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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第二章 飛騨統一編
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三十四、初陣

 情報戦略と外交、この二つが飛騨にとって決定的に不足していることを痛感した草太であったが、なんら有効な手を打てないまま雪が降ってきた。冬の到来であり、戦の季節の終わりを意味していた。冬の間は身動きが取れない。これは三木氏も江馬氏も同じことであった。

 例年、雪の季節は十二月頃からといわれており、であるからこそ今を逃せば次に戦が出来るのは最低でも半年後の雪解けから田植えまでの短い期間まで、通常で考えれば一年後の来年の刈り入れ後である。それまでに、三木氏はまだまだ力を落とすだろうとは思われるが、江馬氏は防備を固めることが明白であった。であれば、政元城は攻めておきたい。


 一応の情報は上がってきていた。炊煙から考えて、約二百名が政元城に詰めているとのことである。ただし、周辺の武士たちが入るため戦闘時にはどのくらいの規模かは不明である。同様に江馬氏の軍事力も、動員兵数は最大で二千と見積もられていた。これは各村の人口から割り出しているため、他からの傭兵その他がなければそこまで大きな差は出ない。ただし、城攻めを主とするか、それとも城攻めと見せかけて江馬氏の主力部隊を攻撃することの二つの道がある。

 しかも、草太にとってこれは初陣である。なるべくであれば野戦が望ましかった。野戦であれば、田中弥左衛門をはじめとして経験のあるものが何人か居る上、兵法書も野戦であれば現代でも通じるものがある。ことに、三間槍部隊の運用については、実戦を経なければ不明である。ともあれ、相手の出方次第という側面も大きくあるのも事実であった。


 顕誓は迷っていた。実は顕誓には城攻めの経験も、野戦の経験もある。一向宗門徒を通じての情報収集も可能である。だが、ここで手を出して良いのかについて、多いにい迷っていた。自分が敗軍の将であるからではない。僧侶として生きる、まつりごといくさとは縁を切る、餅は餅屋であり、自分の領分は僧侶としての立場である。

 しかし一方で、草太たちを助ける立場にいることも、その力があることも事実であった。多少の助言ならば許される、などと言ってはずるずると深みにはまるのも目に見えていたが、あくまで分を超えない程度には救えるものは救うべきだという考えも頭をもたげていた。一方で、助言をすることそのものが分を超えているのではないかという、僧侶という分がどこまで許されるのかについても、迷いが生じていた。そもそも、自分で決めた僧侶の分を守ることで、衆生を善に導くことが出来るのだろうか、という疑念もあった。明王はどうなのだ。仏敵を払うことで衆生を救う、とされている。それは戦ではないのだろうか。

 顕誓は迷っていた。

 そして、一言だけ助言をすることとした。


 その夜、草太の部屋を顕誓が訪れたのは、既に就寝の直前の時分であった。少しだけ話をさせていただきたい、という顕誓の言葉を快く受け入れ、部屋に招じ入れた。部屋の中には草太の他には誰もいない。平助も既に引き上げており、次の間に不寝番がいるだけである。

 まだ、部屋には畳が入れられていない。入れるつもりはあったが、あれこれに忙しく、結局未だに草太の頭の中の計画に過ぎなかった。草太に物をねだるという習慣は、まだない。現代で育てられていた際にはねだっても実現しないどころか、ねだって買ってもらった菓子類を母親が一人占めするなど、ねだっても良い結果が出た記憶がないためである。飛騨国司になってからも、自分のことは最後の後回しとするのはほとんど変わらず、その結果誰かが言いだすまで畳は入らないだろう。勿論、草太の私室のことであるから、畳のことを言いだすのは誰もが憚られていた。

