五十七、瑞泉寺の降伏
砺波郡合戦の次第については既に述べた。そして、その後部隊が三つに分かれたことも、述べた通りである。
第一の隊、後藤帯刀が率いた瑞泉寺攻略隊に関しては、特に問題もなく終わったようである。この時の降伏覚え書きが現代に残っている。内容は、この時代としては画期的なことではあるが、政教分離をうたったものであった。とはいえ完全ではないのだが、最終的な条件の覚え書き、これは草太の花押入りの正式な文書であるが、内容は
一、瑞泉寺は以後、僧兵を持たず、また政事に口を出すまじきこと
一、一向宗は今後一揆をおこそうとしない限りにおいて、姉小路家は信心は各人の勝手たるべし
一、瑞泉寺には寺領保障分として百貫文を毎年寄進すること
一、瑞泉寺の境内および周辺大方一里四方を寺域として不輸不入の地とすること。ただし犯罪者の引き渡しには協力すべきこと
一、寺域の範囲については別途詳細を定めること
という五条が骨子である。勿論、覚え書き本体はこれをもってまわったような複雑な言葉で表しているが、当初の覚え書きの五条がそのまま複雑になっているものと思って差し支えない。最初の覚え書きは後藤帯刀の、最終的な覚え書きには草太の、それぞれ署名と花押がある。
瑞泉寺証心は、本堂で一人座禅をしていた。
あの手ひどい敗戦、というよりも一方的な蹂躙を受け、這うように逃げ出したが、一向門徒衆はすでに集合すらままならず、何人くらいが生き延びたかすら全く分からない。最初の鉄砲隊の攻撃で数十人余り、槍隊がわき腹をつく構えを見せた時には部隊が混乱をして、回転させようとする隙を騎馬隊が、甲斐武田にはいると聞いたことがあるが本当に騎乗したまま突撃してくる騎馬隊が、鬼人の形相で圧倒的な攻撃力でこちらに向かって来、圧倒された。或いは馬に蹴られ、槍で突かれ、ただ蹴散らかして前に進むことだけを考えていたような騎馬隊が、一向門徒衆のただなかをひた走り、途中で何の用があったのか左に進路を変え、こちらは反撃しようというものもまれでしかなく、ただ蹂躙されておわった。その後、また銃撃、完全にそちらを先に潰そうと一向門徒衆の正面をそちらに向けて前進させようとしたところで、図ったように後方から騎馬隊が隊伍を組みなおしたのであろう、反転してこちらをまた一方的に蹂躙し、その隊が抜けたころにはすでに一向門徒衆という隊はなく、ただの蹂躙済みの遺体とけが人、そして無事に生き残った者も隊としては既にまとめようもなく、自分の周囲にいた一向門徒衆数名に声をかけ、瑞泉寺に引いてきた。
引いた、といはいうものの、要するに彼らもてんでに逃げ、自分も逃げたに過ぎない。ひどい指導者もあったものだ。自分の命を優先して、逃げ出したのだから。
証心は今更にして顕誓との問答を反芻していた。自分は一体、僧なのか武将なのか。何が目的で一向一揆を指揮するということになったのか。それが自分の意志なのか、ただ誰かに言われたからそういう地位に就いたのではないのか。何らかの目的があって、というのであれば、どのような目的なのかが分からなかった。確かに一向宗の国を作る、という大義名分はあった。しかし、現実に行われているのは全く別のものである。室町幕府内部での権力争い、その一端に連なって、あるいは便乗して、寺領という領土を、世俗的な権力争いに明け暮れていた。聖俗一致は一つの極致ではあるけれども、自分はそういう極致ではなく単なる俗人としての権力欲でしかない。
大体、世俗的な権力争いの極致ともいえる最高指導者の後継者争いを、血で血を洗うような戦にて決めたのがあの大小一揆であり、誰かが偉い、というわけではなかっただろう。大体、本山が摂津にあろうが加賀にあろうが、信心には関係のない話ではないか。それを争って、そして敗れた側の指導者、少なくとも指導者側の末席に連なっている顕誓が、その後の幽閉期間を経て至った境地が、聖俗分離である。今回の合戦も、断れば断れたはずである。それを、過去の義理と寺領の両絡みで出陣を決めたのは、ほかでもない証心であった。
理屈はあった。だが、それは御仏に仕えるという僧のやるべき範疇の仕事なのだろうか。そこに自分の欲は入っていなかっただろうか。
ただひたすら考えた。だが、結局答えは出なかった。いや、答えは出ていた。だがそれを否定したかった。ただそれだけのことなのだ。
そんな時、寺男が入ってきて、端的に伝えた。寺の周りは既に囲まれています、と。馬印を見ても将が誰だか誰も知らない。だが今我々を囲むのは姉小路軍に決まっている。そして寺男は顕誓の来訪を告げた。
顕誓は証心の顔を見るなりこういった。
「答えは、出せましたかな。それとも、答えを受け入れられず別の答えを探しているのですかな」
何の用だ、末寺もないくせに、そんな心の声を押し殺して、どうせ降伏勧告に来たのだろうと推察した。
「降伏勧告にでも来たと思っておるのだろうが、それは後で改めて、武士は武士同士で話してもらうとして、だ。僧侶顕誓が同じく僧侶証心に対してたずねる。……そもさん。僧はなぜ僧なのだ。僧はなぜ尊ばれなければならないのだ。我々浄土真宗は、僧侶も僧侶である前に人間であると説いた。だから妻帯も認めている。だが、それでも僧侶は僧侶として尊い存在である。そうでなければならない。ではそれは何故なのだ」
