二百七十九、終戦斡旋
上野上村城の降伏開城の次第については既に述べた。
目を三河遠江一帯に見回せば、既に織田信長率いる尾張織田家本隊が知多、渥美半島を占領し別動隊である織田信清率いる一隊が幡豆郡一帯を吉良家と共に占拠しており、一方の今川家も渥美半島からの出口を抑える形で今川義元率いる今川家本隊が二連木城に陣取り、また鵜殿長時を中心として山家三方衆を中心とした奥三河勢力を糾合して宝飯郡の支配を確保する形に出ていた。
ここに再興された勢力として三河松平家が岡崎を中心とした西三河一帯に地歩を固める構えを見せていたが、両家の争いを止められるほどの力を持つには遠く及ばなかった。
これらの次第についても既に述べた。
姉小路家日誌弘治二年卯月八日(1556年5月16日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、戦長引き民疲れたる様を見て哀れに思召され、また真福寺に上様よりの使者無人斎道有殿参りたるを以て、即ち公、松平元康様、今川義元様、織田信長と真福寺にて会談なされ候。(略)後に織田信長、今川義元様と意見合わず、物別れになりたるとぞ」
この真福寺会談自体は、他の記録によれば卯月十四日前後に行われたとみるのが一般的である。陣中のことは開始日などに纏めて書かれる傾向のある姉小路家日誌にはこの種のことは少なくない。
さて、大名を巻き込んだ三河一向一揆の終焉はこの真福寺会談によって名目上は終結したとされるのが一般的である。勿論、実際にはこのあとも尾張織田家の扇動による一揆は散発的に起こり、また三河一向一揆とは呼ばれないものの尾張織田家と今川家の戦いに松平家も巻き込まれていたため、三河に平穏が戻るのはまだまだ先である。
ところでこの際に足利将軍家からの使者は無人斎道有、即ち甲斐武田家前当主、甲斐前守護武田信虎であったと記録にある。この時の使者一行は美濃稲葉山より東美濃の恵那から平谷を経て三河入りをしたとされるが、大部分を姉小路領を通る辺り足利将軍家と姉小路家との関係が良好であったことがうかがえる。
もっとも当時の街道事情からは、もしかするとこの経路は現実的な選択肢であったのかもしれない。
上野上村城の開城、降伏が伝えられてから一夜明けた弘治二年卯月三日(1556年5月10日)、草太は常のように日の出と共に目覚め、軽く体をほぐすと空を見た。雲が低く雨が降り出しそうであった。戦は数日はない見込みであったが上野上村城を受け取る必要がある関係上、晴れていた方が望ましいのは確かであった。高低差のほとんどないために目を上げれば容易に見て取れる上野上村城はさほどに大きな城ではなく、無論草太がかつて見た天守閣などは築かれていない。単なる行政上うの拠点の意味合いが強い建物が多くを占め、防衛拠点としては土を塗りこんだ塀と四方に巡らせた空堀、そしていくつかの櫓だけと見えた。守るには良い城ではない、と思いながらも草太は、上野上村城の矢作川を望んだ形といい、周辺に対する交通の便の良さといい、確かに一つの城の形であろうと思われた。
「お目覚めでございますか」
声を掛けてきたのは、刈谷城付近の陣から戻った竹中重元であった。上野上村城降伏の後必然的に起こると見込まれる松平家との交渉のためには既に一度交渉に当たったことのある竹中重元を当てるのが望ましいため、急遽呼び寄せたものであった。
「急ぎ呼び寄せて済まぬ。呼び寄せた用は察しておろうが上野上村城の処遇のことだ。城を受け取った後、速やかに松平家と交渉に入りたい。方針としては和睦、上野上村城は引き渡す、城将は松平家の判断に任せるが死罪に当てるならば当家で引き取る、この位か。交渉内容はまだ変更の余地もある。後程軍議の場にて詳細は詰めよう」
方針と言いながらも、交渉内容の大部分について既に結論を出している草太の言に心中苦笑しながらも、竹中重元は亡き斎藤道三のやり様もこうであったとふと思い出した。それにしては肝心のことを聞いていない、と竹中重元は質問を返した。
「上野上村城の降伏条件はいかなるものでございますか」
「上野上村城は開城降伏、城兵は一部を除き解散、松平家の直参は帰参が叶うように口添えする、希望があれば当家への受け容れも考慮する、この四条件だ」
草太が答えると、ならば今後の策を得るためにこの戦の着地点を考えましょうと竹中重元は自分の陣幕へと下がった。
