四、京都への旅
土佐日記ではないが、この時代の土佐は中央である畿内からははるかに遠い辺境の地である。
上古の時代、そして土佐日記の書かれた平安時代には、土佐といえばはるか辺境の地、異境の地である。しかし、時代が下るに従い、戦国末期には九州南部から現在草太がいる土佐西南部(幡多)、中央部(浦戸)、東南部(室戸)のいずれかを経由して堺をはじめとする畿内か、紀伊半島を南周りに回って尾張、駿河をはじめ小田原以東にも続く海の道の一部である。ただし、海の道の本道は北九州より瀬戸内を通り紀伊半島を回るため、土佐はこの意味では支流でしかない。
余談になるが、南蛮貿易の中心が中国の寧波から長崎へではなく沖縄から薩摩というルートが中心であれば、土佐の重要性は全く変わったに違いない。とはいうものの荒れやすい太平洋と内海で気候の穏やかな瀬戸内海では、薩摩からのルートであっても豊後水道を通じて瀬戸内海に入るだけかもしれない。その場合には、幡多は多少影響があるかもしれないが、やはり土佐は支流にしかならなかったであろう。
ただし、この辺りの事情は草太にとっては全く関係のない話ではある。
草太にとってさしあたって重要なのは、ここから京までの旅である。一条家の下人たちは京まで、一部は琵琶湖西岸まで行くらしいが、草太自身はとりあえず京へ、その後飛騨に行くとなれば京から飛騨までは何らかの便があり次第、という運びであるという。また、京の近くまで船で行く、とはきいたものの、その船は草太にはかなり奇妙に見えた。舳先がとがっていないのである。これは草太を助けた小次郎の船にも共通して言えることだ。
そして、草太にとって最も重要な問題は、この時代の船に荒れやすい海を何日も乗り続ける、という点である。この時代の船は、基本的にはジャンク船の発展系から抜け出していない、いわゆる和船である。それも江戸以前のものであるため、ジャンク船の色合いの濃い、帆はあるが櫂走船である。山育ちの草太にとって、こういう船は本で何度か見たことがある以外に、ほとんど見たことがなかった。無論、乗り心地も捨てられるときに乗ったヨットに比べれば段違いに悪い。考えても見てほしい。ただでさえ荒れやすい海の上を、陸が見える程度しか離れていない海岸線沿いを、安定性のそれほど高くない船が進むのである。拾われて陸への船は、海が比較的穏やかであったこと、草太自身が疲れ果てて眠り込んでいたため船酔いなどしなかったのだが、船酔いというものがどういうものか、このとき嫌というほど草太は学んだのである。
四日の航海の後、堺の津に着いた船に高々と「一条家御用達」の幟旗を掲げ、荷上げをして一泊するまで、草太は正にこの世の生地獄を味わった。それまでも何度も生き地獄は味わっているが、船酔いというのは初めての体験であった。
京の一条家についたのは堺について四日目のことであった。最初の一日は荷降ろしのために移動がなかったが、三日間、荷物こそ持たなかったが徒歩であり、しかも大人の足に合わせて歩かなければならないというのに、草太は問題なくついていった。最初、世話係を言いつけられた男は、草太をおぶることも考慮していたが、多少つらい顔はしても、とにかくついて歩くことができるということで草太を見直していた。しかも、言われなくても食事の世話など身の回りのことは一通りするし字の読み書きもできる。算術も多少試みたが、かなりの能力があるように見えた。確かに鐚銭に関する選別眼はないにせよ(貴族であれば当然なのだろう)、この年頃でこの能力というのは、かなりのものであるといってよかった。多少言葉の端々にケンがあるにせよ、それは疲れからであろうし、元々貴種であるなら下人に対してはケンのある話し方の方が自然なのかもしれない。実際、一条関白殿下も自分に対して何らかのことを命ずる時にはかなりケンがあるように聞こえる場合が多い。
この男は、京に着くと一条家を離れて比叡山の近くにあるとある寺の権別当となることが決まっていた。そのためにこの一条家の上納に連れだって歩き、自分のもの以外の荷をもたず(というだけではなく自分の荷を一条家の上納の一台に載せさせて)荷役の監督をしない代わりに草太の世話をしていたのだ。
つれていこうか。
自分が権別当として入る寺に、草太を連れて行き使おう、と考えたのも、無理はない。権別当というが、簡単にいえば寺領の代官である。使える部下がいるのに越したことはない。一条家をはじめとする公卿達が行き先を決めなければ、自分の寺に誘おう、最悪の場合攫ってでも連れて行こう、そう考えた。
公卿達がいずこかの行き先の決定をしないか、或いは決定することを永遠に先延ばしをすることにしたら、この話を草太にするつもりであった。
一方の草太である。草太はこの男、船に乗ってすぐに名を聞いた覚えはあるが、既に船によっていてそれどころではなく、その後も何日も船に酔い、介抱をしてくれたらしいため礼をいう段になって名を覚えていないことに気がついた。実際には、草太の介抱を誰がしていたのかさえ覚えがない。誰かではあったが、それが誰かは全く分からなかった。ただ、草太の世話をする担当であるということから、彼であろうと見当をつけていただけだ。実際は水夫が交代で世話をしていたのだが、そのことを草太は知る由もないし、水夫のほうもそれを恩に着せようとは思っていなかったようだ。
