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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第一章 少年立志編
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三、草太 拾われる

 草太が小次郎の船に拾われた直後に、時間は少し遡る。

「童、名前は」

 高橋草太、と答えると、小次郎が、む、という顔になった。名字を持つということは、それなりの地位があることを意味しているからだ。

「でも、そのうちに姉小路になるって言っていた。生まれたころは明智だった」

 そうか、と小次郎が言い、何か欲しいものがあるか、と聞くと草太はのどが渇いている、空腹だと伝えた。小次郎は手下に命じ、干飯と水、それにさっき釣ったという魚をなめろうにして出すように命じた。魚の種類は、草太にはまるで分からない。岐阜県北部は山の中だ。川魚ならまだしも海の魚はスーパーでもあまり並んではいない。まして捌いてある魚である。刺身を食べる機会すらそれまで覚えている限り一度もなかった草太には、それが何の魚なのかという以前に、どうやって食べて良いのかも良く分からなかった。

 干飯は炊飯器にこびりついた干からびたご飯に見え、のどが渇いていたこともありそれを口に入れたいとは思わなかった。なめろうはインスタント味噌汁の素を丸めたようにしか見えず、やはり口にしたいとは思えなかった。ただ水だけを飲んだ。

「なんじゃ、童、食わんのか」

 小次郎が声をかけた。食べ方が分からないと伝えると

「食ったことがないのか。……海も初めてか。それなら仕方がないのう、教えてやるわい」

 そういうと小次郎は、干飯を水に入れた。しばらくすると干飯が水を吸い、粒の残った粥のような芯のある米飯へと変化した。これになめろうを合わせて食べるのだという。

「ふむ、良い出来じゃ。さ、食ってみろ」

 小次郎が干飯を水で戻した米飯を椀によそい、なめろうを上にのせて草太に渡した。現代であればなめろうの海鮮丼というところだろうか。草太は一言礼を述べて受け取ると、その椀によそった飯を食べた。

「ま、あり合わせで悪いがの。陸に帰ったら、また色々あるから、今はそれで我慢じゃ」

 小次郎はそう言いながら草太を観察していた。食べ方は知らないのであろうが、箸の使い方、一口ずつ食べる食べ方、時折崩れるのは揺れるから仕方がないにしろ、正座し背筋を伸ばしている様を見て、確かにどこかの有力者かそれに連なるものであろうと考えていた。実際、これらは住職のしつけであり、母親が教えたわけでは全くなかったのだが、そういった事情はこの際関係がない。

 また、肌の色が両腕は黒いにしろ腹や背中は白いことも見て取っていた。つまり、少なくとも普段は胴着は着ている証拠である。襟元に当たる部分の髪は剃った跡が見受けられ、また母親がいい加減に切り揃えただけのいわゆるおかっぱ頭も、この時代であれば乱れてはいるが禿である。この点からも、やはり丁重に扱うべき存在、少なくともぞんざいに扱う訳にはいかないと思われた。

「で、どこから来たのだ」

 草太は住所をまずは答えたが、小次郎には通じない。何しろまだ岐阜城が稲葉山城の時代である。しかも、美濃でさえ自体が現代の感覚で言えば中南米かアフリカ位の遠方である。岐阜県などと言って通じるわけがない。そこで、草太は自分の家からの道筋を順を追って話した。

「車で高速に乗って南下し、インターで左に行けば名古屋というところを右に曲がりました。しばらく進むと琵琶湖が右に見えたので、西に進んでいると思いました。またしばらくして、瀬戸大橋を渡って高知まで進み、そこで船に乗りました。その後、バナナボート、あの黄色いものに乗せられて海に取り残されて、あなた方に拾われました」

 とても子供とは思えない言葉遣いである。一人かと聞けば母と一緒だったという。

「母は、船で去りました」

 去った、というのは草太の本心である。おそらく無事に家に帰れたとしても、自分を邪魔者としか思っていないに違いない母は、受け入れないだろう。いや、表面上だけは受け入れるかもしれない。