 草太は文机から離れて床の間を背にして座りなおし、顕誓に円座(藁座布団)を勧めて向かい合って座った。

「未だに畳を入れておりませんので、底冷えがして申し訳ありません」と草太がわびを入れた。

「畳は入れないのですか。その位の余裕はおありでござましょう」

「なに、命じるのが億劫なだけでございますよ。……それで顕誓様、御用というのは何用でしょうか」

 草太は、顕誓がそろそろ出立するつもりなのではないかと想像していて、その挨拶に来たのだと推察していた。第一、未だに寺の建立もせずに岡前館の一室を使わせているにすぎないのだ。

「房綱殿、自分は少し迷いましたが、やはりこうするのが良いような気がします。……初陣が近い。おそらくは江馬領政元城付近。違いますか」

「御坊、どこでそれを」

「何となしに、でございますよ。戦場に身を長く置くと、戦が近いとその気配が致します。南は広瀬城が降伏したばかり。ならば北へ、江馬領に進むのが道理でございましょう。……話というのは他でもありません」

 やはり戦をするとなれば出て行くつもりなのかと草太は思った。

「初陣となるでしょうから、餞に一つ、城攻めについてお教えいたしましょう。城の落とし方でございます。……戦とは縁を切った身でございますし、十数年も前の敗軍の将の戯言とお聞き下され。城取りにはいくつか方法がありますが、簡単に言えば門を開けば落城いたします。少数のものを先に城に紛れ込ませておく、これも一つ。力攻めで門を開く、或いは壁に穴を穿つ。これも一つ。食料や水を断ち自ら開かせる。これも一つ。火をかけ中に居られなくする、これも一つ。援軍を目の前で完膚なきまでに打ち砕き士気を砕く、他にも様々ありましょうが、一口に言えば門を開けば落城する。こう覚えておけば良いでしょう」

「……お言葉、ありがたく頂戴いたしました。しかし宜しいのですか」

 草太は少なからず驚いていた。顕誓が自ら定めた分を破ってまで草太に助言をしたのだ。だが、少しはにかんだ笑顔を浮かべながら顕誓は言った。

「なに、少々血が騒ぎます。若いころに戦場に身を置いていたせいもあるでしょう。それ以上に、自分のことよりも領民を優先する房綱殿に、その初陣のせめてもの餞を、と思いましてな」



 姉小路家日誌の天文二十年神無月朔日(10月29日)の項に、こうある。

「房綱公、一鍬衆他を野口城に集め給い、戦勝祈願の鬨を上げ、政元城へと鰤街道を下りたり。その数千八百、また雑兵を加え総勢二千三百余也。たちまちのうちに政元城を包囲し給い、吉村政元に理非を唱え降伏を促さんとす。江馬時盛、これに応じて吉城の衆千五百を引き具して攻めるも、公背後に備えあり、たちまちのうちに之を打ち破り給えり。この様子を見て政元、降伏す。また、その余勢をかって寺林城も落としたり。残りたる江馬方の軍勢は八幡山城付近に陣を張りたるも、公之を打ち破るときに非ずとて戦を納めたり。初陣なれども公の指揮は大胆不敵でかの張良孔明もかくやと言うべし」



 長月晦日に陣触れを出し、岡前館に詰めていた旧広瀬城軍兵百、一鍬衆全軍千六百を明払暁野口城前に集めた。また、南部を守る逆茂木部隊百五十名は広瀬城、小島城、岡前館は後藤帯刀に任せ、飛騨の内政全般は太江熊八郎に任せ、小鷹利城より牛丸重近隊百名に付近の農村より徴した雑兵三百をつけて出陣させ、これと払暁に合流して二千の軍として前進を開始、また後方より後詰として雑兵三百を集めて渡邊前綱の裁量により昼前に出発させた。

