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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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四十七、外交とはなんだろうか

 もう一つこの時期に特筆すべきこととしては、姉小路家が外交を盛んに始めたことが挙げられる。

 その方向の一つは、美濃斎藤家であった。そう遠くない将来、織田家が斎藤家を滅ぼすということを知っている草太ではあったが、それは現在の当主である斎藤道三が隠居、その後斎藤家を継いだ斎藤義龍と不和となり斎藤道三が敗死し、その斎藤義龍が死亡し斎藤龍興が継いだ後の話である。当面、美濃斎藤家は南に国境を接する強国であると同時に、美濃斎藤家と不戦の約定ができれば、南からの攻撃に備える必要が大幅に減る。これが織田家に代わるまでの期間が何年か、草太は知らない。だが、それまでに織田家にも備えることができるだけの実力を備える必要があった。


 因みに、読者のために予め言っておこう。草太が飛騨統一を成し遂げた1552年には、織田信長はまだ家督を継いで一年である。桶狭間はおろか、尾張統一もまだ七年ほど先の1559年であり、桶狭間が1560年、稲葉山城を落として岐阜とするのが1567年11月のことである。したがって、史実通りに推移したとすれば、飛騨と織田家が国境を接するまであと15年ほどの猶予がある。だが、草太はこのことを知らない。


 斎藤家との実際の不戦協定が結ばれるまでに数年を要し、その時にはすでに斎藤道三ではなく斎藤義龍の時代であったが、斎藤家は内紛、それに引き続いての織田家との抗争に忙しく、飛騨に食指を伸ばそうとは決してしなかったことだけは明記しておこう。

 勿論、それが内紛や織田家との抗争だけが原因ではなく、外交的な努力の結果であることは明白ではあった。


 ここで重要な役割を果たしたのは、誰あろう木下藤吉郎、そして蜂須賀小六であった。元々斎藤家とのつながりの強い蜂須賀党が仲立ちに立つことは実際にはそれほど不思議なことではない。ただし、木下藤吉郎の気持ち自体は既に蜂須賀小六からは離れ、独立した武士、というよりも姉小路家の家臣としての木下藤吉郎になりつつあった。

 例えば軍制である。武力が強く首を多く取ったものが偉いという多くの大名家や蜂須賀党を尻目に、姉小路家は首を打つわけではなく勝つために全力をつくしさえすれば恩賞は首なしでも同じであった。また、一歩でも先に進むことを賞する多くの家に対して、姉小路家はまず生き残ることを重視する。戦の仕様も個人対個人が多数同時に起こっているのではなく集団対集団、乃至は集団対個人という形で戦うため、自分の役割をこなすことが最優先される。結果だけを求めるのではない。その役割を明確に示している、というのも、姉小路家の特徴である。

 武力という意味では木下藤吉郎は経験こそ豊富ではあるがさほどの能力を持たない。それでも、集団の力によって上へと上がることができる、場合によっては太江熊八郎のように庄屋から重臣へと大出世を遂げた例もある。

 姉小路家という家の家風に、木下藤吉郎は魅了されつつあった。



 斎藤家との外交交渉と同時並行として行われたのが、越中の東半分を治める椎名氏への接近である。これには、いくつかの理由があった。

 まず第一に、食料と塩の輸入を越中に頼らざるを得ず、その輸入路は鰤街道であるため、鰤街道の越中側を抑えている椎名氏との接近が必要とされたことである。また、鰤を信濃に運ぶためには鰤街道を使うため、とくに商人衆からは外交的に良好な関係を望む声が大きく、その声に応えたものでもある。


 というのが表向きの理由である。


 本音としては、既に神保氏の圧迫が始まっていることが服部保長からの諜報で明らかにされており、神保氏の圧迫に堪えかねた椎名氏が姉小路家に救援を求める形を取るのが、もっとも越中攻略の名分が立ちやすい。西越中を落とした後は、何かの名分により神保氏を落とせば越中は姉小路家の手に落ちる。また、神保氏と能登畠山氏の関係から、神保氏側に立って能登畠山氏が介入してくるのも充分に予見できる。或いは和睦の仲介かもしれないが、それでも拠点を持つことは可能であろう。

