四十三、飯山決戦前夜
姉小路家日誌天文二一年卯月十六日(5月22日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、服部保長の進言により一鍬衆より千を集め、飯山城に向かう。副将は渡邊前綱、滝川一益の両名なり。岡前館及び広瀬城の守将として一門衆後藤帯刀、内政の要として城井弥次郎兵衛を据え、また吉城郡の守りを田中弥左衛門に任せ、(略)また国人衆のうち塩谷秋貞、鮎崎新兵衛尉、飯山保氏にはただ自領を守るよう指図なされ、飯山城主飯山保氏には城兵のみで無用の徴用をせぬよう申しつけられたり。また太江熊八郎をして兵糧武具その他の運搬方を命じられたり。他は常なると同様、農業等に勤しむべしと命じられたり」
服部保長の予想通り、三木直頼は川並衆を雇った。その軍勢は八百と予想より少なかったが、桜洞城等の城兵と合わせて千二百、更に高山盆地に残っている三木領の兵は二百から三百の間となっている。
川並衆八百が傭兵として三木領に入ったとの報を受けた服部保長は直ちに草太に知らせ、更にその翌日には桜洞城下で合流した敵の陣容を知らせた。軍勢の大半は川並衆であり傭兵であるため、移動時間も考えると精々十数日程度の行動しか時間がとれないこと、そのため、おそらく高山城を落として三仏寺城までを軍路を確保すると予測されること、もし我らが出てくるならば決戦を考えているものと考えられる、と伝えた。そして予め動員をかけておいた一鍬衆をひきつれ、卯月十六日、岡前館を出発した。
草太は川並衆が益田郡に入ると同時に軍令を出し、陣触れをした。ただし、農繁期のことである。一鍬衆が二千を超えていたが、そのうちの半分までであれば農作業に影響が出ないこと、敵の軍勢との兼ね合いから陣は一鍬衆一千とし、その他に小荷駄隊を少数動員し、高山城に入ることとした。
陣容としては、まずは全軍で飯山城に入ることとし、いつでも機動できるよう支度だけをして待機させた。
また、戦闘を直接指揮はしないが諜報を直接指揮するため、輿に乗って服部保長も従軍した。
高山城には兵二百が既に籠っており、下知あるまで待機、と城の守りに専念させた。何より今回は防衛戦であり、しかも相手には期限がある。適度に守り、可能ならば打撃を加える、というだけで無理をする必要はない。
この決戦の意味は、草太にとっては二つの意味があった。一つは寝返った飛騨国人衆がどこまで自分に服しているのかを測ること、もう一つは鉄砲隊をはじめとした新戦術の実戦試験であった。勿論、可能であれば三仏寺城を落とし、その支城である牛臥山城、久々野城を落とし、高山盆地から三木氏勢力を駆逐する、また余勢を駆って益田郡の北口、今井城まで攻め込めれば最上と考えていた。
だが、それだけで良いのだろうか。できるだけ民の被害は少なくすべきだ。であるなら、可能な限り戦場には民を残さないようにしなければ。田畑も荒らさぬように、は流石に無理がある。城で待ち受けるなら城下町は確実に焼かれる。とにかく野戦をすべきだと考えていた。
野戦に勝利した時点で三仏寺城に降伏勧告を出し、受け入れるならよし、受け入れないなら国人衆に攻め潰させる。この考えは、野戦で勝利した場合である。
とにかく、物見で敵の動きを把握し続け、その動きを知ることそのものがまずは最重要であると考えていた。
滝川一益は鉄砲隊五十名を預けられていた。今のところ、鉄砲自体は百丁以上あるものの、とにかく打てるだけの技量を獲得できたものがそれだけしかいなかったためだ。この鉄砲隊の働きにより、今後の鉄砲隊の扱いが大きく変わる。その可能性は高い。