 驚いたのは江馬時盛である。南方の三木支配下、広瀬城が落ちたことは聞き及んでいたが、そのまま高山盆地になだれ込むものだと考えていたためだ。まずは一報を届けた吉村政元に籠城を指示するとともに、自身も攻城部隊の背後を突くべく八幡山城に兵を集めた。吉城全域より集めるには時間が足りないが、その数が千五百を超えた時点ですでに昼を過ぎていた。ここより政元城は一刻半かかるが、あまり時間が遅いと西日を受けて戦わなければならない。それは不利であるため千五百を進発させた。標的は勿論、今政元城を囲んでいる姉小路軍二千である。のろしにより合図を送り、挟撃することにより撃破することな充分に可能、と江馬時盛は考えていた。


 一方の草太である。姉小路軍は城の正面をもっぱら雑兵と小鷹利衆に任せ、一鍬衆と自身の馬回り計千七百名を後方からの攻撃に備えていた。そのうちに後詰として渡邊隊三百名も到着したが、これも城正面に起き、城からの突破に備えさせた。

「後方に脱出路があるのでは」

という進言は、あえて無視した。逃げたければ逃げれば良い、城が落ちればこの度はそれでよい、と一言言って左右よりの奇襲にのみ備えさせた。やがて物見が江馬時盛の軍勢が接近してくるのを報告してきた。

「意外と早かったな」

と思ったのは、夜襲をむしろ警戒していたためである。そのための篝火や松明の類の用意は、火をつける前に不要となった。数は城正面に六百、江馬時盛と対峙するのは千七百。対する江馬時盛軍は千五百であり、数の上だけで言えばほぼ互角と言っても良かった。

 両軍は、政元城から見える場所であり、平地が広がっている、現在の神岡町伏方で激突した。伏方の東側から侵入してくる江馬時盛の軍勢を、待ち受ける姉小路軍、という構図である。ただし、両者には決定的な違いが二つあった、一つは江馬軍は一里半ほどを移動してきていたが、姉小路軍は休止して待ち受けていたこと、もう一つは姉小路軍の軍略であり、これは草太の功績に違いなかった。

 当初、矢合わせもそこそこに激突したが、姉小路軍は槍隊を前面に出し、被害を出さない程度に引きさがりながら江馬時盛軍を引きこんでいった。じりじりと被害を出しながらも前進をする江馬時盛には、もう少しで城兵と連携し挟撃により撃退する図が見えていたはずである。しかし草太が頃はよし、とばかりに合図の火矢を撃たせ、両側面より伏せてあった槍隊各三百が突入したことにより事態は一変した。中央部より左右の後部にそれぞれ一隊の槍隊が突入すると、今まで後退を続けていた正面の槍隊も後退を止め前進、突入を始めた。

 堪らないのは江馬時盛軍である。三方から攻撃を受け、特に側面後部を強かに食い破られている。両部隊の隙間は今はあるが、完全に食い破った後は自軍が挟撃されるのは目に見えていた。

 だが、流石に江馬時盛は一角の勢力を築いた人物である。即座に退却を決め、自身と馬回りのみで脱出した。残された兵も脱出しようとしたが、今や後方で合流した槍隊がそれを阻み、正面からの圧力もかけられ、この日出撃した千五百名の江馬隊は壊滅的打撃を受けた。

 草太は、自分の作戦により勝利した喜びよりもこれだけの血が流れなければならないのかという悲しさを覚えたが、それは一先ず面に出さず、勝ち鬨を上げさせた。

 この顛末を見、勝ち鬨を聞いて、士気が挫けたのであろう、吉村政元は降伏した。降伏の条件は吉村政元の城外退去及び全兵力の武装解除、帰農であり、また渡邊隊がこの後ほとんど籠るものものもいない空城となっていた寺林城を接収し、この日の戦は終わった。


 草太の初陣は、こうして大勝に終わった。


政元城および決戦の場所ですが、GoogleEarthの画像でも貼ろうかと思ったのですが、著作権の問題があるので断念。

政元城は 36°18'2.27"N、137°14'37.74"Eで北東部にある平野が初陣の地です。江馬氏は北東から侵入しました。


9月28日、政元城が坂元城になっていましたので修正しました。

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