二百七十六、岡崎城強襲(二)
朝比奈泰能の読み違えと織田信広の偽兵の計により密かに米津を出発することに成功した織田信広隊は一路岡崎城を目指し、そのことに気付いた朝比奈泰能は朝比奈泰朝の進言により兵を分け岡崎城へ急派した次第、そして織田信広隊前衛の浅井長政隊が幡豆郡掌握に出てきた松平兵を蹴散らかし、本多忠勝が岡崎城到達以前に迎え撃つこととなった次第については既に述べた。
三河物語の中にこうある。
「松平元康殿、兵を西三河に散らし、織田信広方先手浅井長政、急進して岡崎へ迫りしを、本多忠勝兵を率いて迎え撃ち、(略)織田信広大木戸へ迫りたるも、朝比奈泰朝殿、早くも三鹿の渡しを渡り、(略)織田信広、戦は手仕舞いと称して南東をさして兵を纏め落ち延び(略)」
三河物語を元に作られた名場面として有名なのは、若き本多忠勝が槍をしごいて奮戦し、白面の若武者浅井長政も石割兼光の太刀を抜き、赤雨海の三将と共に戦うも、力及ばず本多忠勝は浅井長政を討たんとする。ここへ海北綱親が飛び出て庇い、これによって海北綱親は討死するも退き太鼓の合図により引き分ける、という一場面であるが、実際には、例えば既に雨を示す海北綱親は死亡しているため、明らかに後世の創作である。
ただ、松平家誌によればこの時独力で打ち破った直後に朝比奈泰能隊が到着したことになっているが、この後の論功行賞で他国の将ながらも朝比奈泰能が筆頭とされたことから考えれば、おそらくは三河物語の方が正しかったのではと思われる。特に自国については、都合の良い様に書くのが一般的でもあるため、その分を割り引いて考える必要からも、今川家の兵が間に合ったという方が事実に近いのであろう。
弥生晦日の申の下刻、松平元康は岡崎城の物見櫓の上に立っていた。岡崎城の物見櫓の上に立てば、眼下に岡崎の城下町、東海道の街道筋に矢作川、遠目には西に安城城を望むことが出来、はるか南には本證寺の寺町をも望むことが出来た。東は彼方に至るまで乙川沿いに平野が広がり、村々が点在していた。北に目を転じれば既に信濃へ通ずる山々は闇へ沈みつつあり、だが多数の兵でもあるのであろう、既に篝火の明かりが遠くに見えていた。松平元康は幼少の頃に離れた後は岡崎城に入ることすら少なく、その明かりがどの辺りか分からなかった。これが駿河か遠江ならば分かるのだがな、と心の中で苦笑しながらも、ほとんどの村々から炊煙の上がっていないのは、戦のせいばかりではないと気がついていた。民を食わせてこその戦、とは北条の風であると松平元康は聞いていたが、確かに食もない民を雑兵として集めたとしても戦にはなり難く、かえって一揆を誘発する元となりかねなかった。
戦が止めば、と密かに心に期するものがありつつも、とにかくは今は戦のことを、と松平元康は出陣し眼下を行軍中の本多忠勝隊を眺めていた。流石に全て本多家の手勢であり、良く統率されていると見え隊列の乱れもなく行軍していると見えた。
物見の報告によれば南に織田方の兵が見えるはずであったが、川沿いであり平地であるといっても途中に多少の起伏あり草木あり村々あり、遠くの兵の動きを見ることは容易なことではなかった。特に日も陰った時刻であれば猶更であった。
同じ頃、本多忠勝は既に浅井長政隊の大まかな位置を掴んでいた。これは南へ送った兵が浅井長政隊に散らされた残りが本多忠勝隊に報告したものを総合したものから推察したものであった。無論、本多忠勝隊の誰も浅井長政という名さえ知らなかったが、兵の規模と位置が分かれば攻撃には障りはなかった。
「確定したものではない故、使い番はまだ良い。他に本隊が居るはず。それも探せ。避難してきた民からの聞き取りも急がせよ」
は、と郎党が下がると本多忠勝は、決戦のための陣を布くべく指図を始めた。陣、といってもさほど難しいことは、本多家でも出来なかった。ただ前進突撃と後退退却とが出来るだけであり、その他には集結の合図以外は定められてさえいなかった。
食事、睡眠、戦闘準備などは基本的には各部隊の判断にゆだねられていたこともあり、合戦に勝利する為には、戦場についてから合戦が始まるまでに行う布陣が重要であると、本多忠勝は教えられていた。この他、戦場に着くまでに整えるべき士気、兵の数、兵の勢い、合戦が始まってから重視すべき各部隊が突入する機を外さぬ事など、外してはならぬ点はいくつもあった。