証心には答えられなかった。困った顔をしているのを見て、顕誓が言った。
「今、瑞泉寺を預かっているのは、何かの宿願があって、それを果たすための方便、というわけでもあるまい。おそらくは単なる行きがかりじゃろう。昔、儂が小一揆を率いた時もそうだった。祖父が八世蓮如、父がその四男の蓮誓であるという、それ以上の理由などなかった。ないとはっきりわかったのは、幽閉されて一年は過ぎたころじゃ。……それまではあるはずだと思っておったのだがな」
ここで一端、言葉を切った。証心が考えるのを待っているかのようであった。
「それでも認めたくなくて、認められるようになるまでに三年はかかったかな。いやもっとかもしれぬの。認めてしまえば、何千人もの門徒衆を己の欲のために戦に駆り立てた、それをする役割を負っているなら別だが、さもなければ極悪人の所業じゃからの。だがの、全ては自らの所業を認めることが最初の第一歩じゃ。自分がどこに立っているのかもわからないのに、悟りなど開けるわけもあるまい」
ここで初めて証心が言葉を返した。
「すべては我が欲であるといいたいのですか」
「それはな」
顕誓がにこりと笑って言った。
「己自身の心が知っておるだろう。その声に素直に耳を傾けるのじゃな。少なくとも、儂が答えるような話ではないの」
再び寺男がやって来て、姉小路家の軍使が来たと伝えてきた。軍使は、照蓮寺善了であった。外の隊は後藤帯刀が抑えなければならない以上、後藤帯刀以外の人間が軍使にならざるを得ず、他に人がいないあたり、姉小路家の人手不足の影響であった。瑞泉寺は降伏する、というよりもすでに戦う力を失っていることを伝えた後、照蓮寺善了が軍使であることをどう思うか顕誓に尋ねてみた。
「どうも思わんよ。それが善了殿の道なのだから」
「理屈ならいくらでもつけられるが、単純な話で他にこのようなことができる人間が姉小路家にはいないのだ。だったら、私がやるしかなかろうよ」
と善了は言い、
「とはいえ、これも言い訳にしかすぎぬな。人手不足など、適当な兵でも良い訳だからな」
そうして、後藤帯刀に入ってもらい、条件を文章にしたものを見せて覚え書きとし、同文のものを二通作って二通ともに証心、後藤帯刀の両方が署名してとりあえずは終了であった。
「とはいえ、手打ちをしたのは我々瑞泉寺だけで、一向門徒衆全体ではない。そのことだけは先に念を押させてもらおう」
これは越中一向一揆のもう一つの頭である勝興寺のことを念頭に発言したものであった。また、加賀一向門徒衆の動向にも、証心は何も言う権限がなかった。
とはいえ、それはそれとしても瑞泉寺は少なくとも一揆には加担しない、と姉小路家と取り決めを行ったことが重要であった。
勝興寺が今回動かなかったのは、瑞泉寺ほど神保長職から頼られていないか、瑞泉寺が出るから出ない、というような反目でもあるのかもしれなかった。神保長職が勝興寺に要請したかどうかさえ、その場にいた誰にも不明であった。
この後、後藤隊は本隊に合流して草太に最終的な決裁をもらい、使いに草太の署名花押の入った正式な文書を使いに届けさせた。
時は少し遡る。兵を分割した草太は、そのうち西越中各城攻略のための部隊を引き連れて北上を開始した。
その最初の攻略目標である増山城攻略は、どちらかといえば楽観的に始められた。神保長職率いる兵二千余り、これに留守居がいたとして他の城からの合流もあったとしても、五千には届かない。しかも大きな敗戦の後である。逃亡兵も少なからず出たはずだろう。そう考えた場合には、おそらくは増山城を捨てて守山城にこもるだろうというのが草太の予測であった。また実際、神保長職の父神保慶宗が長尾為景に攻められた際にも守山城以外を捨てて守山城にこもって能登畠山家の援助を受けていた。
が、実際は異なっていた。単に逃げられなかったのかもしれない。あるいは、増山城の堅さを信用していたのかもしれない。しかし、姉小路軍が着陣した当時、神保長職は増山城に兵、金銀兵糧を集めて立てこもる姿勢を見せていた。草太はこの様子を見て、まずは増山城の包囲を固め、同時に他の城に物見を出した。守山城のほか、富崎城、放生津城などである。物見からの報告によれば、これらの城にはほとんど兵がいないことであった。ただし、氷見の越中国人の一人、長沢光国の森寺城には兵が入っているようであった。念のために兵を集めているのかもしれなかった。
増山城と山一つ隔てた場所に亀山城もあるが、こちらにも兵が入っていた。二城で一城と見立てて考えているようであった。
因みに、実際の史実でも神保長職は上杉謙信に何度も攻められているが、いずれも増山城に立てこもっていることからも、彼がこの城の堅さに自信をもっていたことは事実であろう。史実と大きく異なるのは、能登畠山氏の立ち位置である。史実では仲介役としての役割を果たすことができる程度には越後長尾(上杉)家と交流があるが、草太と能登畠山氏は全くの没交渉であるため、仲介役を果たすことができない、という点にある。




