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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第二章 飛騨統一編
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四十、山科卿の飛騨来訪と鉄砲事始め

 年が改まって天文二十一年となった。

 年賀の挨拶は、降伏してきた国人衆四名も参加して滞りなく済んだ。大評定も、元からの既定路線、即ち三木を攻めて飛騨を攻略する、という方針を確認して終わった。その後の宴も、特に何もなく終わった。特に記述すべきことは何もない。ただ草太が、人質とはいえ会えぬのはつらかろうと言い、一刻限りではあったが人質と会う事の出来る時間を作ったことは、慈悲深いことと言って良かった。


 この前月、師走に京洛に行き、滝川一益他を雇用した次第は既に述べた。これに頭を抱えたのは、誰あろう弥次郎兵衛であった。何しろ、内政を行うべきものは全く増えないのに、鉄砲隊という新しい兵器を実戦化するという。鉄砲隊は金食い虫であるというのは常識であり、この費用だけでも大変な額になる。さらに服部保長が諜報網を整備すると言って出してきた計画に対する費用あり、城造りのための資金のねん出もあり、仕事は大幅に増えた。

 が、繰り返すが内政を行えるものは一人として増えていない。


 唯一、鉱山については全兵衛に全面的に任せることにより負担が減っていたが、その全兵衛も雪が溶け次第再度領内全域の再調査を行うため、しばらく不在になると聞いている。その間は、弥次郎兵衛達内政方の負担が増えることになっていた。

 朗報らしい朗報は、今まで弥次郎兵衛が行っていた諜報、情報関連に関する業務は全て服部保長が行うことであった。

 冬の間は開墾がないためそのための業務もないことも朗報ではあるが、同時に新たにやってくる開拓民は未だにポツリポツリと来ているので、今までのような忙しさはないものの業務そのものは未だになくならない。それどころか、春の小麦の取り入れが終われば一斉にやってくることも予想されているので、今のうちから準備は進めておかなければならない。


 一鍬衆は冬の間は訓練を行う場所が雪に埋もれるため、専ら太江熊八郎の指揮の下鰤街道の整備を行っていた。除雪だけでもかなりの重労働である。体力を作るのには充分すぎる労働量である。おかげで、吹雪が吹いても止んだ翌日には元通りの交通量を確保できていた。これには商人たちも大きく喜び、運上金も予想よりはるかに多かったのは明るい情報であった。



 姉小路家日誌によれば、天文二十一年如月三日(1552年2月27日)、山科卿来訪す、とある。山科卿とは山科言継の事であるとされている。山科言継は朝廷の財政の為に精力的に日本全国を飛び回り、献金を引き出して行った。その山科卿が来たということは、単なる通過点としてでもなければ献金をするだけの力があると見込んだからに違いがない。確かに鉱山は豊富な金銀銅を生み出していたとはいえ、まだまだ財政としてみた場合にはそれほどの余裕は姉小路家には無かったと推察されるが、実情は不明である。現実に残された資料としては、銭百貫文と金二枚を贈ったという事実のみである。この金二枚がどの程度の価値だったかは不明である。

 三日目の朝には既に国府盆地の南まで送った旨の記述があるため、慌ただしい来訪であったといえるだろう。



 岡前館も正月の喧騒が一段落し、日常の業務に戻る頃、山科卿からの先触れが来たという報が入ってきたのは、午前中の政務が終わるころであった。

「山科卿、と確かに言ったな」

と確認したのは、草太には山科卿の名前は知っていても面識がなかったためである。しかも家格は同じく羽林家でありながら、朝廷の財務を一手に引き受けるほどの実力者である。有職故実にも明るく、下手なことは出来ない。午後の視察は取りやめにして、早速出迎えの支度を命じた。

 といっても地下人の家に出迎えられたことはあっても堂上人の家に公式に出迎えられたのは、元服のときだけである。堂上人として岡前館を訪れたのは山科卿が初めてでもあり、不備があるのかどうかも分からない。というよりもその方面の知識は誰も持ち合わせていない、というのが現実であった。それでも白米を、姫飯に炊かせ、海のものはないにしても山の珍味を集めさせた。

 当然にして上座は譲るべきであろう。部屋は床の間で、などとやっているうちに次の先触れが来てもう半刻もすれば来るという段になった。時刻は既に夕方に近い。師走に草太が上洛している間に畳を入れることが出来たのは僥倖であった。


 床の間を背に山科卿が座り、草太はその正面に座った。位が違う。既に四十代も半ば近く、風格ある堂上人である山科卿と、なったばかりでほとんど出仕もしていないで下向した草太の間には、その所作に漂う品が全く異なる。だが、山科卿の気さくな人柄が幸いし、丁度食事時ということもあり、まずまず無難に話は進んでいった。

「……そうそう、少し頼まれものをしておったのでおじゃる。これを」

そういって一束の手紙を草太に渡した。

「それは、こちらに勤めたいという半家の二男、三男の嘆願状でおじゃる。人をやって足代を渡せば、こちらに来るでおじゃろう。……なに、このまま行っても家督も継げず生涯部屋住みの身、地下人のまま生涯を終える連中が大半じゃ。気にすることはない。使ってやってもらえぬか」

