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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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六十九、能登動乱前夜

 室町幕府が幕府として機能していたころ、能登の国は畠山家が守護であり、遊佐家が守護代として治めていた国であった。畠山家は三管領家の一つであり、越中、河内、紀伊など広大な領土を守護として保有していた。むろん直接は運営はできないから、守護代を置いた。能登の国は遊佐家、越中の国は神保家及び椎名家であり、後に椎名家は長尾家にとってかわられ、椎名家は又守護として越中を治めることとなった。

 しかし、時代が移り変わると畠山家の分家が能登の国に入り、守護と同格の家柄として活動するようになった。これが能登畠山家である。

 問題は、この能登畠山家と元々の守護代であった遊佐家の関係が曖昧なままであったことであった。一応、遊佐家は分家の能登畠山家を立てて行動するものの、能登畠山家は自らが立てられているとは思わず、家柄ゆえに当然の扱いをされているものと錯覚していたのである。そのため、能登畠山家七代目畠山義総が名君であったこともあり問題にならなかった問題が、八代目畠山義続になって噴出してきた。元々の守護代の家柄を誇る遊佐家と、自らの才覚でのし上がった温井総貞の家中での対立の調整ができず、急激に大名としての政治力を失っていってしまった。この家中の混乱がいわゆる能登天文の内乱である。この内乱を抑えるため、最終的には天文二十年(1551年)に当主畠山義続が隠居し嫡男の畠山義綱が、七人衆と呼ばれる七人の重臣の補佐を得て政治をすることになった。ただし、畠山義綱自身は父の後見を受けずにはおられず、天文二十二年(1553年)時点ではまだ自身の政策を行う力はなかった。


 この七人の重臣の内部に能登天文の内乱を引き起こした二人の重臣が二人とも含まれている点である。当たり前の話だが、表面上は当面は矛を収めているが、内心は矛を収めるわけもない。二人の実力者は、調停するものがいない限り優劣をつけたがるのが世の常なのだ。結局のところ、遊佐続光が加賀一向門徒衆約八千を誘い、能登へと侵攻した。天文二十二年霜月(1553年12月)のことである。



 この情報に最も敏感に反応したのは、当然ながら服部保長であった。天文二十一年師走に遊佐続光が出奔した時から、一両年中にこの挙があることは予想されていた。このことは草太にも説明してある(「続、越中評定」参照)。しかし情勢は当時よりある面においては良かったもののある面においては悪かった。

 まず良かった面としては、このときの一向門徒衆の装備が充実していたことにある。ほとんどの場合、一向門徒衆は胴丸をつけているのが半分もいるかどうかという辺りであるが、今回の戦に関してはほぼ全員が胴丸、陣笠を装備し、槍もきちんと手入れされているものがほとんどである。通常であれば錆び槍か、下手をすると竹やりに脇差一本刺しただけという門徒衆さえいるのが現実なのに、である。これは草太が米を買い上げたことによって大量の軍資金が加賀に流れたことを意味していた。鉄砲こそなかったものの、これは扱える農民がいなかったからに他ならない。

 一方の悪い面としては、兵糧にかなり不安があった点であった。軍資金として米を売ったということは、逆に米は不足していた。そのため、勝てなかった場合には春小麦の収穫をあてにせざるを得ず、能登にどの程度の兵糧の蓄えがあるかも出奔後に大量のコメの買い付けが加賀であったことから、能登にもそれほどあるとは考えにくかった。結局のところ、短期決戦で勝敗をつける必要があった。籠城されてそれを囲む、などというのは論外であった。被害が多くても力押しで城を落とさなければならなかった。


 とはいえ、いずれが勝とうと姉小路家には全く関係がなかった。勝った側をたたき能登を席巻する。これだけが基本戦略であり既定路線であった。



 滝川一益は常備兵で構成された中筒隊の訓練を終え、概ね満足する結果を得ていた。装填状態から百数える間に三発。的は五間先の角的であり、二発を当てること。これが中筒隊に課した課題であった。数名の不発に見舞われた不運な者を除き、全員が水準に達しているのは喜ばしいことであった。中筒自体は、飛騨で作られた中筒と堺商人から買い取った中筒の合計二千丁程度存在したが、当然飛騨にも置いてあった。加賀からの侵攻に対応するための残置部隊にも必要であり、越中から能登へ出せる数は千丁程度とされていた。

 渡辺前綱は一鍬衆一万二千、そのうち六千を配下とともに三つに分けて中央四千、両翼千として伏せ、中央が下がりながら誘い出し両翼より伏せた兵による挟撃を訓練していた。手足のごとく使えるのは五百から千までで、それ以上となると指揮官を別途おかなければならない。今はまだ渡辺前綱の配下だけで何とかなっているが、軍学校が発足しある程度実を上げだせば問題なくなるだろうと考えられていた。しかし、どちらにせよ能登侵攻には間に合わないことは明白だった。

 槍隊と中筒隊の共同指揮も中筒隊が撃ち、打ち終わったら槍隊と交代して適度に戦って下がった。下がっている間に両翼が突入し、両翼が戻るころには再度中筒隊が前進して射撃した。

