表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草太の立志伝  作者: 昨日の風
第一章 少年立志編
6/291

六、草太の扱い

 翌朝、草太は日の出前に起こされた。いかに草太と言えども、日の出前に目を覚ましていることはなかった。下人が、払暁の紫がかった空の下、庭先を掃いている。それを横目に廊下を渡り、草太は入口からすぐのところに座らされた。少しの板の間の先に畳があり簾がかけられていて、その向こうに一人の壮年の、貴族というより武士の棟梁と言った方がしっくりくるようながっしりとした体格をした男性が座っていた。この方こそ前関白一条房通公である、と草太のすぐ脇にいた昨夜の男、西洞院時当が声をかけた。時当が頭を下げたのを見て、草太も同様に頭を下げた。

「面をあげよ」

声がして、顔をあげた草太の視界には、未だ暗い部屋の中、簾の右前に一人の別の男がいた。家宰の近藤である。地下人ではあるが、要は房通の手足である。当然ながら房通自身が実際に何かすることもあるが、多くの仕事を実際に行うのは近藤ら部下である。2人の家宰がこの時一条家に仕えていた。一人はこの近藤であり、もう一人は鈴木といい、今は奈良へ使いに出して屋敷にはいない。近藤自身も貢納品の出納という仕事があるが、その合間を縫って話をし、この場に同席させた。近藤自身は寝ていないが、そのようなそぶりはおくびにも出さない。

「公が尋ねたき儀があると仰せじゃ。特に直答を許す」

 近藤が時代劇か歌舞伎めいた口調でそう言ってから、房通は草太に尋ねた。

「大まかな話はそこにいる西洞院遠江権守より聞いておる。草太とやら。齢はいくつか」

 八つでございます、と草太が答えると、兼定とほぼ同じなのにしっかりしているものよ、と房通は言った。

「草太、お主の身は元服まで麻呂が後見となり、その遠江権守が面倒を見る。その後、姉小路の姓を名乗り飛騨に戻ることとなる。さよう心得よ」

 ありがとうございます、と草太が頭を下げた。

「西洞院遠江権守、その方は草太をいずこかの山で修業させよ」

 はは、とこちらも頭を下げると、房通は立ち上がり、去っていった。去ったのを見て近藤が手を叩くと、下人が三方に載せた目録を一通、時当の前においた。当座の費に、ということらしい。


 時は少し遡る。

 草太を呼ぶ前に、草太の扱いについて決める必要があるため、夜半に再度呼び出された。無論、このことがあると予期して時当は眠らずに考えを巡らせていた。その程度でなければ、前関白が一介の半家、それも任官はしたが家督も継いでさえいない者の名を覚えているはずもない。その席で時当に、草太を姉小路高綱の養子として認め当主を継がせること、時期を待って元服させた上で飛騨に送り込むことが決定事項として伝えられた。勿論三木氏には秘密裏に、である。公的には元服までは存在さえも秘す、という。ここまでは予測していた。房通が朝廷の威儀を広める上で、幕府との対立の表面化という懸案事項に対し一石を投じるという意味では、向小島姉小路家による飛騨統一が成功しさえすれば、おそらく成功するように援助さえするだろうが、朝廷の威儀を表すことができる、そういうことになるはずだ。ここまでは時当も、そういう結論になると予測していた。

 予想外であったのは、その元服までを、時当、というよりも西洞院家が預かる、ということである。費用は別に渡されるとはいえ、これは予測の外であった。おそらく単なる監督役までであろうと予測していたのだ。

 困ったのは時当である。とりあえず屋敷に連れてもどることにはなる。家中にあれば家督を継いでいない身としては全て報告せざるを得ないが、人の口に戸は立てられぬ、家中のものに外で噂を広められるのは、おそらく京の政界の動向を気にしている三木氏の耳にも届くだろう。したがって、屋敷に留めるのは最低限の期間とし、賓客として家中の下人の大部分には名も明かさず、早い段階でいずこかの山に修業に出す、というのは当然だろう。家格からいっても西洞院家は半家である。より上位の家格を持つことになる草太を預かるとなれば賓客としなければなららず、客としてもてなすというのであれば、修業ということは難しい。精々、書を渡す位が関の山であろう。

