四十八、京の草太
既に述べた通り、京都にいる間、草太は一条家に逗留していた。同時期に西土佐を治める一条兼定も上京していたため、一条兼定と姉小路房綱は、公式には面会していないものの、非公式には面会していた。この二人、ほぼ同年代である。
「国入りからわずか一年で飛騨を統一するとは、凄いですね」
うらやましげに言った兼定であった。ほぼ同年代であり、数年長い統治期間を持ちながら、西土佐と南伊予に受け継いだ領土はほとんど変わらない。むしろ、支配力という意味で言えば後退しているといっても過言ではないかもしれない。草太とは好対象であった。
が、それに対する草太の答えは実に奇妙であった。
「わずか一年だから、余計なしがらみもなく遠慮なく改革もできた。戦も幸いにして勝利した。周囲の大人たちがやることに、ほとんど口を挟まなかったから、各局は私が何かをしたのではなく、単に私は他の人のやることに許可を出した。それだけだよ。大体、飛騨の国を統一したというけれども、石高で見れば西土佐の方が広い。何と言っても山の中の狭い盆地だけだからね」
一条兼定の顔が暗くなった。
「しがらみ、ですか」
「そう。江馬氏、三木氏ともに、何の問題もなく背後にいる勢力もほとんど顧みずに、ただ倒すだけを考えれば良かった。そして倒せば統一だった。でも流れ着いて話を聞いたから知っている。西土佐は違う。北の伊予の国、土佐七雄、それらが複雑に絡み合って、更にその後ろに大内、大友、三好といった連中がいる。どこか一つを武力で倒すだけでも、相当な根回しがいる。どの相手も、どういう風に支配するかを考えるだけでも一苦労だ」
草太が慰めるように言うと、でも、と一条兼定は言い始めた。
「でも、戦だよ。すれば、何人、何百人、何千人、いや万を超えるかも知れない、その命をすてさせるなんて」
草太はなんだか懐かしいものを感じながら、聞いた。
「今戦で百人が死んでも、残りの九千九百人には戦はなく、平穏無事に生きて行くことが出来るでしょう。今のままなら戦は確実に起こります。それを可能な限り減らす、それが私が出した答えです」
一条兼定は不思議そうな顔をした。
「私が出した答え、って他の答えがあり得るの」
「無論。私の答えが正解であるかどうか、誰が分かるというのですか」そういって、草太は遠い目になった。
「この一年、私の命令一下、千数百の人間が死んでおります。土佐とは違い、飛騨に住む人は四万人に足りませぬ。その二十人に一人の命を、私は死なせたのでございます。彼らの死を無駄にしないのは、平和な世の中を作るしかござません。そう、私は考えました。もし正しくないというのであれば、私は地獄に落ちて罪を償わなければならないでしょう」
ここで、言葉を一つきり、
「さて、もし一滴の血も流させずに同じことをできたならばどうでしょうか。或いは戦場に近い荒れ寺で食うものも食えずに人々を救い続ける。そういった道はどうでしょう。……他にも色々な方法があるでしょう。ただ、私は戦をしてその後に戦が起こらない世界をつくっていく路を選んだだけの話です:
「実は、な」
一条兼定は言った。
「父が突如死んだから、私が継いだ。それだけなのだ。何をしよう、これがしたい、そういうものが一切ない。権力もない。全ては部下が、土居が伯父房通殿の意向を受けて進めている。このような私でも、そなたのようになれるだろうか」
草太は微笑んで答えた。
「勿論でしょうとも。その答えが私と同じになるかどうかは分かりませぬ。別の道を選ぶ、それも一つの道でございましょう。しかし、私の知人に、五十近くなってから道を間違えたといって新たな道を選んだものも居ります。まして兼定様はまだ元服して間もない身、道を違えるどころか、これから選ぶ立場でございましょう」
「姉小路房綱殿、いやあえてこう呼ぼうか、草太殿。私の味方となってくれましょうか」
「私は民の味方でありたいと思っております。それを違えない限り、私は兼定様のお味方でございますよ」
この日の邂逅は、十数年の時を経ての新たな関係にて別の展開を迎えるのであるが、それはまた別の項に譲ろう。
ともかくも一条兼定は志を立てようと決心した。それがどのような志かは今は分からないにせよ、少なくとも草太の敵にはならないように、というだけは守ろうと決心した。
さて。一条兼定については一旦ここまでにしよう。
草太は上洛中、何かと忙しく過ごしていた。宮中に出仕したのは勿論のこと、一条家に宿をとり、訪問した家だけでも二条関白家、西洞院家、山科家、それから飛騨に二男、三男を送り込んだ家々。全てに相応の手土産を持参し、又は目録を渡すことで物は後に渡し、さらに礼状と言付かっている書状とを渡したのは言うまでもない。全て回り終わるまでに十日ほどを要し、京の街を見て回る余裕はほとんどなかった。
その中で、二人だけは別格で会うこととしていた。
一人は城井弥太郎である。といっても挨拶ではない。商談である。堺の商人衆の代表、田中与兵衛を連れてこさせた。
型通り直答を許すと平助が許可した後、草太は尋ねた。
「堺では鉄砲を作っていると聞く。相違ないか」
「相違ございませぬ。月に百丁でも引き渡して御覧に入れまする」
流石に田中与兵衛である。何丁できるかは把握していても明言しない。