 こうした策を練るのは、専ら服部保長と弥次郎兵衛の二人である。

 姉小路家の義が立つように、不義理はないようにしつつ、喧嘩をし、喧嘩をさせ、仲介をし、或いは介入する。弥次郎兵衛曰く、顔を潰さないように注意して自分の利益を追求する、というのは香具師集団同士の喧嘩でも武士大名同士の戦でも同じことらしい。相手の顔を潰すなら徹底的に、というのも同じだという。

「何事も中途半端はいけませんや」とは弥次郎兵衛の言である。



 この椎名氏、或いは越中という国の戦国時代を正確に書こうとすると、越後長尾(上杉)家と畠山家、武田家、一向宗、織田家が代理戦争を繰り広げ続ける場であるため、混沌としているのが実情である。一応の覇者は謙信生前は上杉家、謙信死後は織田家になるが、更に時代が下り本能寺の変以後となると、今度は佐々成政の拠点として豊臣秀吉(当時はまだ羽柴)と抗争を繰り広げていたりと、常に平和とはかけ離れた不安定な時代なのである。

 この時期は、「比較的」安定していた時期であり、椎名氏は越中を治めていると書いたが、正確に言えば越中の守護は畠山氏であり、その守護代として越後長尾家(後の上杉家)があり、その越後長尾家の代わり(又守護代)として越中の東半分を治めている、というのが正確である。とはいうものの、椎名氏は長尾家の後援を受けられなくなってから、神保氏に次第に圧迫されていき、史実ではこれが上杉家の介入を招き武田家と一向宗の介入を招き、川中島の合戦へと繋がっていくのだから、歴史も丹念に見て気行くと面白いものである。



 更に外交として特筆すべきは、この時期に草太は再度上洛しているのである。これは、表向きは飛騨統一を朝廷に報告するためであった。したがって、道中を通る斎藤家、六角家等に了承を取った上での上洛である。前回のようにお忍びでコッソリと、ではなく、堂々と馬に乗って行列をなしての上洛であった。朝廷の許可を得て朝廷に参内するための行列であるから、不幸な事故が起こればその領主は責任問題となる。道中の安全は約束されていた。

 姉小路家日誌によれば、天文二十一年皐月五日(1552年6月12日)に出発し、同年皐月十二日(6月19日)に参内、その後十日ほど在京した後、皐月二十二日(6月29日)下向し、皐月二十九日(7月6日)に国府に帰還した旨が書かれている。



 もちろん、ただの上洛のはずはない。目的がきちんと存在する。その一つは甲斐武田との関係修復の手掛かりを得ることである。

 武田信玄(この時期は武田晴信であるが、混乱を避けるために信玄で統一する)の妻の一人は三条の方といい、五摂家に次ぐ家格の三条家の出である。この伝手を利用しない手はない、というのが服部保長の意見であった。手土産に黄金一枚を渡すと、ころりと協力することを約束する辺り、公卿だと思う反面、協力するとは言いつつも具体的な内容は口にしない辺りも公卿であるという印象の強い訪問であった。


 他にも、外交として重要なのは、一条家に入った時のことであろう。かねてよりの物心の支援の礼と称して、草太は一条家を訪れ、今年の分の貢納品と共に土産として金地金一斤と銀一貫、絹五反等を送ったと目録が残されている。どこまでが礼でどこからが貢納品か、また逗留の礼としてかは判然としないまでも、これだけの分量であれば土産としては文句もない。

 一条家側の記録には、草太が訪問し礼物を贈った、としか書かれていないが、絶対に何らかの会談が行われたはずである。なにより、この日には一条兼定が来京しており、草太と会ったと考えなければその後の彼兼定の行動が理解できないこと、草太が従五位下から昇進して従四位下に三段飛ばしで昇進したことが挙げられる。一条兼定との会話については後ほど詳しく述べるとして特筆すべきこと先に述べよう。