 草太は日数は船に乗るまで車中泊で一泊二日とも伝えた。供回りも聞かれたが、母の「友人」と母と草太の三人だけだと返事をした。小次郎は下人がいないのは妙だとも思ったが、逃げ落ちる最中か下人を数に数えない習慣でもあるのかと思い、それ以上はきかなかった。

 現代であれば、飛騨の山奥から高知市まで車中泊で一泊二日であれば、特に寄り道もしなければ問題がない旅程だが、戦国末期であれば一泊二日での移動距離はどんなに条件が良くて昼夜兼行でも精々150km~200km程度である。岐阜と大阪の距離が150km弱であることを考えると、一泊二日ではどう考えても飛騨の山奥から土佐(現代の高知県)まで移動したと考えるのは、小次郎には絶対に出来なかった。小次郎の住む土佐幡多郡からであれば、一泊二日では畿内へたどり着くのも難しい。潮に流されたにせよ、現在の高知市に重なる浦戸から船に乗ったと考えるのは、小次郎には出来なかった。なにより、車に乗ったという。ただ車といえば、この時代では牛車である場合がほとんどである。それに乗るのは公家かそれに連なるものしかいない。この点も小次郎に対して草太を丁重に扱わせる要因となった。

 小次郎は草太に土佐国幡多にある湊に戻るまで休んでいるように伝えると、手下に付舟を一艘、早舟として戻らせてこの一件について先触れさせ、長を含む船持ちを集めて協議の場を設けるように伝えさせた。この一件は、小次郎にはどう考えても手も余る、そう考えたためだ。

 一方の草太である。食べた。そしてのどの渇きも潤った。船がどうも教科書などに乗っている古い時代のものに見えたのは、漁船とはそういうものかと思うことで納得した。食事が奇妙だったりするのも、海ではそういうものなのだろうと思った。そんなことよりも、丸一日以上バナナボートにしがみついていたために疲労が激しく、食事と水分補給、それに当面の安全から、そして一人になったところで草太を睡魔が襲い、横になって大の字になって眠った。

 そっと物陰から見ていた小次郎は、一人になってすぐに大の字で眠るという行為に、草太は肝が太いと評価した。


 船が陸に着くと、手下に草太を賀茂神社へ送り、船をあげて小次郎は長の屋敷へ向かった。

 草太は連れられるままに神社へ向かい、神社の宮司に「粗略に扱わぬようにと言付かっております」と言うのを他人事のように聞き、宮司に連れられて一室に案内された。

 その部屋は四畳半の畳の間で、床の間には掛け軸が掛けてあった。水墨画であり、深い山と茂る木々が描かれており、杜甫の春望の最初の二句、「国破山河在 城春草木深」が書かれていた。何とはなしにその二句を口に出すと、宮司が丁度入ってくるところであった。宮司は、文字が読めること、それも漢詩を読めることを知り、教養の深さに驚いた。前髪のある、つまり元服前でありながら、教育が行き届いているものだと感心したものだ。

 まずは着替えを、ということで、下人に真新しい下帯と着物、角帯を部屋に用意させた。流石に下帯は人がいては着替え難かろう、と宮司が一旦外へ出て、草太が着替え終わるのを待って、白湯を出すように下人に伝え、自身は草太の前に座った。草太が床の間の画を正座して見ていたため、草太は宮司が入ってくると自然と宮司に向かって座りなおした。つまり床の間を背にしたので、自然と上座に座ることになった。

 賀茂神社は古社とはいえ格式はさして高くない。その宮司である自分も、それほど格式が高いとは言えない上、草太は客である。上座はある意味当然である。とはいうものの、宮司がいるのに上座に座り続けるというのは、慣れていなければそれなりに居心地の悪さがあるのが普通である。それを一瞬たりとも上座を譲ろうとするというような動作もなく、自然に上座に座り続けているのである。これが、全く何も知らない小僧であればそういうこともあるだろうが、きちんとした正座をし、漢詩を解するだけの教養をもっているのである。