本多忠勝自身ここまでの兵を率いる大将は初めてであり、それも絶対に負けられない戦とあれば、否が応にも気力を尽くすべく一層の気を引き締めた。
一方の浅井長政も既に本多忠勝の布陣を認識していた。相隔たること一里と少し。敵兵二千数百。起伏のためか距離のためか直接にはまだ見えなかったが、まもなく見えるものと思われた。三河在所で陣借りをしに来た地侍に問うと、本多家、それも本家筋であるという返事が返ってきた。
「陣の端まですべてが一つ領主の親族寄子、とあれば連携がとれているとみて行動致しましょう」
久しぶりの合戦に血が滾っているのか、赤尾清綱の顔は心なしか紅潮しているようであった。
「ふむ、敵方は兵を三つに分け、左右に広げてございますな。……はて、誘いでございましょうか、我らの突破を防ぐにはいささか左右が薄い様に見えます。我らが着くまでに増やすつもりか、それともあれで我らを鶴翼に包み込むつもりでございましょう。いずれにせよ、敵方の大将は采配の握りも甘い小僧と見えます。兵数の差は埋めやすいかと」
どういうことだ、と浅井長政が尋ねると代わって雨森弥兵衛が答えた。
「若、兵は進むか停まるか退くか、いずれかしかできぬとお考え下さい。特に多くの兵は、戦いを続けるか逃げ散るかしかございませぬ。古書には鶴翼をはじめとする様々な陣が紹介され、作戦として偽退却から反転攻勢なども書かれておりますが、ごく一部の精兵、それも心利きたる直属の精兵だけの話にございます。
聞けば本多家は西三河でも上位の家柄。とはいえかの浅井家でも精兵といえば五千に届かず、まして西三河半国の国人でしかない本多家が二千を超える精兵を抱えることはできますまい。多くは領民を集めたか、銭で雇ったものでございましょう。いずれにせよ複雑なことなどできず、脅威となるのは中央の陣のみでございますな。……我らの兵にございますか。織田家の兵は精兵でございますが、我らの手足のごとく使うには我らとの信頼関係が足らぬかと。かような場合の陣は簡単明快な陣形、単縦陣に限ります」
陣をすすめながらも主の教育は怠らない雨森弥兵衛であった。浅井長政は早速に単縦陣を命じ、一列三段の単縦陣が組まれた。
第一陣は遠藤直隆に引き続き兵四百を率いて務め先駆けとし、第二陣は浅井長政が赤井清綱、雨森弥兵衛を従えて兵九百を率いてこの第二陣が主力の陣であった。第三陣は片桐直貞が兵三百を預かり後方警戒を担当とした。
第一陣、第二陣はは全て織田家の兵とし、陣借りの地侍は全て第三陣に含めた。これは
「どうせ陣借り連中は出たければ勝手に前線に出ます。嫌ならば勝手に下がります。ならば最初は下げておき、出てこぬものと当てにせずに戦を組み立て、出てきたらそれはそれで賞す、という程度でよろしいかと」
との雨森弥兵衛の言に従ったものであった。
「ところで弥兵衛、将がとれるのは限られたことしかできぬとあれば、古来よりの名将と凡将を分けるのは、一体何だ」
浅井長政は、書物の名将と凡将の違いとは別に、より実戦に即したの形での名将と凡将を分ける、その条件を雨森弥兵衛が何だと考えているか、知りたいと思った。
「事前の準備が八割、勇気が一割、寸毫の判断が一割。武運は名将も凡将も変わりませぬ」
ならばこれから出来ることは、と重ねて問うと、雨森弥兵衛はこう答えた。
「小細工以上は陣頭に姿を見せることが最上。それ以外は某らもご助言差し上げることも出来ますが、お姿のみは若ご自身の勇気一つの問題にございます」
分かった、と浅井長政は、遠目にも目につく白地の鎧姿を前線に見せることを明言してから尋ねた。父浅井久政は名将であったか、と。
「……久政様にございますか。先代様が立ち上げた浅井家の足元を固めるために戦にはあまり積極的ではございませんでしたが、最後に姉小路に敗北するまでは大きく敗北することもございませんでした。大きな謀反もなく一揆もなく、姉小路と戦わねばならぬとなった以外は外交においても大きな失敗もなく、名将とは評されぬでしょうが、決して平凡な方であったとは申しませぬ」
浅井長政は雨森弥兵衛が父浅井久政を持ち上げているのを聞きながら、複雑な気持ちであった。
