「分家を作ってそこを守護代にしてもらうもよし、当家の領土が寸土とも増えずとも好い。ただ、加賀守護が加賀を治めるのが当たり前の話である以上、それを覆すのは良くない。それだけの話よ」


 そこまで言われては、協調路線を蹴る以外に同盟を蹴る道はない。佐幕か、と草太は今まで見たことのない形の武将のあり方を興味深々と見ていた。室町幕府という大木、根腐れを起こしているかもしれないがそれを支えようとする人間も確かに多い、巨木。それが室町幕府の作った一種の価値観であり共同幻想でもある。それを必死に守ろうとする、佐幕というあり方。これも一つのあり方であった。

 考えてみれば、草太が天下を統一する必要はどこにもない。天下が治まりさえすれば志は果たせるのだ。少なくとも日本(ひのもと)では。


 そして、草太は同盟に諾と答えてこの日の会談は終わった。

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