 訓練ではこのように美しくいくが、実戦ではこのような楽な戦いはありえない、というのは滝川一益も渡辺前綱もよく分かっていることであった。


 因みに未だに騎馬隊は発足していなかった。

 一応、馬回り隊は騎馬隊と呼んでも良いかもしれないが、騎兵だけの部隊という部隊をどのように使うのが最も効率的なのかについての議論がまだ決着を見ていないこと以上に、騎兵だけの部隊を作るほどの騎馬が未だに揃わないためであった。ただ乗れればよいというものではなく、例えば鉄砲の音が聞こえても暴れないだけ慣れさせなければ戦場では使えなかった。更にある程度の馬体も必要であった。鎧武者を乗せて戦場を疾駆するとなれば、それなりの馬体が必要であるためであった。

 能登での戦では間に合わないだろう、というのが平野右衛門尉の意見であった。

 その平野右衛門尉の意見では、騎馬隊は突撃して敵部隊を混乱させることこそ華であるというのが持論であった。馬体で押しのけ、やり玉に挙げながら敵を割る、これこそが騎馬隊の使い方だと主張してやまなかった。敵に打撃を与え混乱させること、これこそが騎馬隊の騎馬隊でである所以であると譲らなかった。

 その証明は、だが、ある程度の数が揃い何回かの戦訓が積み重なってはじめてなされるものであった。そのため早くても加賀攻略戦までは結論が出ないというのは、明白であった。



 草太が加賀一向門徒衆出撃の報を聞いたのは、姉小路家日誌によれば、天文二十二年霜月朔日(1553年12月6日)であった。

「姉小路房綱公、加賀一向門徒衆を用い権力を奪取せんとする遊佐続光の行いに心を痛め、大層ご不興になり申候。能登守護代を任されている身として、看過致不可として心ならずも戦の用意を命じたり」


 草太は自分の策が当たらず、悲しく思った。草太の策では、米不足から今年の出兵はなく、来年春以降だと考えていた。しかし、現実は非情であった。どう考えても兵糧はギリギリしかないはずだから、遊佐続光率いる一向門徒衆側は短期決戦を、つまり野戦をせざるを得ず、あるいは石山から米が運ばれてきたのかもしれないが、少なくとも服部保長の情報網ではそのまま売り払わられて加賀に留まっていないようであった。

 結論から言えばあの一向門徒衆は餓兵である可能性が高かった。これはとりもなおさず、通りがかりの村々での徴発、というより略奪が行われるに等しいものであった。少なくとも草太の予想通りであれば、略奪が行われる、それも大規模な略奪が。おそらく草太のせいであった。何もなくともやはり略奪は行われたかもしれなかった。だがそう割り切ることは、草太にはできなかった。自分のせいで略奪が行われる、その可能性が限りなく高いとなると、草太は暗澹たる気分になった。

 それはそれとして、やはり兵には兵のすべき仕事があった。軍に出撃準備を命じ、自らの鎧、槍の類を検めた。そのうえで夜にも軍議をすることを通達した。



 その夜の軍議は、それほど実のあるものではなかった。

 まず今回の戦で使うことのできる全軍の数を報告させた。騎兵隊は馬回り以外は皆無、槍隊は一鍬衆一万二千、後詰として上見城に内ケ島家が入っているため、八千は出せた。ただ将の問題から六千程度にし、二千を後詰扱いにして小島職鎮を守山城に込めるのが良いだろうと渡辺前綱が述べた。滝川一益は中筒隊約二千、全員でも出せるが、飛騨本国と越中の守護を考えれば半分の千程度は出せる、との報告をした。つまり、槍隊六千、中筒隊千、馬回り五百に後詰二千。この他に輸送部隊と医療部隊が合計三百もつくかどうか、という辺りであった。

 服部保長の報告によれば、能登への一向門徒衆の数は約八千。馬印から一向門徒衆の他遊佐続光が従軍していると判明していた。畠山将監が八百で出撃し、七尾城を目指しているという情報は入っていたが、温井総貞側の兵力はまだ判然としなかった。ただし、未だ七尾城から出ていないことを考えると、主君畠山義綱が自ら出張る、つまり家臣同士の戦いではなく一家臣の単なる謀反として処理するつもりのようであった。勿論、二巨頭の一が謀反人として処理されるのであれば、能登畠山家の実権は温井総貞の手に落ちるのだろう、と予想された。それが狙いで何かしたのかどうかまでは分からなかったが。


 草太とすれば二つ知りたいことがあった。一つは氷見の国人衆寺島職定らの動きについてであった。可能であるならば、両成敗として氷見もこの際平らげてしまうつもりであった。

 もう一つは畠山義綱、ないしは隠居した畠山義続が七尾城から出撃して野戦をするつもりがあるかどうかであった。同じ野戦をするにしても、畠山家から出ずに温井総貞だけが出撃するのであれば、単に重臣内部での武力抗争をしただけとなってしまい、能登畠山家の責任にはならないためであった。もっとも、監督責任という事で能登畠山家の責任とすることもできるだろうが。


 いずれにせよ中々に考えどころであった。

 服部保長の読みとすれば、氷見の国人衆も動員され、畠山義綱が大将となって鎮圧にあたるであろう、ということであった。もっとも、氷見国人衆も未だに草太に対して着任挨拶もしないことを理由に、畠山義綱については監督不行届きを理由に、いずれにせよ攻撃対象から外れることはありえなかったのではあったが。


 それぞれに攻略準備をすることとして、この日は散会となった。


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