三十二、広瀬城始末
広瀬城は、城主広瀬宗城が逃亡し残った城兵が降伏するという形で陥落した。この次第は既に延べた通りである。
このため、不要となった逆茂木は撤去し、空堀は埋め戻す作業が始まっていた。広瀬城は飛騨国府盆地と高山盆地をつなぐ宮川沿いの細い平野部の出口に当たるため、今度は逆茂木をその狭い平野部に配置し直す必要があった。また、数は余りにも余りすぎるため、気になっていた北方、野口城付近にも空堀と逆茂木からなる簡単な陣を追加した。この秋には戦らしい戦は起こらない、そう草太は踏んでいたが、備えは大切である。
一旦接収した広瀬城ではあるが、兵五十名を管理のための留守居役として残し、勘定方二十名が入って合計七十名が籠るだけの城となった。
兵五十名は開墾をしていた部隊から補充を受けて合計百名の部隊に再編しなおされ、細い平野部の中ほどで宮川が大きく曲がっている、その平瀬に陣を張った。主将は今回は後藤帯刀である。ただし、三木氏が本格的に攻撃をかけてきた場合には広瀬城まで後退するよう指示を出した。後藤帯刀が主将なのは、広瀬城の城主も兼ねているためである。さらに既に戦略的な価値を失っているとはいえ後詰としての意味はまだ残っている小島城の管理も後藤帯刀が行うこととされていたため、彼は多忙であった。無論、これらは役料として加増の対象である。
とはいえ姉小路家では、一門衆は基本的に蔵米、つまり知行を与えられてそこからの年貢で行動するのではなく、岡前館などに納められた直轄地の年貢から相応の分を受け取る形を取っていた。このため、一門衆の二人に加増しても、直轄地は増減しない。
論功行賞及びその後の評定についてはまた後ほど語るとして、広瀬城及び旧広瀬領の始末を先に語るとしよう。
「兵八百は全て降伏を許す」と言ったが、解放して良いものか草太はかなり悩んでいた。彼らを待つものは確かに沢山いる。未だ旧広瀬領一郷にいた人々の大部分は、彼らの家族であるためだ。しかし、今解放すると大部分が冬を越す食料が足りないものも多くいる、そう草太は考えていた。
「この地の大庄屋、庄屋衆を全て集めるように」
と触れを出したのは、広瀬城降伏の日の夕方であり、翌正午に広瀬城の広間に集まるよう指示が出された。といって、残っているのは大庄屋を含めて九人しかおらず、そのうちの二人は兵の中にいた辺り、広瀬宗城の支配がどのようなものであったのか、想像に難くなかった。
翌日の正午、草太は平助、弥次郎兵衛、そして田中弥左衛門を伴って、平伏する庄屋たちの前に座った。広瀬城の広間には簾がない。だが、型として弥次郎兵衛が
「一同、面をあげよ、本日は特に大庄屋にのみ直答を許す。他のものは発言したき儀があれば挙手の上、発言の許可を求めるが良い」
と言い、引見が始まった。
「大庄屋の小太郎にございます。これからは姉小路房綱様の支配を受け入れ、忠誠を誓いまする」
型通りの引見である。
ところで、と草太が口を開いた。
「八百名をことごとく里に戻したとして、冬を越せるか。正直に申せ」
大庄屋は腹の中で考えた。百姓同士の口伝えによる情報網はそれなりに正確であり、自分は蕎麦などの雑穀で済ませても移民には白米を買ってでも食べさせるほど善政を敷いていると聞いている。少なくとも苛政を敷いたという話はない。八百名を戻してもらいたいのは山々だが、どうせ戦に取られたのだ、戦場の最前線でもある程度覚悟はできている。
「……正直に申し上げます。おそらく餓死者が出るでしょう」
草太はそう言われるのを見越していた。
「それはいかんな」
大庄屋は、そらきた、と思った。だから解放せずにどこかの戦場に連れていくのであろう。だが、草太の言葉は違っていた。
「蕎麦雑穀の類ではあるが、春までの分は用意しよう。今からなら小麦が間に合うはず。農具は問題なかろうから、早速にも小麦を播くが良い。ただ、運ぶとなると八百名分だ、一仕事だから、八百名は岡前館に来てもらい、そこで受け取って解放、という形とする。異存はあるか」
岡前館からここまでであれば、精々半日である。準備その他があるにしても、精々二三日解放が遅れるだけで済む。