そこで一つ、奇策に出た。二丁の銃に両方弾を込めておき、二発とも撃ったら下がる、という策である。鉄砲の扱いという技量を補うために、鉄砲を一人二丁使うという、大変に贅沢な使い方である。もとより狙撃を行えるほどの技量は、滝川一益以外にはない。ただ、水平に撃てるだけである。それだけのことであるが、やはり火薬は取扱いが難しい。撃てる人数は徐々に増えてはいるものの、鉄砲の生産に撃てる人間の養成が間に合わない。それがための奇策であった。
服部保長の見るところ、この攻勢が失敗すればおそらく三木氏は後がない。全てを振り絞って襲ってくるだろうと予想していた。それだけに、不可解なことが二つあった。一つは川並衆が以外に少ない点。最低でも千五百と考えていたのが、八百しかいない。川並衆が三木氏を見限ったか。美濃尾張の緊張がそこまで高まっているという情報は無いが、実際には高まっているのかもしれない。八百の他に別働隊が居るのかもしれないが、それはいても流石に百前後までだ。或いは八百という数は欺瞞で、隊列を圧縮して少なく見せることも、可能かもしれない。ただしそこまでの練度は持っていないはずだ。
もう一つの疑問は、徴収した兵が少なすぎる、という点であった。いくら農繁期であっても、乾坤一擲の戦いにしては傭兵以外の兵が少なすぎる。服部保長は益田郡の動員可能数を千五百から二千と見ていた。実際に益田郡は六千石程度であるため、この数は妥当であると言って良い。だが城に守備兵を残したとしても少なすぎる。
そう、両方とも少なすぎるのである。服部保長は別働隊がいる可能性を考え、物見に警戒を厳にするよう命じた。
一方の三木直頼である。
乾坤一擲、とばかりに川並衆を雇ったが良いが、完全に足元を見られて吹っ掛けられた。それでも雇わないことには兵が絶対的に不足していた。
また、この攻撃に失敗すれば後がないのは百も承知だが、農繁期に関わらず徴兵をかけ、城兵を何とかやりくりして四百捻出するも、それ以上は不可能であった。益田郡の動員能力からいえばそれ以上に出すのは可能だが、それ以上絞れば農作業に支障が出過ぎる。昨年の大規模な逃散の影響もあって人口が不足しがちであったが、そのうえに農繁期に大動員をかけて攻勢をかける、というのは、一揆の危険性さえはらむ非常に危険なものであった。
その意味で、この四百という数だけでもかなりの負担である。更に兵糧の問題がある。昨年の年貢は平年の八割程度しかなかった。そして冬の間の費えもある。その残りで、自分達だけではなく川並衆をも養わなければならない。秋までに一度、徴発しなければ間に合わないだろうが、徴発は一揆を誘発する可能性が高い。
一揆となれば、今自分が率いている兵のうちどの程度が自分の側に着くか、大体分かる。百も着けば良い方だ。多分、一族とその郎党衆の一部だけ、五十も残らないかもしれない。
「民の力、か」
三木直頼は今更ながら、昨年の姉小路の積極的な移民政策、自身は蕎麦を食べ移民には白米をふるまってまで行った移民政策の力を思い出していた。あの手は、自分には使えないだろうと思う。
しかし、どこで間違えたのだろう。あと一歩で、姉小路の名跡を継げたはずなのに、あの小僧が出てきて姉小路の名跡を継いだ、それだけのことで、ここまで局面がひっくり返されるとは。後ろ盾の差か、とも思わないでもないが、やはり最初の国入りの際に落石の計で仕留められなかったのが、今更ながらに悔やまれる。
そう物思いに沈む三木直頼の前に物見が戻ってきて報告した。
「姉小路房綱自身が兵千を率い、飯山城に入った模様。我らの出方を見ているようです」
分かった、軍議をするから諸将を集めよ、と言い、気持ちを切り替えようとした。率いてきた兵が千ならば、国人衆を入れても野戦で互角からやや有利である。ここで勝てば、まだ巻き返せる。そのはずだ。
三木直頼はまだ正確に理解していなかった。鉄砲を持つ精鋭軍が待ち受ける戦場がどのような堅さを持つかを。そしてそれがどのような結果をもたらすかを。