「中には有職故事を知っているものも」

と草太は聞き返した。

「当然いるでおじゃる。内外の大名と親戚関係のものも多い故、外交の伝手も広がろうのうよ。……それにしてもこの肉は旨いのぅ」

 この後の予定を聞くと、甲斐武田、北条、越後長尾と回り、再度越前周りで京に戻るという。

「なに、雪が解けるころには京に帰ることができるじゃろう。桜がさぞ綺麗であろうの」


 約束の献金は目録の形で渡し、別便で京に送ることとした。また各人への返書も、直接草太から出すべきだといわれたので、その通りにした。


 これに喜んだのは弥次郎兵衛であった。外交についての伝手が増えるのも、内政の手が増えるのも、どちらも歓迎すべきことであるためである。ただし、実は新しい仕事が増えたことに気がついていなかった。

 二男、三男といえども貴族として育てられた人材である。この人材を「使える」人材にするための教育、という、困難極まる仕事である。結局外に出せる程度まで育つのは半分にも満たず、残り半分は城の中でひたすら書類仕事という日々になるのであるが、これはまた別の話である。



 ここまでくると、弥次郎兵衛にかかる負担が大きくなりすぎているおいう指摘がなされることが多くなってきた。その指摘は前から気がついていたものの、どうにもならない。だが今弥次郎兵衛が倒れると仕事が回らなくなるおそれが大きく、徐々に分散化を図っていた。その一人が太江熊八郎である。彼は開墾の割り振りと冬の間の一鍬衆を使っての鰤街道維持についての一切を行っていた。また、帳簿に関しても手代衆を中心に弥次郎兵衛が直接手を下すことを少なくしていった。それに加え、諜報については服部保長が担当し、外交については今後の半家、羽林家の伝手で大分やりやすくなる。

 だが同時に、それらを統括するという新しい業務が生じることとなり、結局は弥次郎兵衛の負担そのものはほとんど変わらないのであった。



 この冬に重要なことはもう一つある。それは鉄砲が飛騨の国で製造され始めたという点である。

 姉小路家日誌によれば、国友衆が到着した日は明確ではないものの、天文二十一年如月十三日(1552年3月8日)の項に、

「国友衆、種子島一丁製作し、姉小路房綱公に献上仕り候。公早速滝川一益を召してこれを試し候処、具合良く、大層喜ばれ候」

とあるとおり、鉄砲生産が開始されたという。工房は既に岡前館から離れた別の場所に移転していたが、新しく鉄砲用の工房が作られたのか、或いは今までの工房に間借りする形で製作が行われたのかについては議論が分かれるところである。いずれにせよ、鉄砲用の工房は分離独立したものが郊外に作られたことが遺構から明らかであり、その規模は月産百丁とも二百丁ともいわれる火縄銃の一大工廠をなしていたのであった。



 鉄砲鍛冶が到着して一月ほどで、一丁目の飛騨産の火縄銃が完成したという。玉は二匁半であり、これが採用されるならば、材料さえあれば月に数十丁の火縄銃を作ることが可能である。その視察を、といわれた。試射するのは、滝川一益である。打ち方を教えてはいるが、今のところ、打ち方が分かるものはいるものの、滝川一益が所有している鉄砲であっても的に命中させることができるまでになったものはまだいない。

 まず、玉薬を入れ、杖で突き固め、玉を入れ、更に突き、口薬を入れて火縄を挟み、引き金を絞る。轟音がして数間先の甲冑に穴が開いた。人が着ていれば致命傷は間違いないだろう。

「ふむ。扱いやすい、良い銃ですな」

とは滝川一益の感想である。だが草太には、どうも手順が煩雑に過ぎる気がした。もう少し簡単に出来ないか、と思ったが、滝川一益が扱いの良い銃だと言っている以上、今の銃がこの時代の技術水準では平均を越えるものなのであろう。

 火薬の製造については滝川一益が講師となり、まずは一鍬衆に教えている。硝石がやはり高価であるため、どうしても製造にも費用がかかりすぎる。更に弾丸も問題である。均質に同じ大きさの球形の玉を作る、というのは難しい。一つ二つならば何とでもなるが、ある程度大量にとなると困難が伴い過ぎる。



 硝石は白山郷、五箇山で製造できたという記録を読んだ記憶があるため、それほどの心配はないが、本当にあるのか、現在製造方法が確立しているのかも含めて、何も分かっていない。一先ずは内ヶ島家と顕誓を通じて照蓮寺善了に、石山本願寺に学ばせるように頼んであるため、ほどなくして彼らの懐を温める大事な財源となるとともに、姉小路家の硝石消費を支える柱となるはずである。

 また、弾丸については中々難しい問題だと思われていた。なにしろ、まだ大量に同じ形のものを作るという概念自体が確立していないのだ。しかし、火縄銃の玉は鉛で作るのが一般的であるが、鉛を大量に、それも同じ形にまとめるのは中々難しいように思っていた。

 しかし、鉛自体は、例えば神岡鉱山でも大量に出土するから、金、銀を取り出した後の残りかすから容易に調達できる。同じ大きさ、同じ重さの球形にというのが難しいと思ったが、全兵衛に言わせると「簡単」なのだそうだ。るつぼの中から同じ重さで取りだして転がしておけば丸くなりまさね、とは彼の言葉である。ただし、この方法で大量につくれるのは精々十匁程度までなのだそうだ。

「それ以上だと、丸くなるよりも餅のように伸びちまいますや」

 何事も聞いてみるものだと草太は思った。


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