「どこかの戦場には出さないのでございますか」
「どこの戦場にも、出番はない。……ああ、もしそのまま足軽にでもなりたいというのであれば別であるが」
「田中さまが率いるのではありませんか」
「その通りだ。田中弥左衛門は当家へ仕官することとなった。その最初の仕事は、八百名を無事に岡前館に連れてこさせ、所定の食料を渡すことである」
草太は田中弥左衛門に向き「しかと申しつけたぞ」と言った。
田中弥左衛門自身、何も聞かされていなかったが、はは、と了解しながらも心の中で苦笑した。甘い。その八百名を連れて行って、岡前館を襲ったらどうするつもりなのだろう。
「武器の類は城において行ってもらう。槍、胴丸、陣笠の類だ。どうせその辺りはこの城の城付きのものであろうからな」
甘いようでしっかりしている、と田中弥左衛門は認識を改めざるを得なかった。
「既に移民をしたもので戻りたいものは戻す、開墾も同時に行わせる。それから、来年の夏には検地を受け入れてもらう。七公二民一倉の制もだ。もうすぐ冬なので来年からだがな」
結局、八百名のうち七百名がそのまま帰農を希望したので、農地に戻した。残り百名は、元々農地を持たない水呑百姓や継ぐべき畑のない二男、三男の類であり、自分は口減らしのために家を出なければならないという。聞けば元々この百人のほとんどは、城詰の守備兵であった、簡単に言えば、常備している兵が百名ほど増えた計算となる。勘定方は試算をし直しとなるため大変だろうと、他人事のように草太は思った。
これを機に、兵力を大体三つの集団に分けることが平助から提案された。北方を担当する組、南方を担当する組、中央で両方に柔軟に後詰を行う組である。その辺りも含めて、評定を行うこととし、まずは勝利の宴と論功行賞を行わなければならない。
姉小路家日誌によれば長月二十三日(10月25日)、今回の広瀬城陥落の宴及び論功行賞が行われた。
「房綱公、功績第一として渡邊筑前守を賞し給い、黄金一枚の他、綱の一文字の拝領を許し給い、以後、渡邊前綱と名乗りき。次いで第二として太江熊八郎を賞し給い、銀三枚を下され候。また、大評定にてこれからのことについて話され候後、宴を仕り候」
と簡単に書かれたのみである。
ほとんど戦らしい戦もなく、相手が勝手に降伏してきたという扱いなので、論功行賞は非常に簡単なものであった。
加増は、今回は行われなかった。出来るだけ同じ制度で運用したいという希望からであるのと同時に、特に戦らしい戦もなく、手柄と言っても逆茂木隊の指揮運営と降伏仲介以外に賞するべき何物もなかったためである。
加増には大きく二つの方法がある。一つは知行。これは百石なら百石の領地を与え、その領地に対するほとんど全ての日常的な経営を任せる代わりに、その領土に見合った軍役を負担させる制度である。もう一つは蔵米。これは百石ならば百石の米乃至はその同等品を城から支給する方法である。当然、前者は百石のうち税収分しか収入はないから、知行と蔵米が同じ額なら、収入としては蔵米の方が多い。ただし知行の方が自身の土地ということであり、特に地縁を大切にしていた武士にとっては知行は代々伝えることのできる者であり、蔵米の場合には一代限りが多かったことから、長い目で見れば知行の方が得になる、と考えられていたらしい。
この辺りも地域により時代により大分異なるので、どちらが好まれるかは難しい問題である。ただ、家という制度が現在よりもしっかりとしていた江戸時代以前であれば、家禄という形で代々伝えられる知行の方が好まれる傾向にあったようだ。
論功行賞の後は、大評定である。といっても、参加者はいつも通り草太、近臣である平助、弥次郎兵衛、一門衆である後藤、牛丸、渡邊の他、新たに加わった太江熊八郎と田中弥左衛門が居るだけである。最初の議題は、主敵であった広瀬氏を倒して国府盆地を統一した後、どうするか、というものであった。大きく方向としては二つ考えられた。一つは南方、高山盆地へ進む方向、もう一つは東北部の江馬領へ進む方法である。