これは三木直頼が愚かという意味ではない。この種の精鋭軍が登場するのは、日本史上でも、おそらく世界史上でも初めてのことであるのだから。かの有名なグスタフアドルフに先立つこと半世紀、三兵戦術の先駆けとなった反転行進射撃よりも三十年近く前である。別段草太が意識したわけでも開発したわけでもないのだが、様々な積み重ねの結果としてこの戦いは行われた。
対して川並衆は流石に嗅覚に優れていた。濃厚な敗戦のにおいをかぎ取っていたのである。
「明日の決戦は、適当に戦って逃げろ」
そう坪内利定が命じたのは、軍議が終わった後のことであった。
「軍議では、偉そうなことを吹いていたがな、野戦で勝って余勢を持って飯山城、高山城を力攻めに落とす、とか。だがな」
そうして坪内は空を見上げて星を見ながら言った。
「明日も晴れるだろうなぁ、小六よ。野戦で適当に戦って、最前列は我らだがそれゆえに最後まで踏みとどまる必要などない。適当に戦ってすぐに逃げろ。可能な限り生き残らせろ」
どういう意味ですか、とは蜂須賀小六は聞かなかった。聞かなくても彼にも濃厚な敗戦のにおいがしていたからだ。
「どちらにせよ、今夜はこの水無神社の前で宿を取り、明日払暁にはここを引き払って全軍で飯山城へ向かう。おそらく平野部に入った直後に野戦だろう。出来れば三仏寺城から背後を突いてもらいたいが、すぐ脇の鮎崎と高山がそれを許さないだろうよ。となれば正面切っての戦いだ、このにおいじゃあ、負けだろうよ」
彼らは、本能だろうか、場数だろうか、相手よりも自分達の士気の低さを見抜いていたのだろうか、とにかく野戦で勝てるとは思っていなかった。
「帰りはどうしますか。いつも通り現地解散とは行かないでしょう」
「どうしたものかな。ここまでの兵糧は出させたが、おいて逃げるしかあるまいよ。腰兵糧にできるだけしておけ。後は川沿いだ。水は何とでもなる」
御意、と一言言った蜂須賀小六に、坪内利定は声をかけた。
「何度かいでも、この負け戦のにおいってのは嫌なものだな。そうして、このにおいの時は決まって負けやがる。といって今から逃げるわけにもいかんしなぁ、畜生め」
確かに彼らは負けた。これは彼らの予想通りであった。しかし、彼らの予想をはるかに上回る敗戦であった。
戦史に埋もれ、この野戦が再度脚光を浴びるのは、明治維新後のことである。
もう一つの戦いは既に始まっていた。というよりも既に終わりかけていたという方が正しいかもしれない。それは民の戦いであった。
「もうすぐここは戦場になる」「火をかけられる」「逃げろ」
口々に言い、荷を運ぶもの、荷車を引くもの、体一つで逃げるもの、泣き叫ぶ子供、子を探す親、年を取った親を背負うもの、様々であった。草太は飯山城着陣早々に、飯山城下のみならず高山盆地一帯の民に避難を開始するように通達を出した。そして小荷駄隊を率いていた太江熊八郎が到着するや、その荷を全て下ろさせ、その大八車と小荷駄隊全軍、といっても百にも満たないが、その全軍に戦場となりうる地域からの民の脱出を行わせるように指示を出した。集結地は高山盆地に入ってすぐの川上川と宮川の合流点、その西側と定めた。そこであれば万が一にも戦場に巻き込まれない。
更に、三仏寺城付近までの南北約一里四方に民が残っていないかを確認させ、田畑の被害は補填する旨を各国人衆から支配下の庄屋に伝えさせた。このため、付近には兵以外の住民は全く見なくなった。また集合場所とした川上川と宮川の合流点付近では炊きだしが行われた。流石に全て白米とは行かなかったが、幸いに天候は晴れであり、食事も与えられた住民たちは一先ずの不安からは解放されたのであった。
民も戦のたびに戦いに巻き込まれひどい損害を受ける。それを少しでも減らしたいというのが、草太の考えであった。