草太はこの男が、反りが合わないのだろう、どこか気に入らなかった。色々と話しかけてくるのだがその端々に何となく人を試しているような雰囲気を感じる点といい、下人を顎で使うような態度といい、そのくせこの度の責任者には酷く卑屈な態度をとるところといい、どうにも気に入らなかった。船が陸に着いてからも名前を聞きそびれたのをそのままに、草太の頭では堺から京都までであれば車で一時間強位であるから、そう長く付き合うこともなかろうと思っていた。実際は斎藤助左衛門という名であるが、草太にはそのことは分からない。
ただ、それほどの距離でもないため、何日もかかるとは思っていなかった。精々一日かその程度であろう、と多寡をくくっていた。この予想は、しかし大きく外れた。船から荷降ろしでまず一日かかり、翌朝、用心棒だという浪人者と合流して堺の街の城壁から出て難波で一泊し、翌日更に北上して淀川に出、河船をつかって伏見で降りて一泊。一条家の屋敷に着いたのはその翌日のことであった。難波で泊った夜に、この世話係の男の名を知らないのに気がついたが、さりとて今更聞くにも聞けない。一時の恥という言葉は知っているが、さりとてかかなくてもよい恥であればかきたくないのが人情である。草太も、どうしても聞くことができず、といって用もないため聞く必要もなく、京の一条家の屋敷で分かれた。
船酔いによる体力の消耗はあったにしろ、薄暮のころから黄昏時まで、途中の小休止は何度かあったが10時間近く歩けたのは、ソウタ爺と山歩きをしていたことが大きい。その上に、もし遅れが目立つようであればこの男の世話にならなければならない。それを避けたい一心で、草太は歩いた。景色を見る余裕はなかった。街を見る余裕も、行き交う人を見る余裕もなく、ただ歩いた。疲れもあって、話しかけてくる斎藤に対して、邪険な態度をとっていたのかもしれない。
ともあれ、何とか一行は無事に京の一条家の屋敷にたどり着くことができた。当時の日記の記録によれば、天文十八年長月二十日、土佐よりの荷、届くとある。ただし旧暦なので、既に季節は夏も終わり秋である。西暦では1549年10月10日に比定される。早稲の年貢を届けたものであろうと思われるが、荷の詳細については目録がないので分からない。草太も、荷作りされた外側からしか見ていないため、中身は知らない。ともあれ草太が同道して京に入ったのはこの時であると思われる。
この後、斎藤は(出家するわけでもなく俗世のままであったが)権別当になり、何年か勤めた後、いずこかへ去った。草太との接点は京で絶え、その後のことは分からない。少なくとも草太の人生には、何のかかわりもない人間になった。
一期一会という言葉があるが、その通り草太と斎藤はわずか十日足らずの関わりしかもたなかった。斎藤は草太を諦めきれず、権別当となった後も草太の行く末を気にしていたが、草太は早々にこの男のことを忘れ去っていた。忘れ去るというより、最初から覚えていなかったという方が現実に近いのかもしれないが。
実際には一度だけこの後、斎藤は草太を訪ねている。だが草太が斎藤の名も知らなかったため会うことはなかったが、それはまだまだ先の話であり、また別の話である。
さて、草太は京の一条家の屋敷に着いた。一通の書状が一条房通に渡されたが、草太自身には京に知る人など一人もおらず、荷を運んできた者たちもすぐに帰り、反りが合わず気に入らなかったあの男(斎藤という名前は、ついに分からないままだ)も到着して翌朝にはいずこかへ去っていた。荷運びの宰領をしていた男は名前も知らず、草太は孤独であった。草太にとっては、しかし、今までとほとんど変わらない。現代を生きていた時期と、食べるものは変わった、生活のあれこれも変わった、周囲の人も変わった。正に激変と言って差し支えないほどの変化であるが、草太の内面からみた周囲の環境は、登場人物が多少変わった程度で、ほとんど変わらない。船旅を除けば、多少の世話を焼く大人が数名、時々いる程度で、何時間も歩いたリ冷暖房のない部屋で一人で過ごしたりするのは、現代でもこの時代でもほとんど変わらなかった。ただ目の前を通り過ぎる人が変わり、目の前の景色が多少変わった程度で、戦国時代に迷い込んだという事実ですら、そういうものか、とどこか他人事のようにしか感じていなかった。
他者である我々の目から見たとしても、船に乗っている間は別としても、むしろ草太の待遇は良くなっていたのかもしれない。食事は現代にいた時にはしばしば一日一食か、水を飲んで過ごすことも月に一度程度はあったのが、この時代では毎食、それほど上等とは言えなかったが与えられたこと、服も上等とは言わないまでも与えられ、時に煩わしいと思う程度には世話を焼く大人がおり、多少の要求は大抵かなえられたこと、などである。要求がかなえられたといっても、のどが渇いたと訴えれば竹筒の水を与えられる程度の要求でしかなかったが。
これは、戦国時代にいった後の草太の扱いが良かったというよりも、むしろ現代にいた頃の草太の扱いが悪すぎたという方が正しいのかもしれない。例えば草太の母親は、草太がのどが渇いたといっても「あぁそう」で済まし、自分のPETボトルのお茶なりを渡すことなどなく、まして何か買う等ということは考えられなかった。