一刻後、陽は西に、矢作川のはるか向こうへと沈まんとしていた。岡崎城から南へ半里、巴川を渡った先にある平野部が本多忠勝が選んだ戦場であった。周辺は岡崎の街周辺の家屋もなく、田畑も少ない荒れ地であった。地味が悪いわけでもなかったが、とにかく戦や調練で使われがちな場所であり、そのために開墾してもすぐに荒れてしまうのが常であった。この平地に、彼我の距離五町で本多忠勝隊と浅井長政隊は対峙していた。本多忠勝は左右にそれぞれ五百の兵を配し、中央に千五百からなる本隊をやや下げておく鶴翼の陣をとり、対する浅井長政隊は遠藤直隆隊四百を先頭に三つの陣を縦に連ねた単縦陣であった。本多忠勝は勝利を信じて敵の動きを待ち、浅井長政は進軍を命じた。
遠藤直隆は最前線を進みながら、大声で兵を鼓舞していた。
「者共、一番槍は我らぞ。当然一番手柄、大物を狙おうではないか。となれば本陣を突くのみ。左右は放っておけ。なに、本陣は強いだと。奥に引っ込んでいる相手だ、強いわけがあるまい。一度かき回せばそれで大手柄ぞ」
槍を手に、ひときわ目立つ旗指物を背に、まっすぐ逸れずに本陣を目指す姿に、多くの兵が後ろに従った。遠藤直隆は流石に豪の者である、百万の言葉よりも迷わず突き進む姿勢の方が、場合によってははるかに配下を動かすことを、よく理解していた。そして目測で距離一町を切ったところで遠藤直隆は号令をかけた。
「鉄砲隊前へ。……撃ぇ」
五十と少数であり小筒であったが、平野に轟音が鳴り響いた。遠藤直隆は鉄砲発射後、鉄砲隊を下がらせ槍をかざして大音声に命令を下した。
「突撃ィ。ただ駆けよ、突撃じゃ」
三百五十の兵は一塊となり、本多忠勝の本陣へと突入していった。そして黄昏時にも明らかな白い鎧を身に纏い、本隊でただ一人鹿毛の馬に乗った浅井長政が本隊九百を引き連れ、これも一塊の兵となり遠藤直隆隊の後へと続いていった。
遠藤直隆の考え通り鉄砲隊の銃声により本多忠勝隊が浮足立っていたところへの強襲であり突撃を仕掛け、前線を割り敵陣へとなだれ込んだ後も遠藤直隆隊の足軽はそこかしこで敵と対峙し、日頃鍛えていたためかひいき目かは分からないが遠藤直隆の目には個々の兵の勝率はまず六割強と見えた。本来であれば傷口を広げ本隊の突入する突破口を確保するのが先陣たる遠藤直隆隊の役割であったが、それが出来なかったのは、誰あろう本多忠勝自身が馬廻り郎党百五十を率いて最前線まで駆け上ってきたためであった。
さすがに馬廻り衆は強く、たちまちに最前線を割った頃に優勢に進んでいた勢いは薄れていき、互角程度へ、そして負傷兵が後送されていくたびに兵の層が薄くなり味方の不利の天秤がますます傾いていった。だが、また一人の武士を突き倒し首を取るのも郎党に任せて次へと進み、前進して何人かの雑兵を槍の柄で叩き落として次の武士へと進みながらも遠藤直隆は、すぐ後ろに迫った本隊、浅井長政の白い鎧に横目を走らせながら、不利を全く感じていなかった。
そして最前列に空いた穴にねじ込むように浅井長政隊が突入した。浅井長政隊は突撃後も本多忠勝隊を突破、蹂躙すべく隊列を乱さずに前進の足を緩めずにいた。これが功を奏したのか、本多忠勝隊の中核である馬廻り郎党衆を率いていた本多忠勝も支えきれぬと判断したのか周囲の兵にこの場を任せ、一旦後ろへ下がって再編成の構えを見せた。確かに両翼の兵各五百が押しつぶすように包囲の構えをこの時に取ることが出来れば、浅井長政も相応の対応が必要とされるはずであった。
しかし、現実には簡単に動こうとしても両翼の兵も動けるはずもなく、周辺の兵も主将が後方へ下がるのに取り残されるという事態にはやはり士気が下がるものがあった。
「敵は逃げに入ったぞ。突き崩すは今ぞ」
浅井長政が薙刀を振り上げて叫び、馬をすすめながら檄を飛ばした。この様子を見て数名の騎馬武者が浅井長政へ取って返し打ちかかろうとしたが、全て袖がらみなどで馬から引きずりおろされ、押し包まれるように首を討たれていった。
この状況に至っては、もう戦機の天秤は取り返しのつかぬところにまで傾いていた。それでもやはり三河侍である、押されながらも頑固に戦い、じりじりと戦線は後退し両翼は既に介入の機を失いながらも、それでも崩壊だけはまだしていなかった。
日が落ちて辺りが闇へと沈むころ、漸く衝突は止んだ。浅井長政は多数の首級を獲て勝鬨をあげ、本多忠勝は後方に大きく下がって巴川沿いの河川敷にて兵を纏めていた。本多忠勝も織田信広隊の接近を考えればこのまま岡崎城へと戻るべき、とばかりに兵を引いたが、勝った浅井長政も進軍の疲労と合戦の消耗から追撃する余裕はなかった。




