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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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四十六、飛騨の改革

 飛騨が姉小路家の下に統一された次第については、既に述べた。だが、飛騨は所詮は飛騨である。石高にして精々三万数千石、日本全体で三千万石程であるから、千分の一程度でしかない。本当にその程度の小国なのである。

 草太の志は飛騨だけが平和であれば満たされるのだろうか。いや、そんなことはあるまい。草太の志は、日本全国はおろか、全世界に広がる広大な志であったはずだ。であるならば、草太が飛騨を統一したのは、まだまだ志の途上であり、第一歩に過ぎない。


 とはいえ、足元は大切である。

 草太の足元は、目下のところ、飛騨である。ここから日本全体に向けて雄飛して行かなければならない。


 さて、既に述べた通り、天文二十一年皐月七日(1552年6月1日)に、飛騨は姉小路家の下に統一を見た。しかし、統一を見据えた動きはそれ以前から既に始まっていた。したがって時間を少し遡らなければならない。


 穴田衆の顔役、栗田彦八郎が岡前館を訪れたのがいつなのか、はっきりしない。弥生頃であろうと推察されているが、明確な資料は無い。しかし、天文二一年卯月十六日(5月22日)の飯山合戦の出陣以前より、飛騨統一後を見据えた活動をしていたのは間違いのない事実であり、例えば姉小路家日誌の天文二一年卯月朔日(5月8日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、穴田衆栗田彦八郎の言を容れ給い、土城に土塁を築くよう命じ給う」

土城は、飛騨の東北部にあたる旧江馬領吉城郡の北端、鰤街道の脇にある城である。また、それ以後にも縄張りを命じ治水を行わしめるなどの記述がいくつか見える。

 例えば姉小路家日誌の同年皐月十五日(1552年6月9日)の項にはこうある。

「公、更に穴田衆栗田彦八郎に命じ給い、飛騨中島城に城塁を築かせしめ、また各所に狼煙台の用意を命じ給い候」

 この飛騨中島城は、鰤街道が山道に差し掛かる一番奥であり、険しい山道を抜けて平野部に出た、その狭い平野部を塞ぐ場所に位置している城である。以前からあったものを、より堅固にさせようというのだ。土城は単なる土塁でしかないのに対し、中島城は三つ折れの屏風型石垣をもち、わざと路を蛇行させるように城郭を道の両側に構えるという形態を取っていたことが遺構から分かっている。このことからも、草太がいかに甲斐信濃を警戒していたかが分かるだろう。

 草太が、特に服部保長に命じて注目していた国は、分かっているだけで尾張・美濃方面、甲斐信濃方面に層の厚い情報網を形成させており、両方面に関する報告を受けた旨の記述が姉小路家日誌にも見ることができる。

 また既に述べたように、信濃方面には交通の難所に城を作ることも行うなど強い警戒心が見受けられる。ただし、美濃方面については桜洞城の改修に留めて居る所を見ると、警戒自体はそれほどではなかったという向きもある。一方で単なる予算上の問題であると指摘するものもいる。いかに神岡鉱山をはじめとする鉱山を持っているとしても、城を築くのはかなりの資金面および人的物的資源を必要とするためである。


 確かに飛騨中島城は、三つ折れの屏風型石の上に狭間を多数備えた練塀があり、兵員が休むための長屋と物資庫があるだけで、櫓すら一つずつしかない。出入りは梯子をかけてあるだけという簡素さで、物資は滑車で持ち上げたという。水は井戸があったが、建物として見た場合には石垣を除けば規模としてはかなりの小城である。ただし、その構えを見て武田信玄をして「この道を進むべからず」といわしめるだけの堅さを誇った。現在残っている遺構は片側の石垣の一部のみであるが屏風折れを示しており、遺構から対岸の屏風折れと対応して鉄砲狭間として通る軍勢を両側から撃ちすくめるように作られている。また、伝承にはここに関所があったといわれており、逆茂木でも組めばすぐにでも通行を止めることができる造りとなっていた。


 事実、武田信玄はこの鰤街道を使っての進軍は諦め、別の道を使って飛騨を狙うのだが、それについては後日に譲ることとする。その後、幕末まで一度も使われることなく、石垣のみではあるが第二次大戦時に空爆により破壊されるまで存在した。なぜこのような辺鄙なところを空爆したかは不明である。


 ともあれ、東の方信濃の甲斐武田は守勢で臨み侵攻は当分出来ない。南の方美濃斎藤も同様である。単純に言って、扱われる兵力の量が違いすぎるのだ。どう考えても、侵攻する先は越中しかなかったといって良い。事実、草太の考えている戦略は、越中、それから能登への侵攻であった。