一刻後、軍議が行われた。草太の右手に弥次郎兵衛、吉田右衛門、左手に竹中重元、竹中重治が座り、佐治為次と並んで入り口そばの下座に後藤重弘も列席を許されていた。軍議開始前に弥次郎兵衛は軍議は初めてである後藤重弘に、姉小路家の軍議の様、特に軍議の席上は席の上下はあれども上下なしで発言が許され、結論を草太、又は主将が決めるというやり方について教えていた。軍学校でも教えられているはずではあるが、一応の親心であった。
諸将が席に付くと軍議が始められた。
「上野上村城の降伏は、そこにいる後藤重弘、吉田右衛門の両名の尽力により成った。ここにいる皆をはじめ兵卒の一人ひとりに至るまで力を合わせた結果である。この姉小路房綱、改めて礼を言おう。……さて、今後の事だ。すでに情勢は皆聞き及んでいるだろうが、佐治為次、確認のために報告を」
はは、と佐治為次が報告をすると竹中重元が念のためと尋ねた。
「碧海郡は、水野家が織田家に付いている程度であり、大部分は松平家の支配に服する、そう考えてもよいのか」
「表向きは左様にございます。この度の蜂起で上野上村城に入った国人衆は大部分が矢作川の西岸に本貫地を持つものにて、松平元康殿の赦しにより再び松平家に帰参するか、赦されなくとも所領を横領することにより松平家の支配下に入ると考えられます。矢作川東岸下流、特に幡豆郡に本貫地を持つ者たちは吉良家に合力するか尾張織田家の陣に身を投じるか、いずれにせよ織田家に接近し松平家には帰参しないものが多いと考えるべきでございましょう」
左様にございますか、という竹中重元に続けて竹中重治が発言した。
「ときに上様からの使者が下向しているはず。どなたが下り今はいずこにいらっしゃるか、いつ頃三河入りなさるか、お分かりになりますか」
これに応えたのは弥次郎兵衛であった。
「既に先触れは我らの元へと参り、松平元康殿の岡崎城、今川義元殿の二連木城に織田信長殿の陣へとついている様子。ご使者は無人斎道有殿が仕っており既に平谷へと入っている様子。平谷での饗応に小笠原長時殿が指名され一昨日宴が催された。武田晴信殿のしたことをしきりに謝られたと、小笠原長時殿の報告が上がっておるところにて。停戦の目途が立ち次第いつでも三河入りする、と連絡が」
草太が微笑みながら引き取って言った。
「甲斐の虎もやはり息子のことは心配と見える、戦国の習い、仕方がないにせよ怨みを買った相手には極力断りを入れ、心証を良くしようとしているようだな。こちらに付いた信濃国人衆とも会っているようだが、こちらが饗応しているのか饗応されているのか、なかなか難しいな」
さて、と草太は一息を入れてから本題に入った。
「情勢は説明の通りだ。農繁期の戦故の民の困窮も目に余るものがある、上野上村城を受けた後の我らの行動について、策を述べよ」
軍議が始まったが暫しの沈黙が座を支配し、冒頭に口を開くかと見えた竹中重元も竹中重治も口を閉ざしたままであった。それぞれに腹案はあろうとは思ったが、草太は彼らに口を開かせるよりも後藤重弘の考えはいかにと視線を移していた。第三期とはいえ軍学校の卒業間近という事もあり、それなりの教育の跡を見たい、そういう気持ちからであった。視線が自身に集まっているのを察したのか、後藤重弘が口を開いた。
「拙く策とはいえませんが、今後とるべき方策について述べさせて頂きます。まずは捻った策略は不要、というよりも害になると考えた方がよろしかろうと思われます。というのも、この尾張から駿河までの地を近々平らげる野望があるのであれば別でございますが、彼らの間に和睦をなし民を安んじさせることがまずは目標にございましょう、それならば誠の一字を以て纏め上げる他はないように存じます」
こう言った後藤重弘に、草太はほうとばかりに片眉を上げた。正に草太の考え通りであったためであった。
「難しいのは尾張織田家を納得させ、三河松平家、駿河今川家の両家も頷く形をとることにございます。この落し所がなかなかに厄介でございます。
尾張織田家は、おそらくは碧海、幡豆郡に加えて渥美までを支配行きに組み込むことを要求するものと思われます。碧海郡は現在織田家の支配下にはありませんが松平家との合戦は優勢、幡豆郡、渥美半島は支配しているものの今川家とはほとんど一戦もしておらず、今川家が退くとは思えません。さりとて織田家に引けといって引くものでもなさそうでございます」
ここで言葉を切った後藤重弘に、弥次郎兵衛は先を促すように言った。
「後藤重弘、そなたならば落し所はどこにと考える」
「ここで決めるような話ではなく当事者に話をさせるべきかと。とりあえずは三河松平家、ここと話をして会談の場所を用意すべきかと存じます。おそらくは竹中重治殿の考えも幕府からの使者である無人斎道有殿を仲介に立てる、という以上に無人斎道有殿に裁定を持っていくという辺りではございませんか」
