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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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六十四、草太と河童

 評定を受けて皆が忙しく動く中、草太には少し時間ができた。勝興寺玄宗が下って帷幄に加わったのは、対加賀という意味では朗報であったが、彼自身はあくまで住職という職は譲らないらしく、結局のところ国人衆の一人として扱わざるを得ないのが現状である。各地を転戦する、というのは、難しいだろう。それから、寺の分と彼個人の分は明細を分けて給金を支払う必要があるようだ。この辺りも考えどころである。

 とはいえ、西越中は能登畠山氏の影響下にある氷見を除いて姉小路家の領するところとなった。


 この段階から、草太にできることは少ない。勿論、能登畠山氏の内紛が表面化し軍事衝突という段になれば、十分以上に忙しくなるが、今のところそこまで行くには数か月単位の時間がかかるものとみられていた。精々、援軍要請についてだが、要請されてすぐ出陣とは考えにくい。これまで昵懇の間柄ならばともかく、ほとんど没交渉に近い現状の打開や援軍打診から出陣まで、短く見積もっても二月近い日数がかかる。


 ここに至って草太にはひと月から二月の時間ができたのである。勿論、この時間をただ黙って過ごす訳にもいくまい。まずは暫く国元を離れているから飛騨の巡察も行わなければならない。

 内政の他の部分は書類で把握できるため、殊更視察することも少ない。だが飛騨領内の全体の防備について報告を受け検討を加えた。まず栗田彦八郎に中島城の石垣普請および土城の土塁普請について尋ねた。

「三つ折屏風石垣で街道を挟む形に作りましたわ。あれを抜けようってのは、石垣の上に人がいて矢玉が尽きない限りはまず無理でしょうな。土城の方は、あれは石垣を築くだけ無駄ってものだ。あれ以上堅くならないよ……どの程度の硬さかって、それはあの地形だから、南から来るなら千も詰めれば抜けようがないな。あとは治水を頼まれていたのだが、そっちはまだまだだ。」

 わかった、と草太は返し、治水をお願いするよう話をした。

「川から直接取れるところは、大体終わったからね。後は川からくみ上げるか、井戸でも掘るかの処当たりさね。ここまでくるとキリがないのだがさ」

 細かい場所については太江熊八郎と相談させることにした。



 そのうえで、草太は上洛することにした。前回の上洛では果たせなかった、将軍足利義輝が在京していることも勿論関係していた。一条家、西洞院家はもちろんの事、その他、配下にした半家、名家、羽林家も合計二十件ばかりは回りたい。川並衆との会合もできればしておきたい。その他にも沖島牛太郎や城井弥太郎にも会っておきたいし、先年、計略とはいえ不義理をした田中与兵衛にも顔を見て謝るのが筋だろう。目的は多岐にわたり、連れていく家臣も平助の他、木下藤吉郎と、陪臣ではあるが岩田九兵衛の二人を、また荷駄隊は田中弥左衛門と平野右衛門尉に任せることとした。

 まずは手紙にて諸方へ訪問予定の是非を尋ね、また同時並行でそれぞれに渡す手土産を用意した。その手土産も格というものがあるから画一的にするわけにもいかない。中々に気を遣うものであった。


 今回は訪問する相手がかなり多くなったため、それなりの部隊を編成することになった。参内することにもなるため、特に問題にはなりにくいが、荷駄隊二百人と護衛隊三百人の計五百名の部隊を引き連れての上洛であり、途中の大名、美濃斎藤家、近江浅井家、近江京極氏、近江六角家に使いを出し、話を通しておく必要があった。

 とはいえ、全員一鍬衆か常備兵であるため、荷の中に入れた槍、鉄砲の類を出せば小なりとも一戦力ではある。



 姉小路家日誌によればこの参内の行列が飛騨を出発したのは天文二十二年卯月朔日(1553年5月13日)のことである。旅は順調に進んだらしく、卯月八日(5月20日)には無事に京都についたという記述がある。旅の間に美濃川並衆と会い、近江では沖島牛太郎と会ったという記述があるが、会ったというだけで日付や内容は書かれていない。