 越中及び能登への侵攻については後に語ることとして、今は飛騨のことについて語ろうと思う。



 このように城を築くという守備態勢の確立を命ずるとともに、草太の元に届いた何通かの嘆願書、乃至は建白書についての議論が進められていた。まず第一は、誰あろう太江熊八郎からであった。飛騨統一後、太江熊八郎を召して草太は尋ねた。

「嘆願書を読んだ。内容は本当か」

 太江熊八郎は流石に元庄屋である。農業については実地によく知っていた。

「はい。蕎麦は、何年も続けて同じ土地で作ると、出来が悪くなります。水田を使う米を除けば、同じ作物だけを作り続けようとすれば多量の肥料を与えるか別の作物を作らない限り、ほとんどの作物で収穫量は減り病気になる作物も多くなります。おそらく今年はまだ、新しい土地の開墾の分と合わせてそれほど減ったようには見えぬとは思われます。が、数年のうちに、大不作に見舞われることになるかと思われます。何らかの対策を必要とします」

「その対策が、この建白書か」と草太が嘆願書と同時に提出された建白書を出した。無論、内容は既に読んである。

「左様でございます。一つは肥料を与える。これは簡単なようで難しい。なにより肥料が絶対的に足りませぬ。したがって、別の作物との輪作、これが良いかと思われます。あの乾田の法、でございますか。あれが良い結果になれば、今蕎麦を作らせている畑も水田とすることが可能ではあります。そうなれば、年ごとに蕎麦、米と輪作をすることが出来ます」


 長い様で短い、短い様で長いのが一年という時間である。乾田の法は昨年の秋、花脊の衆に指図させて何カ所かで試させているが、結果が出るのは早くて今年の秋以降である。少なくとも三年は試験をして、その後徐々に広める計画であった。乾田の法は確かに花脊では上手くいっていた。だが飛騨ではどうだろうか。全く未知の問題であった。


「蕎麦の代わりに、例えば大根などはどうだ」と草太が思いつきで言ったが、平助さえ苦笑しながら「それでは主食になりませぬ」といわれる始末であった。

「とにかく、別の作物、例えば麦、稗、粟を植えることを考え、収穫量を試算してみよ。或いは売ることを考えて荏の油(えのあぶら)となる江胡麻(あぶらえ)などはどうだ。その代金で米を買うこともできるだろう」

と、草太は失点を取り返そうと挙げてみたが、売却して食料を買うのは、結局は食料を他に依存することにほかならない。

「いずれにせよ、今でも鉱山で働く鉱夫たちの食料の大部分は越中から買い入れているのだ。その代金を稼ぐとあれば、悪いものでもあるまい。売却することを目的とした作物でも良い、何が良いのか考えるのだ」


 実際、例えば越中侵攻などにより食料を飛騨一国ではなく姉小路領全体として他に依存しない形をとれなければ、それは戦略上の一大問題に繋がりかねない。また、越中侵攻の大きな目的の一つは、食料の自給体制を確立すると同時に、塩の確保という問題も目的のひとつであった。飛騨は山国なので、塩の自給自足が不可能であるため、その大部分を越中からの購入に頼っていた、というのも問題の一つである。


 何を作れば最も効率が良いのか、どのような農業形態が良いのか、例えば何年かに一度畑を休ませた方がよいのか、様々な実験が行われたが、結論は早くとも数年から十数年という期間を必要とする。だが、人間は一年も食べない訳にはいかない。最良の結果でなくとも、何らかの方法を行い続け、皆が食べ続けることのできる体制を確保するのが、草太の仕事であった。


 姉小路家日誌にはこうある。

「公、農業方について研究用に一町四方の土地を与えられ、太江熊八郎に命じて様々な方法を試させしむ。これ、一重に民を憐れみたるもの也」と。



 もう一つ、この時期に起こった改革の一つがある。それは軍制改革である。軍制改革に関する建白書は、滝川一益から出されていた。

「滝川一益、この建白書、これはなんだ」

 とは、弥次郎兵衛であった。建白書の内容が残っているので抜粋すると、

一、現在の一鍬衆の制を改め、兵と農民を分けること

一、六人一組の制を改め、四人一組の制となすこと

一、小荷駄隊を新たに編成すべきこと

この三つが主な内容であった。内容は分からないでもない。だが、なぜそうしなければならないのか、軍制を改めるという一大事業を今この時期に行うべきなのかが分からなかった。

