二百六十六、続、三河分裂
松平元康が岡崎にて挙兵したが、東西から尾張織田家、駿河今川家の兵が迫っていた。挙兵前は味方と見ていた尾張織田家の真意は尾張織田家による三河の支配であることが判明し、松平元康は姉小路家、駿河今川家と結んで尾張織田家と対抗する策を取り、親織田派である酒井忠尚らは岡崎城を退去した。この次第については既に述べた。
酒井忠尚はこの後、松平元康が挙兵しなかった場合の既定路線通り、織田家の後ろ盾の下松平家次を担ぎ本證寺を通じて一向宗門徒の国人を集めて挙兵した。
今川家の重臣関口親永を輩出した関口家に残る関口文庫の一書にこうある。
「松平元康、織田家の策に乗り兵を挙げて岡崎に籠るも、策を見抜きたるや、父祖の恨みを思い出したるや、今川の袖にすがり候。御屋形様殊の外お慶び(略)瀬名が事進めるべしとぞ(略)」
三河一向一揆は、本證寺がその信仰を盾に国人衆を集めたために一向一揆に分類されることが多い。だが主導権を本證寺空誓が握ったという事実は見当たらない上、実態は松平宗家の相続争いであり織田家と今川家による三河の支配権争いでしかなく一揆の目指したものも「百姓の持ちたる国」ではなかった以上、一向一揆とは共通点も多いが全くの別物だと考えた方が適当だと思われる。この一向一揆において松平元康は、一揆勢が松平家次を担ぎ織田信長もそれを認めたため今川家へ着くことを余儀なくされたとされる。
ところで近年の研究では、巷間で言われるように松平元康とその正室築山殿との間はさして険悪ではなく、少なくとも当初は政略結婚というよりはこの時代に珍しい相思相愛の仲であったとする説が立てられている。関口文庫の中に松平元康が築山殿を妻に迎えたいという旨の文が残されていることや、初陣の恩賞を今川義元に尋ねられた際に築山殿を求めた、という話が根拠として挙げられている。もっとも今川一門ではあるが駿河今川家ではなく、駿河今川家の分流である遠江今川家の分家から当主を養子として受け入れているという、駿河今川家から見て血が薄い部類に入る関口家との縁組によって、今川家一門と縁続きという立場を得ようという策であったとするのが一般的である。血の濃さという意味からいえば、築山殿の母が今川氏親の養女という方が近い。従来の説によれば松平元康が望んだのは関口家との縁組であったものが今川義元が乗り気になり築山殿を養女とすることで松平元康を一門衆として取り込もうとしたとされるが、今川義元の養女となったのは三河一向一揆の後であるため、腰元などに間諜を紛れ込ませるためだったのかもしれない。
因みに松平元康の生母お大の方との盛大な嫁姑争いは有名であり、このために築山殿は岡崎城に入れず岡崎城外の総持寺へ入れられたが、この尼寺で一男一女をもうけたのは面白い事実である。二人の子を松平元康は実子としているが、それが本当であれば松平元康が通い婚をしていたという事になり、想像すると面白い。
もっとも松平元康が築山殿を恋するあまりに今川家に戻った、というのはあまりにもロマンティック過ぎるだろう。
弥生二十五日(1556年5月5日)夜の評定の後、鳥居忠吉はすぐさま出立すべく支度を調えていた。おそらくは酒井忠尚の離反は確実であり、他にも数名の離反が出ることが予測された。同じ三河の者同士で戦とは、と鳥居忠吉は心中が重くなった。そこへ鳥居家の足軽が入ってきた。
「強右衛門、参りました」
鳥居家で渡りの足軽として召し抱えた一人であり、その父は鳥居忠吉が松平清康に仕えた際に集めた渡りの者であったが森山崩れでの敗走の際に死亡し、鳥居忠吉はその一子強右衛門をこれまで扶育していた。評定で起こった事の次第を話した後、言った。