「兄貴、山猿、じゃねぇや姉小路房綱殿が来やしたぜ」

 小者に兄貴と呼ばれたのは、坪内利定、蜂須賀小六、前野長康、梶田直繁の四名であった。

「木下藤吉郎が小六を通じ我らと会いたいと言ってきたが、それが本当に本人が来るとはな。あれだけの合戦の後に。大胆というか無神経というか」

 といったのは、梶田直繁であった。梶田直繁は飯山城合戦に出ていないが、梶田直繁の甥が出陣し死亡していたため、含むところがあるようであった。

「本人が来たい、会いたいというのであれば、拒む理由はないな。あの戦も、金で納得づくの戦であったことだしな。……とはいうものの、本人が何をしに来るのかは藤吉郎も知らなんだからな。何をしに来る、というのは確かに知りたいものだ」

 とは蜂須賀小六であった。木下藤吉郎からの情報は、他の情報でも裏はとるが、現在まで確実であった。内情については裏が取れないものの、おそらくは確実とみてよい。

「しかし、考えたものだのぅ。飛騨の鉱山収入で東越中から食料を買い入れ、その食糧で兵を養って西越中を取るなどとはな。発想が面白いわ。戦場においても、銃撃と槍部隊突撃を一糸乱れずに行うとは、かなりの練度が必要だが、それを実際行って見せた。また藤吉郎からの手紙では、砺波郡合戦の際に自ら馬回りを指揮して敵陣に突撃し、二度の敵中突破で戻るという荒業を見せておるらしい。平時は温和だが、戦時には苛烈、というのがあの姉小路房綱という男なのだろうさ。さて、あまり待たせてもいかんから、我らも広間に移ろうかの」

 そういて坪内利定は座っていた円座から立ち上がった。


 広間にて、草太は床の間を背に座っていた。両脇に平助と木下藤吉郎が座っていた。その正面に相対するように、川並衆四名が座り、平助が型通り直言を許すと言って評議が始まった。

「お初にお目にかかります。川並衆の頭目を代表して、手前坪内利定がご挨拶をさせていただきます。……して、この度の面談、いかような用事でございますか」

 草太は言葉を返した。

「用というのはほかでもない。先日の戦で少しやりすぎたため、顔を見て謝っておこうと思ったのが一つ。二つ目は既に木下藤吉郎から働きかけを行っていると聞いているが美濃斎藤、尾張織田と当家の仲立ちをしてもらっていると聞いたのでその礼。三つめは、荷運びを頼むことになるやも知れないからそれの話を通しておこうということ、四つ目は藤吉郎、お主から言え」

 は、と少しはにかんだ笑みを浮かべながら、木下藤吉郎が言った。

「皆さま、特に蜂須賀小六様には随分とお世話になり申した。が、木下藤吉郎、川並衆の木下藤吉郎ではなく姉小路家の木下藤吉郎になりとうございます。川並衆を去ること、お許しくだされ。……手紙は今まで通り送るつもりではございますので、姉小路家をしくじった際には何分よしなにお願い申し上げます」

 この物言いに、思わず笑ったのは蜂須賀小六であった。

「藤吉郎、我ら川並衆は、来るものは拒まず去る者は追わず、姉小路家に仕えたいなら仕えるがいいし、戻りたいなら戻ればよい。我らは自由なる身、この小六が木下藤吉郎を姉小路家に押し込んだのだ。そのまま姉小路家に仕えるなら仕えるがよかろう」

 蜂須賀小六の言を引き取って坪内利定が言った。

「姉小路房綱殿、とお呼びすべきかな、我らは傭兵、戦場いくさばにて散るのには、個人的には含むところがあるものはあれども、川並衆として含むところはございませぬ。また美濃斎藤、尾張織田との仲立ちは仕事として行ったまで。改めての礼は不要にございますよ」

