六十三、続、越中評定
外は雨が降り出したようだったが、草太たちの評定はまだ続いていた。
ふと思い出したように草太が言った。雨の日の軍備はどうなっているのか、と。これには滝川一益が答えた。
「雨が降れば、火縄銃は使えませぬ。槍隊は濡れるだけ、火薬のみ濡れぬように油紙に包みますから濡れませぬし、背嚢の中の兵糧その他もさして濡れませぬ。ただ、特別な雨具はございませぬ」
それはいけない、とばかりに、弥次郎兵衛に何らかの雨具がないか聞いてみた。
「雨の日は、傘なんて高級品を使う貴人もいるそうですが、我々庶民は蓑傘草鞋に合羽ですな。特に足半と呼ばれる草鞋は安価な割に足元がしっかり致します。が、軍として採用しているという話は聞いたことがないですね。今言ったような雨具も、庄屋位しか持っておりません。大抵は、濡れるに任せるだけです。頭のみ笠をかぶるくらいですね」
それを聞いて、雨具についてもおいおい導入していくようにと弥次郎兵衛に命じたのであった。
さて、と草太は内ケ島氏理に言った。
「後詰、ご苦労である。一旦は収まりし故、田植えもあろう、一度兵を戻すべきであろう。いくら農業による収入以外に重きを置いているといっても、農業を等閑に付してよい訳もあるまい。また、上見城跡に上見城を再建する故、そちらに移り住んでもらいたい。帰雲城は名城とはいえ、西越中の抑えとしては少し距離がありすぎる。再建費用は、こちらで手配する。また、引き移った後は増山城より蔵米二万石相当の金品を給する故、西越中の防衛をお任せしたい」
このことは既に内ケ島氏理には話が通っていたようであり、かしこまりましたというだけであった。弥次郎兵衛は言った。
「上見城を再建するとして、土塁と櫓程度まででよろしいですか」
「石垣までは、とりあえずは及ばない。夏過ぎまでには引き移ってもらいたい故、その期間でできる範囲でよい。飛騨国人衆の高山外記、塩谷秋貞、鮎崎新兵衛尉、飯山保氏にも手伝いをさせよ」
これは、話が既にまとまっていると見た弥次郎兵衛はそれ以上何も言わなかった。
因みに手伝いをさせよとは金を出させ労役を出させろという程度の意味合いである。
では話がひと段落したところで某から、と服部保長が話を始めた。
「まず、能登畠山家の現状です。ひどいものです。つい五年前までの畠山義総殿の治世下ではまずまずうまく回っていたものの、その子畠山義続が継いでからは家臣団をうまく抑えきれていないというのが現状です。元々畠山氏が守護を務めておりましたが、能登は遊佐氏が守護代を行っていました。そこへ、応仁の乱のときに越中から兵を出させるなどを行ったのですが、その時に分家が能登に居座りました。これが能登畠山氏と呼ばれる家になります。そして先代、先々代で大きく実力を示してのし上がったのが温井総貞と、この一派と家柄の故に力を持つ遊佐続光が対立し、権力争いからつい三年ほど前にも戦が起こりました。現在は七人衆と呼ばれる有力家臣団の合議制によっておりますが、既に対立は根が深く、戦は一両年中には避けられないかと。問題は、ここに加賀一向衆が絡む可能性があり、下手に手出しをするとそのまま我々は能登畠山、加賀一向宗の二正面作戦を余儀なくされます。
まずは勝興寺についての始末を急ぎ行い、また西越中における軍備の整備を急ぐべきでしょう」
む、と草太は考えた。戦によって消耗した相手を回復する前に叩く、という筋書きであるが、まずは本当に戦が起こるのか、自信がない。飛騨の郷土史か歴史的に重要な戦であればまだ分からないでもないが、能登の内乱は草太の知識にはないからである。だがまずは服部保長の読みは正しいとしよう。家臣同士の争いを調停できないほどに弱っているならば、長くはあるまい。精々、名だけの領主として実権を家臣に奪われるのがおちだ。ふと草太は気になったことを聞いてみた。
「我々が援軍として頼まれた場合にはどうする」
言下に服部保長が答えた。
「そのまま能登を併呑するが上策、援軍として働き徐々に影響力を強めるが中策、断るが下策であると考えられます。いずれにせよ能登を取るおつもりがあるならば、渡りに船とばかりに最後に援軍を頼んできた側を討つか部下にするかという形をとるがよろしかろうと思われます」
そうか、と草太は言い、この儀は衝突の次第を待って改めて評議するが、衝突の次第によっては能登を攻略することを視野に入れて戦うことを申し伝えた。
少しだけ話が出たが、と前置きして草太は続けた。
「勝興寺、越中一向宗の二大中心地のもう一つだが、こちらもどうにかすべきだ。寺社は寺社、武家は武家である。境を誤ってはならない。寺社は信心を司るべく、武家は政や軍事を担当すべきだ。瑞泉寺のこともある。同じようにすべきだと思うがどうか」
「難しいでしょうな」
口を開いたのは、後藤帯刀であった。瑞泉寺に降伏勧告に行ったこともあり、何らかの感触を受けているのだろうと思われた。
「瑞泉寺の場合には、既に下地として顕誓殿たちの言葉による迷いがあり、圧倒的な戦力を見せつけられた、その直後でございました。勝興寺も同じ手法をとるとすれば、それこそ一揆の鎮圧という形にならざるを得ない。特に寺領については早く結論を出さなければ内政全体に影響を及ぼす。後藤帯刀は続けた。