「強右衛門、そなたには東へ使いをしてもらう。まずはこれは東海道を西へ進んでいる今川の本陣に使いをしている天野康景に事の次第を話せ。事の次第の詳細はそこに文を用意したが、これを御屋形様、今川義元様にお渡しするように伝えよ。その後のことは天野康景の指示を受けよ。儂も足助から戻りつつある朝比奈泰能殿に挨拶した後、すぐさま追いかける」
承りましてございます、と強右衛門が下がり城外へ発ったのを確認して、鳥居忠吉は竹中重元を伴って城を出た。鳥居忠吉がまずは向かうべきは足助に向かい、そして帰還しつつあるはずの朝比奈泰能の下であり、竹中重元もその点は心得ていた。他には伴も連れず馬を駆り、夜道ではあったが足助街道をひた走った。
「足助までは七里、急を聞いて兵を返したとすればおそらくは巴川と矢作川の合流点付近で陣を調え、そこより南下することになるかと存じます。それ故、岡崎より北二里半にいるものと思われます」
鳥居忠吉は流石に土地の者であった。街道筋の道幅があまり広くはなく、また起伏もあり整備も行き届いているとはいえないため、今川家の兵は街道に延びた陣形で進まざるを得なかった。岡崎に攻め寄せるとあれば、狭い街道筋から平野部に出る付近で陣を調えるというのは道理であった。姉小路家と戦って足止めされていないのであれば、物見を放っての行軍ではあるだろうが丁度その辺りに兵を出しているものと思われた。
竹中重元は、姉小路家と衝突していないことを祈るような気持ちになった。
馬を飛ばして約半時、亥の上刻に差し掛かろうとする頃に鳥居忠吉と竹中重元は目指す陣を見つけた。陣の周辺には篝火がたかれ不寝番が立ち、流石に物々しいものであった。雑兵も夜襲を警戒してか酒を飲んでいるものも少なく、戦場につきものの遊び女は買われたのか追い払われたのか姿が見えなかった。二人は名乗り出て朝比奈泰能に会おうとしても難しかろうと思案していたが、鳥居忠吉は陣の一角に丸の内花杏葉の幟を見つけ大沢基相が従っている事を知った。
「大沢基相は幸い旧知の仲、あそこへ参りましょうか」
馬を下り手綱を竹中重元に渡した鳥居忠吉は、単身見回りの武者のように何気なく不寝番に一言二言会話してその横を通り過ぎ、陣幕の近くまで迫った。流石に陣幕の近くであれば郎党衆が誰何したが、そこで鳥居忠吉は静かに名を名乗った。
「某は三河国人鳥居忠吉、大沢基相様にお目にかかりたく」
郎党の中に鳥居忠吉の名を知っていたものがあり、当然に騒ぎになった。その騒ぎを聞きつけて奥から大沢基相が出てきた。
「騒がしい。何があった。……と、鳥居忠吉ではないか。どうした」
「朝比奈泰能様に急ぎ話があってきた。取り次いでいただきたい。……なに、内密の話だ」
大沢基相は鳥居忠吉が三河差配の一翼を担っていたものと知っており、それが単身訪れたとあれば話は重要な話であると理解したが、心当たりはなかった。ありえぬと思いながらも口に出してみた。
「内応か」
「もっと重大だ。詳しくは朝比奈泰能様の前で話すが、殿が今川に戻る、姉小路家とも戦わずに済む、そういう話だ」
そう言って鳥居忠吉は合図をした。暗がりから竹中重元が現れた。
亥の下刻というのに本陣には明かりが灯され諸将が詰め、正面の床几に朝比奈泰能が座を占めていた。その前には鳥居忠吉、竹中重元が座っていた。岡崎の話をしていたのは鳥居忠吉であった。
「……岡崎の情勢については以上でございます。我が殿松平元康は今川家との関係修復、そして今川家、姉小路家と共に尾張織田家の三河からの排除を望んでおります」
諸将は騒然となった。朝比奈泰朝は、今更虫のいい話、と一笑に付そうとしていたが、と朝比奈泰能は考えこんでた。この決定は重大すぎ、朝比奈泰能が決めるべき問題ではないためであった。