 特に弥次郎兵衛には、現在の六人一組の一鍬衆の制を形成した、その一人である。新参者に変更したいといわれて面白いわけがなかった。

「理由を聞こう」

 草太は端的に聞いた。滝川一益は答えた。

「まず第一に、鉄砲がございます。鉄砲は、確かに国友衆の手で月に五十丁近くが完成しております。問題は、それを打つ人間が大幅に不足しておる、ということでございます。

 今のままの体制での訓練では二日に一度朝から夕まで訓練することになっておりますが、その日に雨が降れば火縄銃の訓練は出来かねます。今のままでは火縄銃を打てる人間はかなり勘の良いもののみでございます。先の戦で五十名が二丁をもって臨んだのも、一重に五十名しかまともに打てるものがいなかったためにございます」

 ふむ、と草太は考えた。確かに火縄銃の取扱いそのものであっても、かなり高度な技術を必要とする。そもそもの火薬の取扱いから、口薬を入れて討つまでの手順も、それなりに多い。と、ふと聞いてみた。

「雨では火縄銃は撃てないのか」

「撃てませぬ。晴れていても湿気が多いときには火薬の配合を調整する必要があるほどにございますし、そもそも雨では火縄が濡れて消え、口薬も濡れて火が付きませぬ」

 と滝川一益は応え、だからこそ晴れた日にしか訓練が出来ない以上、

「訓練時間を確保して撃てる人数を増やすには、専業で鉄砲を扱うものがぜひとも必要でございます。これが第一の点の要点にございます」


 次の四人一組の制は、今の制度では六人を二組に分け、一組は開墾、もう一組が足軽として前列、中列、後列の三人の列になっているものを、鉄砲隊を入れて四名にしたいということである。勿論足軽と農民を分けたうえで、である。

「やはり鉄砲は良い武器にございます。弱点や欠点も多くございますが、それでも槍隊との連携は不可欠でございます」

「先日の合戦では上手くいっていたようだが」と弥次郎兵衛が指摘したが、

「あれは鉄砲隊がわずか五十名だから何とか誤魔化せただけにございます。今後、増えれば難しいかと」と渡邊前綱が擁護した。

「槍隊は前に出るものにございます。敵の間に数多くの鉄砲隊がいれば、前に出られません。逆に鉄砲隊を後ろにすると、今度は鉄砲隊が撃てませぬ」


 最後が小荷駄隊である。これは草太にも分かった。特に宮地城の攻略の際、兵糧攻めにするには自軍の兵糧に不安があるというのは確かに困った状況であるが、だからといって輜重隊を引き連れて移動するのは時間がかかりすぎる。

「それに加えて、鉄砲でございます」と滝川一益が説明を始めた。

「鉄砲は、刀槍と違い、玉を消費いたしまする。一発撃てば一発分、十発撃てば十発分、弾も玉薬も口薬も使いまする。それを常に持ち歩くだけ、というのは、例えば三回振れば折れる刀と同じように、短期間しか使えぬ武器でございます。小荷駄隊が居ればすぐにでも補充ができますが、それなしでは常に残りの玉数を気にして戦をせねばなりませぬ」

 これには弥次郎兵衛も得心したようであった。

「なるほど、矢と同じように、確かに鉄砲には補充が必要だな。しかも弓と違い鉄砲であれば腕力はそれほど必要とせぬ。弾が尽きたからといってすぐに槍を持って戦う訳にもいくまいな」


 もう一つ、これは草太が言い始めたことだが、新たに医療班を作る、という。

「日頃は村医者でもよいが、戦場ではすぐに治療すれば助かるものも楽にすることが多い。戦っている最中、敵であればまだしも、戦いが済んだ後であればなるべく救いたい。また、今後は外征になる。生水などで体を壊すものも出てくるだろう。そのための技術を持った隊を新たに編成したい」



 こうして、飛騨の軍制が改められ、飛騨に「専業の兵士」が初めて登場したのは、飛騨統一後の最初の秋のことであった。ただし、一鍬衆の大部分はそのまま一鍬衆であった。その一部が専業の兵士となった。

 そして「専業の兵士」が新たに創設されることとなったが、専業の兵士であれば六匁火縄銃(中筒)を扱わせることができるようになった。簡単に言えば武器が必要とする練度に兵士が追いついた、というわけである。硝石は白川郷から豊富に供給されるため、二匁半は既に旧式となり、防衛用の拠点における予備用か、新兵に対する訓練用として使われるようになった。

 彼らが初めて戦場に姿を見せたのは、記録によれば天文二十二年春のことである。


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