「あくまで降伏勧告、というのがよろしいでしょう。僧侶として生きるつもりなら寺領は不要、しかし武家として生きたいというのであれば武家として滅んでいただく、という形がよろしいかと」
横から弥次郎兵衛が口を出した。
「一応、寺社仏閣には格というものがあるから、そこには配慮をお願いします」
「しかし、そうなると加賀一向宗が黙っておるまいの」とは木下藤吉郎であった。
「今は顕誓殿らからの勧告に留めて、本格的な圧力はもう少し越中が治まってからでなければ、危険だの。土城に入れている田中弥左衛門殿をこちらに呼べるにせよ、加賀との戦が始まれば、能登畠山氏の内紛につけ込むどころの話ではなくなってしまうからの」
「最後になったが、椎名家について。既に皆も承知の通り、神通川を境と定めた。これで無用の衝突は避けることができるだろう」
草太が言ったが、これに反応したのは木下藤吉郎であった。
「御屋形様、ありゃあどうも、反応が悪かったでの。背後をつかれぬように気を付けるが良いのだろうよ」
なぜだ、と問うと滝川一益が苦笑して答えた。
「外から見ればこの度の一件は、当家が小島職鎮殿を調略して落としたように見えまする。が、その兆候すら誰にも分からなかった。接点すら不明である。椎名氏の家臣団には我々と昵懇のものも多い。してみれば椎名長常殿は部下がいつ反逆するか、籠城してもすぐに内応者がでるのではと、疑心暗鬼にならざるを得ないでしょうな。それに越中統一の夢も諦めていない様子でございますし、油断は禁物にございます」
わかった、と草太が言い、服部保長に命じて大小なく探らせるように、と命じ、この日の評定は散会となった。
評定が終われば、後は実行である。
弥次郎兵衛は検地を忙しく行いつつ、村々を回って庄屋を集め、六公三民一倉の制を説明するとともに、検地の石高をもとに納めるべき銭を課していき、今後しばらくは検地を行わないからと積極的な開墾を暗に指示し、更に次男三男などで手すきのものを常備兵として雇う、もちろん給金を出すことを触れて回った。といっても三十万石とも四十万石ともいう地域である。考えてみてほしい。10万人規模の市の町内会すべてを回って検地をし、新しい税制と制度を説明し、兵の募集までするということがどれほどの作業量を持つかを。その作業量たるやすさまじいことが容易に想像できるだろう。
服部保長は配下の者に物見を含めて多方面からの情報収集に余念がなく、特に加賀、能登の情報は細大漏らさず集めていった。許可なしに調略もないものであるし、調略する相手もまだ定かではない。だが、調略しておいていざ攻城戦というときに内応してもらえればかなり良い結果が得られるだろう。もっとも、加賀一向宗はさすがに理非を超えた狂信者が多く、何を言っても耳を貸さない可能性が高いものばかりではあるが。
滝川一益以下の武将はそれぞれ兵練、常備兵の面接に余念がなく、また騎馬隊を作ったとしてどのような運用が効率的なのかの研究に努めていた。
騎馬隊の運用については大きく三つの運用方針が考えられていた。一つ目は砺波郡合戦の際に使われたような、魚鱗での突撃。二つ目は機動力を犠牲にしても馬に重装甲を加えて壁として用いる方法。三つめは機動力を積極的に利用しての一撃離脱方針。一つ目と三つめはほぼ同じには思えたが、取りうる戦い方が全く異なっていた。魚鱗での突撃であれば敵中突破を行うことが前提となるが、一撃離脱であれば少し戦った後反転離脱する方式であるため敵中突破は不要である。ただし、装備として考えた場合には突撃も一撃離脱も同じように槍のような長柄武器で済むが、重装甲を加えて壁として用いるならば馬鎧からすべてを変える必要があった。
結局は、敵陣が薄ければ突破、厚ければ一撃離脱ということとなり、武器は槍又は長刀で馬は支給するが武器は自弁と定められた。
そして問題の勝興寺である。住職はまだ父実玄から継いで日が浅い玄宗であった。小矢部を中心に十万石近い寺領を抱え、瑞泉寺と並ぶ越中一向一揆の中心の一つであった。ここに、まずは顕誓、照蓮寺善了、瑞泉寺証心の三人を送り込み、あくまで僧侶として生きるか武士として生きるかを問わせた。もちろん、武士として生きるのであれば攻め滅ぼすまでである。会見は二刻に及び、
「その勢いに当たるべき途なし。我ら僧侶の本分を尽くさん。だが同時に武士でもある。姉小路家に仕えるのも、面白そうじゃ」
との言葉を残して勝興寺玄宗は降伏を決断した。寺格を考慮したのか、多少瑞泉寺よりも広い一里半四方が寺域ではあったが、その分蔵米が八百貫と少ない。また、安養寺城周辺は平時は勝興寺玄宗が国人衆として居城とするが、必要とあれば姉小路家が使えるようになったのは大きかった。
これをもって政教分離を目指していたという意見があるが、おそらくは誤りである。実情としては政教分離を目指しているといっても過言ではないものの、草太の立場から僧侶は僧侶の、武士は武士の本分があり、武士の領域に居ようとするものはすべて武士だと考えていたに過ぎない。ともあれ勝興寺の降伏を以て西越中は能登畠山の影響下にある氷見を除きすべて姉小路家の手に落ちたのであった。時に、姉小路家日誌によれば天文二十二年弥生十九日の事であった。また、寺域が広いのは一向門徒衆を国人衆ととらえたためだともいわれている。




