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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第二章 飛騨統一編
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三十六、神岡の戦後処理

 戦が終わり残りはほとんど落ち武者狩りの農民の仕事という段になると、逆に忙しくなるのが勘定方である。

 特に今回は、広瀬領一郷を獲得した直後に、新たに吉城郡六郷及び神岡鉱山という膨大な量であるため、既に勘定方の能力を大幅に超えていた。この後、飛騨の残敵掃討を、今回はほとんど出番のなかった牛丸重近に任せ、草太自身は新たな領土の庄屋、大庄屋を集めてこれからの方針を説明するなど忙しい。だが、冬の到来もある。これで今年の戦の季節は終了である。


 と同時に、新しい頭の痛い問題が二つ出てきた。一つは吉城郡から北へ向かった東越中は長尾家の勢力下であり、つまりは軍神上杉謙信と領域を接することとなったことである。今はまだ家督相続に伴う内乱の最中であり、越中へ兵を出すのも飛騨ではなく西越中が主な目的であることが救いであはあったが。とはいえ、神岡鉱山を見て食指が動かないとは限らない。史実においても飛騨は越後上杉家(長尾家)と甲斐武田家の代理戦争の場として使われている。

 もう一つは鰤街道の整備である。年貢の大部分は江馬氏が景気良く使ってしまっていたので、もし江馬氏が撃退に成功していたら徴発しなければ来年の収穫までもたなかったはずである。街道を整備する程の予算をねん出しなければならない。特に吉城郡と国府盆地の間の街道は、短いながらも軍の異動を考えるとかなりの拡張を行う必要がある。ただし、雪解けの後であるから、神岡鉱山を当てにする、という方法も取れるだろう。その雪をどうにかして街道を維持するのもかなりの費用がかかり、それも結局は草太たちの手に委ねられる問題である。


 その神岡鉱山である。全兵衛を早速呼び寄せて見せたところ、金銀銅、全て大量に取れる、とのことである。全兵衛を山奉行として正式に任命したかったが本人にそのつもりはなく、持ち主が変わっても山が掘れればそれでよいという返事であった。仕方がないので勘定方に丸投げしたところ、山主は草太、その代理として全兵衛が全権を握る、という形に落ち着いたようだ。山主としての取り分は草太と全兵衛で折半するということとなったため、結局経費は姉小路家が出す代わりにその産出した金、銀、銅の八割が姉小路家に入る、という形で落ち着いた。

 簡単に書いたが、この神岡鉱山だけでもこの吉城郡の年貢全体を売却した額よりも多くの収入が見込め、しかも天候に左右されないという事情から、勘定方はうれしい悲鳴を上げていた。


 三木領からの移住者も大分落ち着いてきた。というよりも、そろそろ移住できるものは全て移住しきったのだろう。取り入れた作物を持って移住してくるものも少なからずおり、その中から鉱夫を抽出し、また開拓場所は場合によっては奥飛騨も含めて行われていたが、もはや草太がほとんど口を出すような話でもなくなってきている。大まかな方針を決めると、勘定方として最初の国入りと後からの手代衆、それぞれが部下を持ち既に百人を超える勘定方が専門家集団として独立してきており、そろそろそれを掣肘できる機関が必要となってきている。大規模な横領があっても分かりにくい。なによりも、気が付いたら乗っ取られていたという事態も充分に考えられる。

 といって、勘定方に関することが任せられるのが弥次郎兵衛ただ一人しかいないというのが悲しいところだ。


 大体、武将からしてそうである。

 飛騨一国に満たないとはいえ、現状では平助は護衛以外はしないと明言しているし、事実兵を預けて別動隊を率いることは絶対に賛成しないだろう。弥次郎兵衛は後方任務担当、というよりも兵を出して戦うことも出来なくはないが、他に後方任務を担当させられる人材がいない。太江辺りも出来るだろうが、平時ならともかく戦時で臨機応変に、となれば難しいだろう。そうなると、一門衆の三人と田中弥左衛門だけしか手駒がいない。今回は後藤帯刀に南部の守備を任せ、城門前を牛丸重近に、後方からの後詰に渡邊を充て、両翼からの挟撃に田中弥左衛門と、本来なら後方任務を任せるべき弥次郎兵衛を充てたが、戦線が拡大する今後は、将として使える人材が必要である。結局江馬氏攻略では武将は手に入らなかったが、治めるべき土地は広がった。

 いずれにせよ、絶対的に使える人材が不足しているのは明らかであった。


 そんな中、弥次郎兵衛が草太に手紙が来たと言ってきた。太江を経由して転送されてきたもので、その差出人は高山に住む三木氏に従っていた国人衆、高山外記、塩谷秋貞、鮎崎新兵衛尉、飯山保氏といった面々が、それぞれ同じような文面の書状を送ってきたという。内容は読まなくても予想はついたが、一々内容を検め、違いはほとんどないのを確認した。

 要するに、所領安堵を条件に鞍替えする、という内容であった。たったそれだけの内容に、何と長い文を書けるのだろう、と草太は妙なことで感心した。

 一先ず、全員と顔を合わせ、こちらからも必要があれば条件を出して、それで納得づくならば降伏を受け入れる。特に怨恨もない。ただ、保身のためだけに寝返るとなれば、次にこちらより強い勢力、例えば甲斐武田や美濃斎藤が来た場合にはまた寝返ると見ねばなるまい。届いた日から考えるとまだ吉城郡の攻略をしている段階で寝返りを早々に決めたということになる。おそらく広瀬城が降伏した段階で決めたのであろう。