 このことは房通との談義でも出された。西洞院家で預かるとなればいずこかの山に、というのは房通も考えていたところである。むしろ、一条家が直接いずこかの山に預けるとなれば、その扱いは当然、相応のものになり、修業には適さない。西洞院家が預けたという辺りが、おそらく修業としては良いのだろう、と、山に預けることが前提であった。

 当初比叡山に、という慣習を提案しかけた時当であったが、ついその夏に行われた合戦、後に江口の戦いと呼ばれる合戦により将軍足利義輝が落ちのびたのは比叡山のふもと、坂本城である。今は東山を中心とした勢力を持っており、京を抑える三好家との拮抗状態により一応は小康状態をたもっているものの、京の東側にある比叡山は危険であった。また仏門に入るのであれば別であるが、鞍馬寺であれば義経公以来の修験道を交えた実践的な術も伝えられれいると聞く。こういった事情もあって、草太は鞍馬寺に預ける、在家のまま時当も庵を結んで過ごすとは取り決めで取り決められたことではあるが、さて本当にそれで良いのかは考えねばならない。特に、鞍馬寺で何を学ばせるかという点については、房通も「任せる」と行ったきりである。これは、本人の資質もあるにしろ、今後の成否はある程度時当の教育如何であるといっているようなものであり、軽く考えるわけにはいかない。慎重に考えるべき問題である。

 もう一つ考えるべきは、いつ草太を元服させるか、である。可能であれば、元服と同時に下向するか、下向してから元服するのが最も良い。といってあまり長く領国を空けていて戻っても実権を家臣から取り戻せなければ、いくつもの前例と同じく意味がない。飛騨の国に関しても、先例として姉小路基綱が長く国元を空けて京に在り、それがために家宰として飛騨の取り仕切りを任せていた古川家に飛騨の国そのものを乗っ取られかけている。否、現在の状況は、病を称して表舞台に高綱が立たない以上、実際に乗っ取られているといって良い。更に幕府方の任じた京極氏を圧倒し姉小路を私称している三木氏の例もある。かつては名目を与えることによって力がそれに従うのが当然であったが、既にその時代は過ぎ去りつつあり、力あるものが名目を強奪する時代になりつつあった。

 この時代に、名目だけを与えたからと草太を姉小路高綱の子として官位を与えて送り込んだとして、何となるだろう。逆に家臣側を勢いづかせることになりかねない。この辺りは、房通とも話をして上手く時期と方法を見計らわなければならない。

 といっても、飛騨に兵を借りられそうな相手も、能登・越中を領国とする畠山位しか時当には思いつかなかった。その畠山も実権は家臣の遊佐氏らが握っているような状況でしかないあたり、どこまで行っても力が先に来る世の延長でしかないのだが。

 名跡を継がせるというだけの話でしかないのであればともかく、草太を元服させた後、飛騨に送り込んで実権を握るところまで、となると、全く時当にはその方法が浮かばなかった。



 草太は時当と共に西洞院家に移り、時当から一通りの説明を受けた後、しばらく考える時間を貰うことにした。無論、飛騨を攻略するということに嫌も応もない。草太には自分の意思というものが、全く不足しているようであった。流れるまま、言われるまま、頼まれるまま、ただ流されていく。

 そういう風にそれまでの人生を過ごしてきたし、そういう風にしか育てられなかったためだ。ただ、結果だけは出さなければならない。これだけが、草太がまだ人間らしく扱われ続ける方法である。現代で草太の失敗を許してくれたのはソウタ爺位のもので、住職ですら最終的には結果を求めていた。母親に至っては結果が出なければ罰を与え、出したとしても機嫌が悪ければやはり難癖をつけて罰を与える、という体であった。


