二百六十七、三河一向一揆
三河松平家の独立を求めた岡崎城での挙兵は酒井忠尚を筆頭とする離反者を出し、尾張織田家が離反者を、駿河今川家と姉小路家が三河松平家を支援する構図が確定した次第については既に述べた。
姉小路家日誌弘治二年弥生二十八日(1556年5月7日)の項にこうある。
「姉小路房綱公足助に入り候。平野右衛門尉殿に下知して曰く、ただ攻めよと。即ち平野右衛門尉出でて南の方上野上村城を囲み、矢作川を渡らんとする一向一揆衆を討ち候。公、後に松平元康殿に曰く、一揆を離れればただの民也、これを許すべし、根切りすべからず、と(略)」
三河一向一揆は合戦の期間自体は非常に短く、松平元康の挙兵から尾張織田家の撤兵までであればひと月に満たない期間しかない。しかし三河松平家が三河一向一揆を最終的に鎮圧し西三河の大部分を支配するまで三月程、国人衆の仕置も終わり三河支配が確定するまでは半年近い期間がかかったのである。とはいえ最初の半月ほどで大勢自体は確定しており、残りの期間は一向宗の石山本願寺から加賀派へと改宗させるなど、ほとんど血の流れない期間である。
通常であればこの三河一向一揆は、短期間で終わった家督相続や家の再興時によくあるお家騒動の類として、さして珍しくもなく注目もされないものであろうが、尾張織田家、駿河今川家、姉小路家、そして石山本願寺が関与し、更に足利将軍家の裁定により終息したという点が歴史の中に埋没しなかった理由であろう。
少し時間は遡る。
京を発った草太が観音寺城に戻ったのは弥生十九日の夜のことであった。随行の兵は後程ゆるゆると戻すこととし、草太はわずかな供回りと共に馬を走らせ観音寺城に戻った草太は、しかし観音寺城に腰を落ち着ける暇はなかった。
「騎馬隊のみの編成ですぐに出る。何名が出ることが出来る」
出迎えた弥次郎兵衛に開口一番こういった草太は、相当に急いでいるように見えた。弥次郎兵衛は流石に動じず返答した。
「出陣でございますか。どこまで参ります」
「三河だ。尾張を通らず東美濃から平谷の陣へ参る」
ならば輸送計画に多少の見直しは必要だが出撃には輜重隊の支度は不要、とみた弥次郎兵衛は言った。
「一刻程で五百、明日の朝までいただければ千二三百は揃うかと存じます」
観音寺城に詰めている兵のうち騎馬隊は二千五百程であったが、そのうち八百程度が交代で非番、残りの半数以上は領内巡察、訓練など様々な所用で常時観音寺城にいるわけではなく、また夜の事であるため不寝番の者以外は城下に帰っているためであった。夜のうちに城下に帰っているもの、周辺に出ているもののうち比較的近くにいるものをかき集めればそれなりの数はすぐに集めることが出来た。
「急ぐ故五百で良い」
出陣が触れられ俄かに城内が活気づいた。兵が集められ武具を確かめ甲冑替馬の類が用意された。最近では小笠原流の騎射の法を取り入る試みがされ観音寺城で吉田重政が、通常の弓兵を育てる傍らその指導に当たっていた。この五百の騎馬隊はその騎射の法を修めた者達であったため、矢をはじめとする弓具の用意も必要であった。
草太は奥に入ることもなく、評定の間に武将衆を集め報告を受けた。その間にも出陣の支度が整えられていった。後藤帯刀が言った。
「御屋形様、これだけはお教えください。平野右衛門尉、竹中重治以下の二万に近い兵が危ういとも思えませぬ。なぜ急ぎ御屋形様自身が出馬されるのでございますか」
