六十五、剣豪将軍
草太が連れてきた兵五百は方広寺に起居することになった。とはいえ、半数は日中はおらず、夜には境内の隅で寝るだけではあるが。
姉小路家日誌の天文二十二年卯月八日(5月20日)によれば、
「姉小路房綱公、兵を引き連れて方広寺に着陣致候。兵糧は三月分はあるも、人を遣わして一月分の食料に筵、金一匁と共に困窮寺へ寄進致候。また公、御烏帽子親一条房道公を訪ね候。公、一条房道公より親しく言葉を頂戴奉り、陞爵の内示有之候。又西洞院家をはじめとする半家、名家に手紙を届け回り候。然るうち、参内の許可下り、朝廷にも参内仕り候。この間の善政並びに西越中の服属を賞され、正四位上に上り給えり」
おそらく一条公の項以下は同日ではなく次の日付の記述のある卯月十五日までに行われたと考えられる。
そして少し日が空くが、天文二十二年卯月十五日(5月27日)の項に、足利将軍足利義輝に拝謁している。場所は二条御所であると言われているが、定かではない。
「足利義藤公、姉小路房綱公の越中侵攻を責めたてたが、房綱公持参の畠山政国公の書状を引見し、ならば、とて簒奪されて久しい飛騨守護と絶えていた加賀守護を命じられたり。公ありがたく拝命致候(略)」
ここで足利義藤と書かれているのは、後の足利義輝である。以後、混乱を避けるために足利義輝で統一するが、義輝に改名するのは1554年、つまり草太を引見した翌年の話である。
京について早々手配りをして、翌朝、最初に向かったのは一条房道公の屋敷であった。訪問は既に書状で知らせてあるため、一条房道公自ら引見された。無論、献上品については目録の形で渡してあった。この訪問の少し前に息子一条兼冬が関白に任命されたので、太閤となっていた。といって、特に何か違いがあったわけもないが。
ついて早々に参内するようにと言われ、どういうことかと聞けば官位が上がるということであった。従四位下から正四位上に、三段の陞爵であった。普通は一段ずつしか上らないが、三段階を一度にあげるのは珍しい。ただし、相変わらず飛騨国守であった。
それから、一条兼定公についても話が出た。公とつけるほど年齢は離れていない、というよりもほぼ同い年であった。内外に活動するようになったが、中々情勢が安定しないという。本人の資質もあるだろうが、本人がどのような志を掲げ、それに向けて活動する、という程度しか何ら具体的な助言はできなかった。ただ、せっかく中村御所には港があるのだから、それを生かすような政策を行えばよいのではないか、と言い、そういえばと田中与兵衛なる人物を紹介してよいかを問うたところ、土佐一条家は既に手を離れておる、との答えであった。一条房道公も一個の英雄ではあったが、いかんせん年齢が年齢なのだ。いろいろと億劫なのだろうと草太は思った。
次に向かったのは西洞院家であった。時当殿にはよくよくお世話になったため、特に何もないが、勿論、手土産は忘れずに訪問することとした。時当自身は公用で奈良にいるために会えなかったため、一筆残して去った。そして、公卿たちへの訪問であった。大多数は手紙を預かってていたため、それを届け、また給金の一部だという名目で銀一匁をそれぞれに渡して回った。この次男・三男の家は数がかなりあったため、岩田九兵衛と分担して回った。
そして翌日、参内である。既に既定路線として正四位上までの陞爵は内定していたから参内時期だけの話であったが、時の太閤殿下、前関白、関白という協力があるから、参内の時期を待つ必要はなかった。翌日の朝議、その最後に差し込まれる形で天皇陛下の裁可を経て、正四位上への陞爵は無事に執り行われた。もっとも、名前だけのものでしかなかったが。
この参内よりも重要な案件としては、足利将軍との面会があった。面会場所は、二条御所ではなく本能寺であった。
方丈に入ったのは、幕府側としては足利義輝、三淵藤英と細川藤孝、姉小路家側としては草太、平助と木下藤吉郎であった。ここに最も新参者である木下藤吉郎が入るあたり、姉小路家の家風が知れよう。ただし、姉小路家の人材不足を露呈していたともいえるが。
まず、三淵藤英から直答を許す旨の発言があった後、会談が始まった。
「まずは姉小路房道殿、正四位上への陞爵、結構至極である。今後とも陛下の宸襟を安らげるため、努力するがよい」
はは、と草太が平伏すると足利義輝から叱責が飛んだ。
「しかしながら、飛騨は不問に付すにせよ、なぜ西越中へ侵攻し、能登へ侵攻する構えを見せておるのだ。申せ」
「この書状とご覧ください」と草太は一枚の書状を差し出した。細川藤孝が足利義輝に披露した。そこには畠山政国の名で、両国とも姉小路を守護代に任ずる旨の文言が書かれていた。
「我々は、畠山政国殿、椎名長常殿の要請により西越中へ侵攻しました。そして、まだ能登へは侵攻しておりませぬ。ただ内紛などで能登の民が苦しむようなことがあれば介入せざるを得ないように思っております」
草太が言うと、足利義輝は言った。
「ふん、筋は通っておるか……時に加賀はどうだ。欲しいか」
「率直に言って、欲しく思います。今の一向宗は僧は僧として僧侶の本分を守っておりませぬ。政などに携わったり欲に駆られて内紛を起こすような僧は、僧侶ではなく単なる地侍でございます。侍ならばこれを討つのに別段特別な感情はございませぬ。ただ政が悪ければ討つまでです。ただ問題が……」
草太が言い淀むと足利義輝は言下に行った。
