三十、ある日の草太
草太はその日いつものように日の出前に起きて布団を直し、不寝番を呼んだ。が、不寝番は柱にもたれて熟睡中の態であった。苦笑しながら起こしてやり、このことは黙っておいてやるからと言った後、洗顔と朝餉の用意を言いつけ、自室に戻った。いい加減畳を敷きたいと思いながら、未だに板の間のままである。うすべり一枚が寝る際に布団の下に敷かれるようになっただけ、贅沢になったものだと草太は思った。
朝餉は、蕎麦団子に山菜、それに近在のものが仕留めたという鹿肉が献上されていたので鹿肉の蒸しものが添えられていた。川魚よりは格段に旨いが、それよりも領民からの差し入れで食べられるという感慨が味を良くしているように思えた。何より、領民に慕われている。そう実感できたためである。
朝食後は政務を見るのが習慣である。特に報告もなければ書見であったり、元から遠出しての視察ということであれば朝から視察に出る日もあるが、普段は政務だけで正午が大体過ぎる。平助はこの時間からは常に傍にいる。身の周りの世話をする小物を一人付けてからは、政務の間は座禅、視察の場合には影のように付き従っていた。
この日は報告書を見ながら、特に南北の二敵、特に南方の逆茂木を境に対陣している広瀬城についての報告書を見ながら、今後について考えていた。報告書には、未だ数は不詳なれども兵数は変わらぬものと見え候、ただ三木よりの援軍、援助は之無候、と書かれていた。三木氏配下でありながら、本城から援軍、援助なく逆茂木を境において対峙を続けている。ただ防備を固めているというよりも、隙あらば攻め込もうという意思があるように思った。
もし城に最低限の留守居を残して出撃した場合、逆茂木を警備している部隊百名とその将渡邊には無理せず引くよう命じてある。また、使い番を通じて一刻以内に開墾に加わっている百名が集結し、可能であれば合流する手筈である。また、小島城の守備兵二百名のうち百名は狙いが岡前館の場合には出撃し、側面を突く、狙いが小島城の場合には二百全員が籠城することと決められていた。この小島城に関することは特に変更していないため、おそらく古川富氏を通じて知られているはずである。ただし、富氏の時代とは異なり、炊事の際の薪を五倍使うよう指示してある。遠目に炊煙だけを見ると、五倍の千名が詰めている、そう見えるだろう、というだけの簡単な策である。
そうして、肝心の岡前館には勘定方まで含めても百に満たない数しかいない。半数以上が勘定方である。純粋に兵という意味で考えた場合には、使い番の数名と門番、見回り役の二十名前後しかいない。無論、陣触れ太鼓を合図に開墾に出ている数百名が二刻以内に集まるため、備えがないわけではない。また小鷹利城にも後詰を頼んであるため、問題はないはずである。
南北で歩調を合わせて同時に挟撃をかけてこなければ。
挟撃を受けた場合には、残念ながらどうしようもない。小鷹利城の堅さに期待してまずは南側、広瀬城の兵を制し、その後小鷹利城を攻めている江馬氏の背後を突く、ということにはなっていたが、かなりの綱渡りになるはずである。
戦の際の防御力として考えた場合、岡前館はほぼ何もないと思って間違いない。一応の練塀があるが高さも人の背丈を少し超える程度でしかない。厚さも薄く、本当に平時の政務のために最低限度が整えられただけのものだ。後は一鍬衆と名付けた屯田兵達がどの程度実際に集結するかによる。純粋な開拓移民を除いた一鍬衆は名簿上は既に千五百名を超えていたが、いざ戦となって全員が間に合うとは楽観的にすぎる。半分も間に合えば良いだろう、と考えていた。
この日は新しい報告書、というよりも願い書きが出ていたので、早速下役の引見をした。聞くと、米が足りなくなるという。
秋の取り入れの時期が始まるのは三木領の方が南方にあるため数日早い。早稲を刈り取り、その取り入れた米を持って家族ごと移住してくるものが、岡前館の前に市をなしていた。酷い場合には村ごと移住してきたものもいた。土地を捨てるのには忍びないが、逃散により年貢を納めず新天地を目指す、というのは、ある意味逞しい農民根性である。しかし、既に農民の受け入れは限界に達しつつあった。農地は多いが、無限ではないのだ。
移住してきた者に最初に米の飯を給しており、その責任者であるが、米がもう半月で尽きてしまう。秋の収穫まで時間があるので、既に充分にある蕎麦などに切り替えたいという願い出であった。
「話は分かった。……が、その儀は却下だ。許可しない」
草太は下役に言った。
「私でさえ蕎麦を食べている。それでも移住者に最初の一椀だけは白米を食べさせているのは、彼らが移住者であるからだ。白米を食べ、開墾に精を出してもらうためだ。米を持っていると言っても、それを理由に白米を出さぬわけにもいかない。蕎麦に今更変えても、開墾に精を出してもらえるかもしれないが、何より私が納得しない」
だから、といって勘定方に米を必要なだけ買い入れるようにという指図書をその場でさらさらと書き、こういう指図書も書き慣れたものだと心の中で苦笑しながら、その下役に渡した。
米を食べさせているのは、別段移住者に開墾に精を出してもらうためだけではない。そういう恩を売って、いざ戦という時に備えているだけに過ぎない。食べ物の恨みは恐ろしいのと同時に、食べ物の恩は思い出してもらえると、草太は期待していた。つまり、いざ陣触れという時の雑兵の数や士気にかかわる、と思っていた。何も仏心からではない。