「荷運びは、物の量によってなんとも言い難いが、まずまず普通の荷ならばいくばくかの銭で運びますよ。大体、そちらが本業ですからの」とは蜂須賀小六であった。

「今後はよき関係でありたいものよ」と草太が言って、膳を運ばせた。そしてその夜は宴となった。

 宴の最中、前野長康から尾張織田の鉄砲隊について話が出た。

「尾張織田の大うつけ、あれが家督を継ぐ前から鉄砲を集めていたようだ。最近では昨年だったか大幅に値下がりしたことがあって、その時にもやはり相当数買い入れていたな」

 実はこの事実は、硝石の流れからある程度把握していた。だが、このように他国に情報を流すのは、わざと流しているのか、秘密にすべきが流れているのかは分からないが、用心すべきものがあるように思った。



 翌朝はこの寺を出て近江の国に入り、米原に近いとある寺で沖島牛太郎と合流した。草太は一別以来の挨拶をし、特に国友の衆についてその動向を聞いたのであった。

「鉄砲そのものは堺鉄砲が一時安売りされたので出回っています。ただ、今のところ戦力化に成功したのは尾張織田位で、他は数十丁単位で、それも纏めては使えないという。各大名麾下の武将が五丁、十丁と持っているのが大部分だそうだ。また、戦力化に成功した織田にしたところで、年に一度か二度使うだけしか弾薬がなく、難渋しているということであった。この辺りは既に、草太が知っているからということで明かしたがそれ以上となると途端に口を閉ざすのは、ある意味理の叶っていると以上にこちらの持っている情報を見極めているという証拠でもある。

 こういう意味からいえば、いち早く硝石の自給体制どころか売るほどの硝石を持っている姉小路家は特殊な部類に入るのであろう。


 その草太に対して、沖島牛太郎は妙な忠告をした。この一月ほど、物資が石山から琵琶湖の水運を使って敦賀へ、更に船で加賀尾山御坊に運ばれている、とのことだ。物資の中身は金銀兵糧、刀槍の類であると容易に知れた。つまり、草太たちの加賀侵攻に対応するための準備がなされていってるといって良い。草太は念のために聞いてみた。攻城戦の得意なものに心当たりはないか、と。考えておきます、と沖島牛太郎が返し、この話は終了となった。

 結論から言えば、このときの攻城戦の得意な武将をという草太の希望は、叶えられなかった。既にどこかの武将に仕官しているなどで、攻城戦が得意という武将が見当たらなかったのだ。草太もダメで元々と思って聞いてみただけなので、それほど期待していたわけでもなかったのだが。




 姉小路家日誌によれば、草太たち一向が無事に京は天台宗方広寺に着いたのは、天文二十二年卯月八日(5月20日)であったことは既に述べた。方広寺は天台宗の寺として草太自身に伝手があり、五百の兵が境内を借りることも許可を取っていた。

 兵たちに三禁、即ち勿奪、勿殺、勿害を伝達し、外出は四日に一度、これは籤で決めることとなった。勿論、上層部に休みなどない。また事前に探らせていたけが人を収容する寺は今でも同じように活動しており、寺号ははっきりしないものの敵味方なく受け入れていた。兵の四分の一と持ってきた筵、簡単な薬といくばくかの寄進を添えて、京にいる間は交代で看病し裏手で行われていることの手伝いをさせることとした。この辺りも、弥次郎兵衛を通じて城井弥太郎から話が通しておいた。百名を超える人間があるいは看病し、炊き出しをし、裏手で作業する。荒れ放題であった寺の修繕もする。さすがに細工まではしないまでも、仏像を拭うくらいのことはした。そして、境内だけではなく雨風もしのげる小屋も増設する位のことはした。

 勿論、これは草太には雀の涙でしかなく結局は自己満足であることは分かっている。だが、自己満足と呼ばれても一人でも多くの民を助けることには一定の意味がある、そう信じていたのであった。


 だが、草太は知っていた。知識ではなく今後のほぼ確実な情勢として、三好、細川という有力守護が天皇陛下、朝廷、足利将軍家を巡って戦い続ける限り、この戦乱はなくならない。焦っても仕方がないが、できるだけ早い段階でこの地域を制圧しなければならない。この地域だけではなく日本全土を。

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