 であるならば、住民の移住を促すという現在の政策は、予想以上に彼らに被害をもたらしたと見るべきかもしれない。益田郡のように峠を閉じて逃散を防ぐ策も、使えなかったのかもしれない。この辺りは情報不足が響いていた。


 結局、何をするにも情報が最大の問題になるのか。


 草太は、改めて情報戦というものについて考えを巡らせていた。それが出来る人材を、早々に確保しなければなるまい。或いは自身を大きく、又は小さく見せかけ、或いは敵の諸情報を詳細に掴む。|知己知彼、百故不殆(てきをしりおのれをしれば、ひゃくせんまたあやうからず)、とは孫子の言葉である。己を知るのは難しいが、勘定方を中心に行われている。だが敵を知る、という部分については完全に手薄であることは否めない。これから攻めるという段になって初めて調べ始める、というのが現状では精一杯で、現在対峙している三木氏配下の国人衆についてすら情報が不足しているのがその証拠であった。


 何をするにも、人か。


 雑多な情報を集めるだけならば、おそらく太江熊八郎辺りに任せれば、飛騨近辺の農民同士のつながりから集めることだけであればそれほど難しくなく出来るであろう。だが、それを取捨選択し整理して意味のある情報とするのは、おそらく彼には荷が勝ちすぎるように思えた。しかも、農民同士だけの目線では見えない、盲点になる情報は必ず出てくる。例えば城の内部事情や武将同士の仲や遺恨などは、農民の目線では見えにくいだろう。

 難しいものだ、と草太が物思いに沈んでいると、弥次郎兵衛は降伏を許すかどうかを悩んでいると勘違いしたのであろう、四名のものを召しだしましょうか、と。

 そうだな、と力なく草太は答え、そしてこう言った。

「今回、何故勝てたのか、しっかり研究せねば、今度は逆に破れる。なぜ彼らが降伏してきたのか、内ヶ島家は別にしても、江馬家とこの四家がどう違ったのか、その違いをはっきり認識しなければ、今度は逆に破れる」

一語一語を区切りながら、草太は考え考えこう言った。そして、評定の議題にするゆえ、考えておくように各人に通達せよと命じた。



 姉小路家日誌によれば、一通りの戦後処理が終わり評定が開かれたのは、天文二十年神無月十五日(11月13日)である。

「房綱公、江馬時盛以下の首実験なされ、慈悲深くもそれぞれの菩提を丁重に弔うよう善了和尚に申しつけたり。また評定仕り(略)かくして、飛騨吉城郡はことごとく当家の支配するところとなれり」



「それでこの度の大勝利の原因は何であったか、各人考えてきたのであろうな」草太は論功行賞の後、切りだした。

「無論、殿が勇将であり江馬時盛が堕弱だったからに他なりませぬ」とは一門衆筆頭、後藤帯刀の言である。左様、と牛丸重近が相槌を打った。

「某、傍で采配を見せていただきましたが、見事という以外にない采配にございました」

 一歩違うところからの発言をしたのは、田中弥左衛門であった。

「城攻めをせなんだことでございましょう。上手く敵を城からつり出し申した。我らの守るところに攻めよせさせる、なかなか思うようには寄せてこないのを、上手く誘導なさったのが一つでございましょう。もう一つは部隊の訓練度合いの差でございましょう。江馬軍の主力は農民を集めただけの雑兵、一方の我らの主力は二日に一度は軍の調練がある一鍬衆。違いは歴然と表れ申した」

 弥次郎兵衛が追加して言った。

「それに加えてあの三間槍、あれが大きかった。何しろ、ほとんど向こうの槍の間合いに入らないうちになぎ倒しながら進むことが出来た。間合いに入らなければ手傷を負うこともございませんな」

 なるほどな、と草太は聞き、逆の立場であったらどのような戦を展開したかを考えてみた。間違いなくほとんど違わない。最初の野戦が夜戦になる程度だ。してみると、戦場に着いた時に既に勝利しているという、孫子に|勝兵先勝而后求戰、敗兵先戰而后求勝(勝兵はまず勝ちて戦いを求め、敗兵はまず戦いて勝ちを求める)とある、正にそのままではないか。確かに長く読まれている書物は、それだけの価値があるのだ。


 では、その観点からもう一度振り返ってみよう。

 度、つまり地形を把握していたか。これは出来ていた。

 量と数、つまり必要な兵力を把握していたか。これはかなり怪しい。例えば最初の戦いの際に両翼からの伏兵に対応されていれば、中央を破られ城兵の呼応による挟撃が行われれば、危険であったかもしれない。そもそも敵が千五百という数で攻めよせたこと自体が敵失であったと言えるかもしれない。潔く政元城を捨てて……は難しいのか。あそこで兵を失い過ぎたため、その後は八幡山城に籠るという策を取らざるを得なかった。

 逆に言えば左右の伏兵にすぐに対応されて退却された場合に、谷の出口に兵を配されていたらこんなに楽な戦いにはならなかっただろう。或いは伏兵に先に気付かれていて、敵陣の後ろを挟撃する形で伏兵が攻撃出来ていなければ、かなり危うかったに違いない。

 そう考えると、危険な戦であった、といえるかもしれない。


「御屋形様、何を難しく考えているんです。今は勝った。それはそれで良いじゃありませんか」

と弥次郎兵衛が陽気な声を出し、平助も

「勝って兜の緒を締めよ、と言いますが、締めすぎては息が詰まります。張り詰め過ぎは毒ですぞ」

と珍しいことを言った。確かに考えすぎか、と思い、戦勝の宴は宴で楽しむこととした。 


ブックマーク数500件突破、ありがとうございます。

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