竹中重治が一つ頷いたのを見て後藤重弘は続けた。
「おそらくは碧海郡は三河松平家へ、幡豆は吉良家が支配して織田家の支配領域に、渥美は織田家に任せる形になすのが良いかと存じます」
竹中重元が、そうさな、と一つ言って吉田右衛門へ水を向けた。
「左様でございますな。渥美以外は現実的であろうかと。ただ、渥美は今川家が引きますまい。最低でも攻め取られた田原城の返還を求めると思われます。代わりの利を見せなければ、早晩また戦に及ぶことでございましょう。早期に解決するには、力を背景にしてでも尾張織田家を渥美半島から引かせるのが一番かと。幸いにして一軍が刈谷城付近に布陣しております。織田家は幡豆、今川家は渥美、松平家は独立とそれぞれに得るものがあるかと。……いかがでございましょうか」
「落し所は悪くないがな」
弥次郎兵衛が言った。
「武力を背景にすれば、更に力をつけて乗り越えようとするのが人の常だ。仮初にも納得させなければ、和睦を結んでも長くは持つまい。……竹中重元殿、そろそろそなたの、いやおそらくは竹中重治殿との合作であろうが、策を述べてはどうかな」
左様でございますな、と竹中重治へ促した。
「我らの影響力なしに和睦が結ばれ今後も守られるという見込みもなければ、まず考えるべきは他国の領土以前に考えるべきは我らの影響力を残すことにございます。力を背景にするのは良くない、とは申しますが、力なくして理想を語っては纏まるものも纏まらぬように思われます。三河松平家への肩入れもあるべきには思いますが、三河守護職へと進むことを考えあわせればほどほどにすべき、これは今川家も同じでございましょう。更に織田家の伸長を許すのも無制限に許すことは難しく、今回得た領域はある程度放棄させるべきかと。
この方策を実行するための策として、まずは山家三方衆へと渡りをつけてございます。上の郷城の鵜殿長時殿へ合力してはおりますが三家合わせてもその数は千に満たぬようでございますから今川家との付き合いで出している面が大きく、鈴木重直、小原直重の伝手による接触の感触はかなり良好と見られてございます。
更に尾張織田家の力の伸びを抑える手として領土を放棄させるには、こちらから言ったとて代替地もなければ容易には首を縦に振らぬでしょうし、幡豆近辺の吉良家の影響力の強い地域は織田家に、渡さざるを得ないでしょう。従って渥美を放棄させることになります。大湊の利権を渡すという話があったかと存じますが、これを放棄するならば渥美の領有を認める、さもなければ大湊の利権の話はなかったことに、という程度でいかがでございましょうや」
うむ、と草太は一つ頷いたのを見て弥次郎兵衛が付け加えた。
「概ねそれで良いという事であれば、山家三方衆を平谷の開発に参加させて下さい。我らへの見返りとしては奥三河の山々での全兵衛の採掘を認めて頂けるように願います」
「全兵衛の活動については山家三方衆次第だが平谷の開発に一枚噛ませ、脇道として足助から設楽へと向かう街道を作らせよ。……いや、こちらの手で作ろう。穴太衆へと声を掛けて技術を見せよ。そうだな、川並衆に仲介を頼み尾張から人を抜かせて当たらせれば戦をする人手に事欠くようにもなろうか」
その方向で、と草太が締めくくろうとしたところで弥次郎兵衛が言った。
「三河松平家、駿河今川家はおそらくは矛を収めるでしょうが、問題は尾張織田家が渥美を手放さなかった場合にございます。その場合に渥美を認めるならば田原城と二連木城の間に火種がくすぶり続けることになろうかと。さりとて更にこちらが譲歩するのであれば織田家は要求を大きくするものと思われます。さりとて我らには大湊以外には交渉材料がございませんが……」
弥次郎兵衛の言葉を遮るように竹中重治が言った。
「お言葉を遮るようでございますが、大湊の水運の利は大きく、それ故にその心配は杞憂に終わろうかと考えてございます。それ以上に田原城への兵の配備をはじめとして渥美を保持するための費えも大きく、また田原城付近は元々は戸田家の本貫、戸田家以外を入れることも簡単ではなかろう。となれば今後の損得を考えれば自身の直轄になる大湊の利権を手放す手はなかろうと考えます。
今後の織田家の拡大は、幡豆郡と尾張で三河松平家を挟撃する形になっているため、西三河にこそ力を注ぐはず。渥美への力の分散は織田家にとって悪手であろうかと」
大事なことは損得では動かない、草太は頭の中でそのことを思いながらも、竹中重治の発言に一理あるといわざるを得ず、軍議を終えた。
上野上村城の受け取りの時刻が近付いていた。