 宮司は草太が上座に自然と座るのを見て、やはり貴種の出である、それも相当な貴種の出であると感じた。


 草太は、宮司と話をする以前から、この世界が自分が住んでいたはずの現代ではないことに気がついていた。例えば電柱も電線もない。電灯もない。窓もガラス窓ではなく障子である。どう考えても現代日本では考えられない。彼の知識から、杜甫の詩が書かれた掛け軸から早くても平安末期、遅くとも江戸のどこかの時代であろうと想像していた。同時に、SFものでもあるまいし、単なる夢かとも思ったが、夢であるとして破れかぶれで適当なことをして現実であれば非常にまずいことになるものの、現実であると考えて行動して夢であったとなれば全く問題がないこと、船の中で食べたなめろうが初めて食べる味であったことから、現実にタイムトラベルを体験していると受け入れることにした。

 問題は、今が何年か、である。西暦で聞いたとしても通じないだろうし、この時代の元号で言われても草太にはそれが西暦何年に当たるのかが分からない。なので、こう聞いてみた。

「宮司、今、土佐のこの辺りはどのような状況ですか」

 明治維新以降であれば、土佐ではなく高知県という答えが返ってくるだろう。小次郎が土佐と言ったからには、明治維新からそれほど時期が離れていないと想像できる。江戸時代であれば山内・土佐藩の話が帰ってくるはずである。それ以前であれば、長宗我部か一条か、更に前なら朝廷の代官辺りの話が聞けるはずだ。宮司は答えた。

「この辺りは一条様の荘園でございます。先代の阿波権守房基様がお隠れになり、今は兼定様が家督を継いでおります。関白となられた房通様が後見として政務を行っておりますが、関白殿下は忙しい身でございますので、実際のところとしては土居様が土佐の取りまとめを行っております」

 草太のあずかり知らぬところであるが、この年は1549年である。桶狭間の戦いの10年程前といった方が分かりやすいかもしれない。余談になるが、織田信長へ濃姫が嫁し、フランシスコザビエルが薩摩に上陸を果たしたのとほぼ同時代である。実は房通は既に関白を辞しているが、宮司にまでそのことは伝わっていなかったが、そのことは特に重要ではない。

 重要なことは、一条兼定という名である。この名は草太の記憶にあった。たしか織田信長と同時期の土佐の君主で、長宗我部元親に滅ぼされる運命にある人物である。もっとも、その長宗我部も江戸時代には山内家が藩主であることからも分かるように、すぐに滅ぼされる運命にあるわけだが。

 いずれにせよ、大体の時代は分かった。今は戦国時代。室町時代が終わり安土桃山時代が到来する時期である。詳しい時代も勢力分布は分からないにしろ、それだけは分かった。

「私がこの地に参りましたのも何かの縁があってのことでしょう。よろしくお願いいたします」

 草太はそう言って頭を下げた。


 宮司と草太は、この後しばらく話をした。まずは草太の身の上の話だが、草太が少し警戒したこともあって住職のこと以外は基本的に伏せた。住職はこの時代でも僧は僧だから問題はないが、それ以外となると問題が大きかろうという判断からだ。無論、宮司はその辺りは分からないが、一寺を預かる住職が自ら教えたという事実だけでも、先ほどまで見せた教養が付け焼刃ではない本物であるように思われた。

 家族についてはかなりぼかしたが、宮司には、どうやらその生母は最初は明智某に嫁していたが死別したか離縁したかで実家に戻り、実家が高橋を名乗る家柄なのだろう、その後に姉小路の誰かに嫁すことが決まりかけたところで何らかの事情があって逃げ出した、という辺りだろうという推測をした。

 長から村の方針で土居様に相談することが決まったと伝えられていたので、聞き書きについては書状にひとまずまとめ、一通を一足先に土居様に、もう一通を村長のところに届けさせた。

 まとめの最後に、一行だけ宮司の意見を添えた。

「差し支えなければ、当神社にて預かり、後々の宮司に育てたく候」

 もっともこの一行は無視された格好になったが、相応の説明が宮司にはされたことだろう。

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