意見は二つに分かれた。高山盆地を主張したのは、三木氏の息の根を止めることを望む一門衆の後藤、牛丸、渡邊、そして進出に際しての難易度から大江であった。一方の平助、弥次郎兵衛、田中は江馬領を主張した。時が経つにつれ、三木領の力は下がりこちらは上がる。ならば後に回した方が結果としては楽になる、というのがその理由であった。特に田中は、広瀬城攻略が内政によりやせ細っていき戦力が低下してどうにもならなくなって行く様を身近に見ている身である。その意見には聞くべきものがあった。ただし、江馬領を攻略する際に問題となるのは、距離であった。吉村政元の居城政元城はぶり街道を約一日かけて進み、平野部に出た直後にあった。即ち、細く長い陣を組んで進み、その出口に敵の主力が待ち構えるという構図が考えられた。簡単に抜けられると考えるのは楽観的に過ぎた。
議論は紛糾したが、最終的には草太が決めなければならない。だが、そもそもの問題は政元城の存在にある。ここを足がかりに出来れば、江馬領攻撃の方が圧倒的に優れているように思えた。
「少し整理しようか。三木憎しは一先ず置くとして、今戦うべきはどちらか、考えよう。……分かっているだろうが、三木領は時間が経てば経つほど痩せる。我らは時を稼げば勝ち易くなる。逆に江馬領はそういうことはない。時が経てば経つにつれ、防備を固めるだろう。問題は、現在の兵力で打ち破れるかどうか、という点だけに絞ることになる。政元城の付近に足がかりがあれば、おそらくは問題はないのだがな」
「勝てる、ということでしょうか」
一門衆の後藤帯刀が言った。どうも正面からの戦いがなかったため、自軍の実力を測りかねているようである。
「勝敗は兵家の常、何とも言えぬ。が、足がかりがなければ勝ちが難しいのは確かではある」
そう草太は言ったところ、口を開いたのは田中弥左衛門であった。
「政元城の城主、吉村政元は江馬時盛、麻生野直盛兄弟とは不仲だったと聞き及んでおります。調略を試してみるのは如何でしょうか」
ふむ、と言って草太は気が付いた。草太は江馬氏も三木氏も、内情はほとんど知らないに等しい。調略を試みるにしても、何が原因で不仲であるのかが分からなければ話にならない。情報機関、及び防諜機関の創設は急務ではあるが、それができる人材が今の配下では精々弥次郎兵衛だけである。それも、手が回っていなのが現状であるから、どうにもならない。
無論、それを今ここで言いたてても仕方がない。無いものはないのだ。いずれ何らかの手を打たなければならないにしても。
「なぜ不仲なのだ」
草太が聞いたが、分からぬという答えであった。それが分からなければ調略の仕様もない。
「道はどうなっている。ここにはぶり街道が走っていたはずだから、街道は整備されているはずであろう」
これには淀みなく弥次郎兵衛が答えた。
「野口城下を越えると街道筋は右に曲がります。その曲がりから四半時も歩かぬうちに崖下にある村に出、そこから崖を上がる道があります。唯一の難所といえますな。その後は山道を通り、大体二刻で城に付きます。途中に一カ所小さな盆地がありますが、人家はほとんどありません。水がないので畑も出来ぬそうです。ただ、掛け茶屋が何軒かございます」
「今陣触れをすれば、手勢と合わせて千数百は集まりましょう。これで圧力をかけつつ降伏勧告、ではいかがでしょうか」
とは後藤帯刀である。一鍬衆がそろそろ千に届く。広瀬城の降兵百名を加え、北部の守備兵力として置いている小鷹利城に込めている二百名から百五十名程度を抽出すれば、千を少し超える兵で攻撃が可能であろう。問題はそれで落ちるかどうか、である。どのくらいの城兵がいるのかも不明である上、一日という時間は陣触れをすれば充分な兵を集めることのできる時間でもある。背後にいる江馬氏が援軍を出すと考えるべきであろうから、降伏勧告で落ちるとは思えない。むしろ不仲の原因を探り出し、それを餌に寝返らせる方が策としては優れてるように思えた。
次の攻撃対象は江馬氏とし、まずは政元城の防備体制及び江馬兄弟と吉村政元の不仲の原因を探るよう命じ、この日の評定は散会となった。無論、他の江馬領の主要城の兵力なども詳しく探らせるよう指示も出した。