「尾張織田家を抑えるためだ。……一度織田信長殿にな、三河への進出を許すとも取れることを言ったことがある。それを翻すことになるのだ。力で抑えるのは容易い。が、おそらくは儂がいかねば禍根が残りすぎる。尾張と三河が戦い続けることになろうし、一朝あれば織田家が尾張から美濃、伊勢へも兵を出すだろう。そうなるならば厄介過ぎる。織田家の面目を立てるためには、やはり儂自身が行く必要があろう」
「もしもの際は尾張を圧迫する、ということで宜しいでしょうか」
後藤帯刀の言に、草太は否として言った。
「尾張織田家の兵と戦う、という意味であれば不可だ。向こうが境を越えるまでは事を構えることも許さぬ。織田家は今や尾張守護、戦のない世を作るため、足利幕府再興のためにはそうする以外にはあるまい」
この言葉を大多数の武将衆は建前と取った。後方で手を挙げた磯野員昌が発言を求めた。
「御屋形様、当家は二つの神輿を担いでいるように思います。ですが本音をお教え願いたい。どちらの神輿が本当でございますか」
無論、足利将軍家と朝廷の諍いがある場合にはどちらに付くのか、どちらを優先するのかという問題であったが、草太は笑って答えなかった。代わって弥次郎兵衛が答えた。
「姉小路家は民の味方だ。朝廷と幕府が諍いを起こせば民が苦しむ。民が苦しまぬよう諍いを起こさせぬが道であろう。そも、姉小路家は公家であり幕府より役職を任されている。いずれかがより大切、などあるはずもなかろう」
磯野員昌はそれ以上追求しなかった。
一刻の後、出陣の支度が終わった。付き従う武将衆としてこの夜城に詰めていた吉田右衛門、藤堂虎高、市川大三郎の三人が召され、更に弥次郎兵衛まで甲冑を着て草太に並んだ。
「尾張織田家との交渉とあれば某も並びましょう」
こう言われては草太も拒否すべくもなかった。
観音寺城を出た一行は佐和山、大垣を経て稲葉山城に入り草太が斎藤義龍と話をした。稲葉山城に寄ったのは尾張の情勢次第によっては美濃へも飛び火しかねなかったことを伝えるためであった。
稲葉山城から出立後、更に東美濃恵那を経て平沢の宿、そして足助の宿へ入り、更に進んで平野右衛門尉の陣へ入ったのは弥生二十七日夕であった。大部分で街道が整備され補給拠点が作られているとはいえ一日平均八里近い距離を移動してもまだ余裕があるのを見て、やはり騎馬隊の機動力は優秀であると思えた。それでも補給拠点によっては五百でも飼葉が厳しい場所もあり、これが二千であれば補給のための隊を引き連れる必要が出てきて速度が落ちる原因にもなるか、とも考えていた。
竹中重元は弥生二十六日、足助の陣にて事情を説明し、翌二十七日、平野右衛門尉は陣を足助街道を下り矢作川に出る道を取ることとした。足助街道は三州街道の一部ではあったが度重なる戦乱により補修も行き届いておらず、また通行人の多くが荷を背負った行商人であるため、五里の道のりであるにもかかわらず丸一日を移動時間として見ていた。巴川と矢作川の合流部付近に仮陣屋を築き、まずは物見を東西へと多数放ち、また松平家との連携を取るべく竹中重元の家臣喜多村直吉を岡崎城に派遣した。
移動を開始した直後に草太の参陣を告げる先触れが到着し、平野右衛門尉は少し考えたがそのまま陣を移させた。草太が到着したのは寅の刻であり、忝生の峰に日が落ち掛かるのを見ながら平野右衛門尉と共に仮陣屋へ移った。
草太が仮陣屋に移動した二十七日夜、軍議が開かれていた。現状を、という草太の命に竹中重元が答えた。
「現時点で判明している桜井松平家の松平家次を担いで松平家から離反した主だったものは、まずは酒井忠尚の酒井家、吉良義昭、荒川義広の吉良家、内藤清長の内藤家、本多正重、本多正信ら本多家連枝の各家、石川康正の石川家でございます。ただ他にも小領の者で参加する者あり、石川家も松平元康殿側近の石川数正は不参加など、家中で割れている家も多くございます。詳細は難しいかと」