 草太は考えた。最低限の武術や馬術は当然として、それ以外に何を学ぶべきなのか。

 草太が郷土史をほとんど知らなければ、余り問題にしなかったであろう問題があった。そのうちの一つが武田家の侵攻である。信濃北部を抑えている村上氏が敗北すると、その後の矛先の一部は飛騨へ向かう。これにいち早く降伏してその力を借りて飛騨の大部分が統一され、一部で頑強に江馬氏が反抗出来ただけである。その江馬氏も、本能寺の変後の混乱に乗じて佐々氏と結び三木氏を打倒して統一を目指すも、三木氏との対決に敗北し滅ぼされてしまうが、その三木氏も秀吉の命を受けた金森長近によって滅ぼされてしまう。つまり、自力での統一そのものは、同盟による非常にもろい和平を除けば、本当に最後の2年程度以外はついに出来なかったのである。

 つまりそれだけの一大事業なのである。しかも、状況が動くのは基本的に国外の影響を受けた場合のみで、何もなければ戦力が拮抗していくだけである。歴史を知らなければ難易度がそれほど高いとは思わなかったかもしれない。だが、なまじ知っているだけに、統一という難易度が著しく高いと知っていた。どこかの勢力に力を借りれば、当然その後はその勢力の影響を受け続ける。

 草太が戦国大名として以外の道を歩む、というのであれば、例えば商人として、僧として、或いは農民の一人として生きるのであれば、そう悩む必要はないだろう。しかし、一条房通公の顔を潰すことになり、ということはまだまだ勢力の強い朝廷という得体の知れないものを相手にするということである。完全に表舞台には立てないだろう。もしかしたら単なる策の一つが潰えた、程度ですぐに忘れるような話なのかもしれないが。常人であればどちらの道の困難さも見比べて悩むかもしれないが、草太はその性格上、戦国大名を目指すという、そこ以外の選択肢がなかった分だけ、悩みが少なかったという意味で良かったのかもしれない。

 しかしいずれにせよ、戦国大名としての飛騨国司・姉小路家を継ぐということであれば、当然にして飛騨の統一は考えなければならない。


 草太が西洞院家に来、時当との会話で一つだけ現在の年を推定する情報が一つだけ混ざっていた。尾張那古屋城主、織田信秀が寄進を行い東山にある寺院の再建を行った、という。つまりは織田家の当主が信秀である、ということである。信長ではなく、その父の時代であるということになる。この時代の人間の人生は、短い。おそらく自分と信長がほぼ同世代に当たるということが、一条家の当主が兼定であったということからそれなりに絞れてはいたものの、桶狭間の前か後かでさえわからない。一番悪い想定では、飛騨は東南にあたる信濃を武田信玄に、南にあたる美濃と西にあたる朝倉滅亡後の加賀・越前を織田信長に、北にあたる越中を上杉謙信に、という戦国時代を代表する大勢力に囲まれ、或いはそれぞれ圧迫され蚕食され、或いは統一に介入され続け代理戦争を繰り広げ続け、運よく統一を果たしたとしてもその狭間で外交で四苦八苦する、というものであったが、少なくともそうなるにはまだまだ時間的な余裕があるように思えた。

 いずれにせよ、統一する、それも実権を草太が握った形で統一しなければ話にならないが、最悪の状況に比べれば「まだマシ」である。ゲームで言えばモードが Impossible から Very Hard になった、位の違いでしかないかもしれないが、それでも明るい材料には違いがなかった。草太の記憶によれば、信長が家督を継いでから桶狭間まで10年、そこから美濃攻略までさらに7年かその位で、越前・加賀を織田家が掌握するまでには最低でも20年以上の時間があるはずだ。

 事実、草太が知らないことではあるが、武田家は未だ信濃を掌握しきっておらず、戸石崩れもまだ起こっていない時代である。飛騨は内情はどうあれ、歴史の表舞台としてみれば無風状態といっていいような状況であった。というよりむしろ、まとまった兵を動かして戦争を頻繁にするほどの余力さえないのがこの時代の飛騨の実情である、という方が正しいのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 草太と信長が凡そ同年代なのは判ったが、桶狭間の前か後かは判らない。 桶狭間は信長が家督を継いでから十年後に起きる。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