「ふん。なるほど。大義名分か。よろしい。加賀守護に任命する。藤孝、筆を持て」
「よろしいのですか」
「よい。余が認める」
紙筆を用意すると足利義輝自身の手で、姉小路房綱を加賀守護に任ず、と一行書いて署名、花押をして草太に渡した。草太はそれを押しいただきながら、再度念を押した。
「加賀守護、でございますか。よろしいのですか」
「よい。加賀守護である富樫の家は没落して久しい。今更取り返したいとて遅いわ。姉小路房綱に任せる」
足利義輝はそういうと、励めよ、と一声かけた。
「ありがたく拝命致します」
草太は再度書状を押しいただき、懐に入れた。
足利義輝は妙なことを言い出した。
「ところで、評判はよく聞くが姉小路家のことをよく知らぬ。それゆえ、我が家臣を一人、そなたに預ける。儂と連絡を取り合う故、心してかかれ」
「どなたでございますか」と草太が言いながら、見当がついていた。この場にいる人間でそれに該当する人間は一人だけ、細川藤孝ただ一人であった。
「細川藤孝、そなた、姉小路家に行け。そしてその才覚で将軍家復活のための様々な経験を積んでくるのだ」
はは、かしこまりましてございます、と細川藤孝は平伏した。
足利義輝と面談が終わるころになって、足利義輝は言った。
「房綱殿は鞍馬寺で修業したため剣術も使えるとか。たちおうてはくれぬかな」
そういうとたすきをかけ、木刀を手にした。草太に否も応もなく、まして平助に代われとは言えなかった。仕方がないので相手をすることとした。剣豪将軍と後に呼ばれる足利義輝がどの程度強いのか、この目で見たいという興味がなかったとは言わない。また、平助との武錬の成果を試したかったという気持ちがなかったとは言わない。庭に出てたすき掛けになり、木刀は借り、一振りして感触を確かめた。
「遠慮は無用ぞ。剣を見せい」
足利義輝はそういうと始めの合図を三淵藤英に任せ、中段に構えた。一丈ほど離れて草太も中段に構えた。はじめの合図とともに草太は剣気を抑え、まずは守勢にとった。足利義輝はさすがに塚原卜伝らから直接学んだ剣豪であった。簡単には仕掛けてこない。じりじりと距離を詰めてはいるが草太の守勢の気に対して攻勢の気をぶつけてきた。
そして、一刀一足の間をじりじりと犯しながら、足利義輝にはいま打てば草太を打てる、と同時に自分も打たれている、というのがはっきりと分かっていた。相打ち狙いか、と足利義輝は読んだ。確かに勝負をつけない方がこの場は政治的には正しい。だが剣士としてはどうか。勝負をつけるのが正しいのだ。草太が剣士を志していないのは分かっているが、剣士としての志がないならば最初から勝負しなければ良いではないか。
一方の草太は戸惑っていた。一刀一足の間合いは越えたのだから打ち込んでくる、そのはずであった。そこで打ち返して、勝負は決するはずであった。おそらく先に動いた方が負ける。それを見切ってじりじり近づいているのか、それとも何かを測っているのか、草太には分かりかねた。かといって、草太の側から打ち込む技はなかった。草太の技は、基本の打ち込み以外はすべて返し技である。これは平助と話し合って草太から仕掛けないようにすべきだという配慮から、そう決めたのだった。
さすがに剣豪将軍と後に呼ばれる足利義輝であった。草太から攻めてこないのは、先に動いた側が負ける、だからといって今から距離を取ることも難しかった。不利を承知で打ち込むしかなかった。ならば、技は一つだけ、無心に打ち込む奥義、一つの太刀しか考えられなかった。
草太はふと足利義輝の攻撃の気が膨れて剣が膨らんで降ってくるのを感じた。八方出の足さばきで下がるのは悪手であり、前に出て剣気をぶつける、これしか考えられなかった。幸いにして守勢であるため、八方出で右前に出て剣気を逸らしながら、逸らした剣気の抜けた穴を打った。面に打ち込んだように見えたが、際で下がられ、また一丈の間で対峙した。
この攻防で足利義輝はどっと汗が吹き出たが、草太はほとんど汗もかいていなかった。相手に合わせただけであったからだ。
ふぅ、と突然足利義輝は剣気を抜き、そして言った。
「流石じゃな。うむ、武家はこうでなくてはならぬな。勝負は引き分け、そういうことでよいかな」
もとより草太に否も応もなかった。勝負なし、と決した。
夜になって木下藤吉郎が平助に、あれはどういうことなんです、と聞いたところ、このような解説をしてくれた。
「あれは、基本的な戦略を見たのだろう。対峙が決まって勝負が始まっても、御屋形様は守勢をとり、相手に打ち込ませてそれを逸らして反撃する。よほどの戦巧者でなければその境地には達しないが、御屋形様はその境地を剣で表現された。義藤公も最後には打ち込まざるを得なかった。乾坤一擲の打ち込みを打ち込んだ。あれは危うい。義藤公は将軍。なれば最後まで乾坤一擲の勝負などすべきではない。とはいえ最後の御屋形様の打ち込みを躱したのは義藤公が見事としか言いようがないが、躱せなかった場合にはどうなったか、さて、危ういことよ」
「そんなに威力のある返しだったので」
「なに、用兵の問題でもある。御屋形様の用兵は相手が動くまで守勢を守り、相手を動かざるを得ない形にしてその隙を突く。一方の義輝公はその前段階で負け、積極的に最初から動いたわけではなく動かざるを得なくなって動いた。それも乾坤一擲の攻勢をかけて躱され、返し討たれたらやはり危ういだろうよ」
そんなものですかね、と木下藤吉郎は納得したようなして居ないような、妙な気になった。