政務が終わると昼餉である。草太が三食食べるのは、現代にいた時分には三食どころか一食でも怪しい時期のあった反動かもしれない。献立は蕎麦がきの汁ものと山菜のお浸しである。
昼餉を食べると視察である。この日の視察は鍛冶場であった。
当初は岡前館内部にあった鍛冶場もその作業量から、移住者を加えつつ規模の拡張を図るため、郊外へと移転していた。一部には館内部にないことを危惧する声もないではなかったが、岡前館まで敵が進軍するようであれば館の内部にあろうが郊外だろうが、さして違いはない。むしろ、真砂(砂鉄)の採集場所が近くなった現在の場所の方が適しているように草太には思えた。
周辺の住民とも上手くやっているようであるため、草太は安心して鍛冶場を平助に任せていた。無論、勘定方とも色々と折衝はしているものと思われるが、そこまでは流石に草太も把握するつもりはない。
「農具は大体備蓄が出来てきたと聞いております故、現在は武具、特に矢と槍、それから胴丸を中心に製作しております」
うむ、順調だな、と草太が言い、それから先に頼んでいた長槍について聞いてみた。
「ご指示にございました長槍、現在の一間から三間に伸ばした槍を試作いたしました。が、長すぎて先がしなり、使い物になりませぬ。また重さも重く、腕力の問題もあるでしょうが、まともには使えないでしょう。特に取り回しが悪くなり申した。現在、取り回しが効きやすいように手元に重心を持ってこれるよう、石突に工夫を致し、またしなりにくいように中茎を伸ばしたものを試作中でございます」
「ふむ。やはり問題があるのか。単純に遠間から突かせる、それも前に逆茂木か空堀を置いて突かせるために、長槍が良いと思ったのだが上手くは行かぬようだな」
「申し訳ございませぬ。今しばらく、お待ちください」
「可能なら柄を取り外して一間位に出来れば尚良い。接近された場合の取り回しではなく、持ち運びの問題だがな」
「分かりました。そちらも研究させていただきます」
やはり、というべきか、意外に、というべきか難しいが、新しい兵器を作る際にはそれなりの時間がかかる。鉄砲が大量に配備されるまでに間に合えばよいのだがな、と思わないでもない。
そして視察が終わると夕餉を食べた。献立はやはり蕎麦団子のみそ焼きに少し早いがなすと鶏肉の味噌田楽である。草太には好き嫌いがなく、というよりも好き嫌いを言える余裕がなかった時代が長かったせいもあるのだろう、なんでも口にした。
また、三食が蕎麦であるのは、単に開墾して最初に播かせ取り入れが最も早かったのが蕎麦であるためである。移住者は食料の支弁を受けるが、その代わりに最初の収穫でその分を返済することとなっていた。ただし支弁するのは米を混ぜた雑穀であるが、返済する時には蕎麦で構わない。同じ目方でありさえすればよいという制度となっていた。
このため、城の食料庫には蕎麦があふれ、草太は三食蕎麦が常食となっていた。だから、先述の下役は蕎麦を入れて良いか尋ねてきたのであろう。
この話は伝わるともなしに庶民に伝わり、特に移民たちは一回は白米を食べ、更に米を混ぜた雑穀を支弁されているのに、御屋形様は蕎麦で我慢なさっておられる、と美談として好意的に解釈され、御屋形様のためなら、と一同奮起しているのであった。
余談であるが、現代で蕎麦といえば、麺類のいわゆる切りそばを指すのが一般的だが、切りそばが一般的になるのは江戸時代中期頃であるといわれている。それまでは団子状の蕎麦団子か塊のまま食する蕎麦がきが一般的である。蕎麦を手繰るのは落語では蛇含草などが有名だが、これらは切りそばを蒸篭で蒸したものであり、これが登場するのは、草太の現在いる戦国の世から100年は待たなければならない。
個人的には、天ぷらそばが食べられないのは寂しいと思うに違いないと思う。
夕餉を食べると弥次郎兵衛達との評定を行う以外、特にやることもない。
座禅を行うこともあるが、大抵は書見である。書は、幸いにして無事に接収できた古川富氏の書物蔵の中から孫子注解と四書五経があったため、それは売らずに読んでいる。だが、孫子注解だけでもなかなか理解が難しい。
そういえば、興仙は最初の内政評定の翌日には挨拶らしい挨拶もなしに出立して行った。本当に何をしに来たのか、山師の仲介をするのも、了解を貰ったに等しいわいと言って仲介の場にすら来なかった。紹介状を全兵衛が持っていなかったら、それとは分からなかっただろう。いい加減なのか、それが彼らの常識なのか、忙しいのか、今一つつかみどころの分からない老僧である。
同じ老僧でも、顕誓は毎日、辻立ちの日々である。寺を建立するのは後回し、と宣言した通り、岡前館の一室に寝泊まりして館前に集っている民衆に対して説法をしている。ありがたいことだと遠くからわざわざ聞きに来るものもいるらしい。
確かに敵に回すと厄介になる、というのが弥次郎兵衛、平助をはじめとした家臣団の一致した見解であった。
そうして、書見に疲れるころには午の下刻から亥の上刻(午後九時から十時)となるため、床を延べさせて就寝である。平助もこの時に去り、次の間に不寝番が残るだけになる。
一人になった後、床の位置を変えて眠りに付いた。
活動報告にも書きましたが、飛騨統一までの間は毎日0時に更新します。
推敲が甘くなる可能性もありますが、その場合はご指摘ください。