「どのような鉄砲を何丁位用意できる」
この発言に敏感に反応したのは、城井弥太郎である。なにより、自分と沖島牛太郎が国友衆を送り込み、月産で五十丁は作れるはずだからだ。それで不足する、というとどの程度の規模になるだろうか。想像もつかない。
「国友衆では不足でございましたか」
否、と草太は答えて、少し考えがあるのだ、といって続けた。
「二匁半の小筒なら一千丁、一月で用意できるか」
田中与兵衛は慌てた。一千丁、といえば、一年でも怪しい。それを一月とは。
「螺鈿の類、飾り気の類はなしで良い。撃てるだけの鉄砲で良い。一千丁、一月で用意できるか」
実は、草太は先に七太郎から聞いていた。堺の鉄砲は螺鈿などの飾りの多い高価な鉄砲で、月に十丁も売れれば充分に利益になる。なので数は作っていない、と。それを知った上で螺鈿などなしで月に一千丁、と言っているのである。
「どうやって運びますか」
「なに、六角、斎藤に話を通せば陸路で運ぶことができる。なんとでもなるのだ。それを気にする必要はない」
即座に草太が答えた。実のところ、運ぶことについては全く慮外である。
「弾が出るだけ、それだけの代物でよければ、何とか致しましょう」
田中与兵衛は、大儲けの口であると同時に、かなり危ういものを感じていた。何かが引っかかる。商人としての勘がそれを告げていた。
「ならば値を決めよう。一丁、銀二十匁。一千丁で銀二万匁。これでどうだ」
もはやここに至っては、できないとは言えない。せめて値段で何とかしなければならない。いくら一千丁の大口でも、城井弥太郎の口添えでも、一丁銀二十匁は安すぎる。ここまで急ぐとあれば、銀であれば四十匁、いや五十匁はほしいところだ。
「ふむ。安鉄砲でも急ぎでその数ですからな、五十匁と言いたいところですが、大口でございます。一丁四十五匁では」
高いな、と前もって市場価格は調べた草太が言い、
「それならば前金として一丁十匁を渡す故、後金で二十匁、合計三十匁ではどうか」
と値切る。小筒といえども安鉄砲として最低でも銀二十匁は必要である。はらはらして見ているのは城井弥太郎である。どう考えても一千丁を用意することができるとは思えない。他から買って売るつもりなら五十匁でも商談をまとめ運び品を検め、となると大損である。結局、後金で二十五匁の合計三十五匁で落ち着いた。何とか作れると踏んだらしい。或いは手元にある分をも含めて売るつもりなのかもしれない。
「検分は、滝川一益、あの者にさせる故、安鉄砲だからといって余り質は落とすな」
と釘をさすのを忘れない草太であった。
ところで、この鉄砲の買い取りが出来なくなったというわび状が残されている。その内容には
「一千丁の鉄砲、出来候と申せ、手元不如意也。詫びとして一丁宛銀一匁を渡す故、鉄砲は何処なりとも可売払申候」
と、謝っているようないないような、不思議な文である。
田中与兵衛がこれに文句をつけたという証拠はない。それどころか、鉄砲一千丁、相場にして一丁銀三十五匁である。これに草太からの十一匁が加算されるため、様々な大名家や武将連中に捌く事が出来れば、間違いなく大儲けである。鉄砲も前金も詫び金も、全て手に入ったわけである。
実は草太には後金を払う気などない。一千丁という数の鉄砲が出回りさえすれば、硝石が売れる。それで銀一万一千匁など、すぐに回収できる算段である。無論、その鉄砲がこちらに向くことも考えないではないが、所詮は安鉄砲である。国友衆が作る六匁火縄銃よりも性能が良いとは全く思わなかった。第一、銀一万一千匁は、神岡鉱山などの鉱山から二月もかからずに取れる額でしかない。
もっとも、本当に一千丁、まともに使えるかどうかは滝川一益が堺に行き調べて行ったが、確かに使えると文句はないようであった。
話は前後するが、軍制改革の結果として、正式採用するのは六匁弾を使用する火縄銃、いわゆる中筒であり、鉄砲役一人当て二丁を常備すること、という構想であった。これは、一人が二丁打って下がり槍隊が正面を防ぐという飯山城下の合戦を踏まえたものであった。
実際にはこれは構想のみでしかなく、それまでも使われていた二匁半火縄銃(小筒)で間に合わせたり一人当て一丁としたりするなど、軍備が追いつかない状況が当分は続き、追いつくころには新しい構想へと切り替えられていった。一方畿内の大部分の鉄砲隊の主力は二匁半の小筒、この時草太が注文した一千丁が数十丁ずつ各大名、武将が持つ形になっていた。
因みに言えば、かの長篠の戦で使われた鉄砲は、一説には三千丁といわれるが、一千丁から千五百丁程度であったと考えるのが妥当であろうという。その長篠の戦の二十五年近く前にこれだけの数が文字通りばら撒かれた、というのが実相である。
京からの帰路、少し道を変えて同様の取引を国友村でも行ったが、こちらはきちんと買うつもりで注文を出した。六匁火縄銃、いわゆる中筒を百丁。期限は三月で値は一丁銀四十五匁と適正と思われる価格であった。ただし、国友善兵衛は渋い顔をした。銀四十五匁は問題ないが、その間他の注文を受ける余裕がなくなるためだ。
商人であればおそらく蹴ったか、期限を延ばしただろう。しかし国友善兵衛は職人でしかなく、国友村は三月の間、この中筒にかかりきりになるのであった。