うむ、と草太が頷いたのを見て竹中重元は続けた。
「織田家は刈谷城を出た後安城城に向かうと予測されておりましたが、予想に反して南へ、海沿いの地域を抑えるように兵を出してございます。この地域は松平家から離反した吉良家の力の強い地域が多く、矢作川を越えて東へ進み松平家庶流の形原松平家松平家が形原城で籠城しているとのことにございます。また別動隊が知多半島の先から船で渥美半島へ渡り田原城が包囲されましてございます」
ここまでのことは草太の想定の中であった。だが次の言葉は想定を超えていた。
「本證寺をはじめとする一向宗がこの動きに合わせて蜂起、既に万余の民が集まっているとのことにございます」
「少し待て。それでは国人衆の兵と合わせて西三河からの農民兵は二万を超えるではないか。……今は田植えの時期も近い。場所によっては始まっておろう。田畑はどうしておる」
弥次郎兵衛が横から口を出したが竹中重元はそのことを調べていないようであった。草太は少し考え、言った。
「戦を急ぐ。まずは弥次郎兵衛、周辺の村々を回り田畑の手当てをし民心を慰撫せよ。そして……」
草太は絵図を示して言った。
「ここで兵を分ける。儂自ら一鍬衆六千、中筒隊二千、騎馬隊五百を伴い矢作川を渡って一里程西、上野上村城を攻める。夜のうちに渡河は終わらせる。竹中重治、吉田右衛門、伴をせよ。平野右衛門尉、一鍬衆七千、中筒隊二千を率い南へ一里の柳川瀬を渡り刈谷城へ向かえ。包囲の必要はない。織田家の本隊と戦う必要もない。ただ姿を見せるだけでよい。それだけで織田信長は矢作川の西岸に本隊を留めよう。市川大三郎、竹中重元、藤堂虎高、平野右衛門尉と共に行け。
それから、鈴木重直殿、ご苦労だが周辺の警備を頼む。荒川市助、平谷を根拠として医療隊及び補給隊を宰領せよ。分かっているだろうが、周辺の民の食が優先だ」
そして軍議は終わった。
同じころ、岡崎城の物見櫓の上で松平元康が朝比奈泰能と話をしていた。
「見えるのに何もできないというのは、歯がゆいものでございますな」
松平元康の視線は西の方を向いていた。陽があれば安城城が見えるはずであるが、夜の事でありはるかにその明かりが見えるだけであった。それ以上にその周辺には松明が城を囲んでいるのが見えた。安城城は既に包囲されているのであった。
「松平元康殿は既に三河の主ともいうべき者、今川家臣の某にそうかしこまるものではございません」
朝比奈泰能が言い、続けた。
「安城城には既に我が息朝比奈泰朝が遠州兵三千を率いて入っており、兵糧も十分。半月やひと月は問題ございますまい。むしろ問題は」
北の方を示して言った。
「安城城を単なる包囲としていくらかの兵を留めるだけとし、矢作川を渡らんとした場合には難しかろうと存じます。一万程度であれば討つのも難しくないとは思いますが、略奪狼藉の上引き上げるとなれば後が苦しくなります故」
「渡るとすれば北へ一里の柳川瀬か」
松平元康が敬語ではないのがやや言い難そうにいうと朝比奈泰能は頷いた。
「おそらくは。織田信長の兵が下流の渡し場を抑えており、そこを通るのは十や二十の使いならばともかく、数千という単位になれば難しいと存じます」
だがこの時、安城城を囲んでいたのは内藤清長率いる足軽隊を主力とする兵五千であり、下間頼照率いる一向一揆勢は安城城から柳川瀬を目指し北へ向かっていることを岡崎城にいる二人は知らなかった。