 それは、ここまで接点が何もないはずのとある人物とこの上洛時に面会していることである。それは畠山政国である。この際に何が話されたのかは不明であるが、おそらく越中、能登に関することであると解されている。


 姉小路家日誌によれば、天文二十一年皐月十八日(1552年13日)のことである。

「姉小路房綱公、一条房通殿の添え状(紹介状)を持ち畠山政国殿の隠居所へ伺い候。政国殿終始機嫌良く、公、越中、能登の守護代としての名分を得たり」


「ふむ、越中、能登の情勢の安定を、とな」

 老齢に差し掛かり半ば隠居をしている畠山政国が言った。

「確かに、飛騨にとって、塩、それから食料の安定には越中は大事な地域。儂も随分骨を折ったが、中々思うに任せぬ」

 この発言は、草太にとっては予想の範囲内であった。

「では、我ら飛騨の衆が越中、能登の安定に関与してもよろしいのでございましょうか」

 ふふ、と畠山政国が笑い、そして、戦国大名よの、と言った。

「現在、越中には守護代として神保、長尾、もっとも長尾は又守護代として椎名を置いていたか。そして能登には分家が居るが、いつ追い出されてもおかしくない位には重臣が強いの。まず、よかろうて。安定してさえいれば、儂は文句は言わぬよ。脇からの声までは知らんがな」

 意外にもあっさりと了承した畠山政国の顔を、思わず草太は見てしまった。その視線に気がついたのだろう、畠山政国は穏やかに言った。

「すでにな。越中を治める力は、畠山家にはない。河内とて危うい。紀州が精いっぱいだろうて。既に簒奪されているものについて、とやかく言うつもりはないよ。……ああ、公方様がおわせば、越中守護どころか北陸管領という新しい職でさえ喜んで渡すつもりじゃがな、ま、今は公方様は忙しき身、そこまでのことはできぬ」

 そう言った畠山政国は、傍らにあった紙筆を持ち、さらさらと何事か書き、花押をして草太に渡した。世に言う「越中、能登の譲り状」である。現存しており、それによれば、

「越中、能登の守護、守護代の近年の所業、誠に不届きなり。よって姉小路房綱の切り取り次第、守護代を交代させるべく、ここに証として認めたり」

とあり、日付はなく、ただ署名と花押が書かれていた。

 言うまでもないことだが、越中や能登の守護を変えることができるほどの力は、畠山政国には無い。それができるのは足利将軍ただ一人であるが、内紛により近江朽木谷にいるといわれている。

 しかし、切り取り次第に守護代を交代させるということは、実質的に切り取った領土の支配を認めるということである。それを、口約束ではなく書状で渡されたというのは、やはり大きい成果であった。

「なに、一条房通公には、随分と世話になっておるのでな。最早どうにもならぬ土地だ。その方が好きに使うと良い」

 どこか寂しげな頬笑みを浮かべながら、畠山政国は言った。

「ま、楽隠居を見舞いに来た礼だと思って、持って帰るがよかろうぞ」

 こうして、既に崩れ去りつつある室町幕府秩序の中での越中と能登の支配権を得た草太であった。ただし、自力で攻め取る必要があるのは、結局は変わらない。



 その夜、平助に対してふと漏らした感想はこうであった。

「外交とは、結局は攻める口実を得たり、攻められない口実を作ったりするだけじゃないか」

 こういう時の平助は、大抵は何も話さない。話すことができないのではない。それが自分の役割ではないと心得ているためである。だが、今回は珍しく返事を返した。

「攻める口実、攻められない口実、名分だけとはいえ、名分の有無はやはり士気に関わります。人はいつでも正義の側にいたきものゆえ」

 なるほどね、と草太は思った。

 外交というのは、いかに自分の立ち位置を正義の側におけるように周囲を説得する作業なのだ、と。


9月16日1時半現在、歴史ジャンル日間ランキング2位、ありがとうございます。

小心者のの作者はかなりガクブルしながら喜んでいます。

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