「一つ聞くが、竹中重元殿、姉小路家はどう動く。……建前は良い。松平家は独立のために挙兵し、今更なかったことには出来ぬ。であれば姉小路家はそれを支援する。だが今川家も松平家と関係を修復し織田家と戦うのであれば姉小路家は我らとは戦わぬ。この理解で良いか」
その通りでございます、と竹中重元が言うと朝比奈泰能は続けて言った。
「ならば今ここで決めきれぬのであればどうなる。返事には最低でも御屋形様のご裁可がいる。時がかかる」
「とりあえずは停戦、という線ではいかがでございますか」
よかろう、と朝比奈泰能が答えたが、朝比奈泰朝はその意味するところを察して驚いた。
「父上、まさか松平家の独立を認めるという事でございますか」
「内密にしていたがもうよかろう、元よりそのつもりだ。遅いか早いかの違いはあるが、御屋形様とはその話が出来ておる。もっとも松平元康に器がなければ取りやめることにはなっていたがな。ただし国人たちが松平家の陪臣となるか当家の直臣のままかの処遇はまた別の話だ」
そして今川家の本隊へは鳥居忠吉が使い番と共に走り、竹中重元は足助に入った姉小路家の陣へと向かった。
二人が陣を出た後、朝比奈泰能は朝比奈泰朝を呼び出した。
「そなた、芝居がうまくなったな」
分かりましたか、と朝比奈泰朝が頭をかいた。
「まず、よい。そなたもあの話は薄々知っておっただろう。そうでなくともこの件は難しい。私曲にしろ松平家復興にしろ、一つ間違えば三河は、少なくとも西三河は一斉に蜂起する。鎮圧は可能にせよ相当に厄介な問題となるだろうよ」
それにな、と朝比奈泰能は続けた。
「あのまま行けば後ろに姉小路家、前には松平家、矢作川を渡れば織田家と周囲を囲まれ、更に兵糧も心細い。こうなればどうにもならぬ。御屋形様の本隊が着くまで凌ぐにしろ相当の被害は覚悟せねばならぬ。御屋形様のご裁可がどうであれ、当面の危機は去った。尾張織田家や今回離反した国人衆はいずれ叩かねばならぬ相手、姉小路家や松平家を気にせず対峙できるのであれば上々」
翌夕、今川義元の本陣に到着した鳥居忠吉は、今川義元自らの接見を受けた。陣幕の中で正面に座った今川義元は上機嫌で言った。
「書状は見た。かくのごとき忠臣あれば、松平元康も国元に戻ってよかろう。細かい点は後のこととして、申し出の件、差し許す」
つまりは三河松平家の再興が認められたという事であり、鳥居忠吉は涙をこぼしながらただ平伏するしかなかった。
「実を申すとな、三河へ帰すのはもっと先のことと思って居った。……本当はもう少し手許に置いて育てたかったのだがの、公方様からの仲裁とあれば良い潮であろう。三河は松平家、駿河、遠江は当家の支配と確認できたわ。そうさな、松平元康にも正式に三河守護を賜るよう工作しておこうか」
瀬名のこともあるからの、と今川義元は笑って付け加え、ふと思いついたように尋ねた。
「そういえば昨夜半、陣中に駆け込んできた強右衛門とかいう足軽はそなたの家中の者か。……渡りの者か。ああ、良い。特に大事はない。役目を果たすべく少々頑張りすぎただけよ」
聞けば岡崎を発った後九里の道を駆け抜けて、書状以外は褌に脇差を差したのみという姿になって傷だらけになって陣に駆け込み、不寝番の足軽が静止するのも聞かずに奥へ、天野康景へと書状を届けようと騒ぎを起こしたとのことであった。渡りの者であれば猶更その君命に忠という姿を今川義元が聞き、功となった。
強右衛門はこの功績で鳥居姓を与えられ鳥居強右衛門となり、後の事であるが縁あって奥平家に仕えることとなった。




