二百六十二、杣路峠
朝比奈泰能率いる遠州兵が足助に向かい、岡崎城に残った松平元康が家臣団の説得により立つことを決断した次第については既に述べた。
姉小路家日誌弘治二年弥生二十日(1556年5月5日)の項にこうある。
「平谷に平野右衛門尉殿着陣致し候。そまじ峠へ陣を進め武節城を攻略致し候。松平元康殿岡崎にて立ち候。朝比奈泰能、足助に陣を張り籠城の構えと見候(略)」
この頃、長島城を包囲、攻略を終えた平野右衛門尉とその手勢が美濃岩村より平谷へ入ったのは事実である。ただ、この岩村から平谷への街道整備が完了するのは一年以上先の事であり、街道自体は存在したにせよ姉小路家の物資輸送の大動脈としてはやはり妻籠、阿智を経て三州街道を通る道筋であったとされる。
ところでこの時期から姉小路家日誌の記述に文章がおかしかったり時系列が正しくない部分が散見される。これは、一説には現存していない報告書の引き写しであるとも、記録がないために聞き書きを行ったともいわれているが、定かではない。ただ、高屋平助日記のように纏まった文書によるものではないという点はある程度一致した見方である。
弥生十八日朝、足助城の鈴木重直は頭を抱えていた。その原因は平谷に迫った姉小路軍ではなく、その眼下に見える軍勢であった。
「小原直重、どうだ」
どうだ、といわれただけであったが、小原直重は流石に鈴木重直とは長い付き合いであり良き主従であった。その意味は言わなくとも分かっていた。
「は、やはり厳しいかと。元々平谷の姉小路軍に対する為の兵、という名目で千五百は集めましたがこれ以上は我らでは混乱のもとにございました。そのため兵糧も千五百の兵を基準にして集めておりましたが、未だ半年分に過ぎませぬ。せめて秋を迎えておればもう少し楽ではあったと思いますが、それを言っても詮無き事。問題は」
眼下の兵を見て溜息を吐きながら言った。
「到着しつつある朝比奈泰能様の遠州兵が一万五千おりその兵糧はこちら持ち、という点にございます」
千五百の兵の半年分の兵糧であっても一万五千の兵が消費すればひと月分にもならないのは、鈴木重直にもわかっていたことであった。そのことを聞かされたのは十六日の夕であった。朝比奈泰能は遠江から岡崎までのゆるゆるとした動きとは大きく変えて、強行軍に近い速度で足助城に向けて三州街道を走らせた。だが強行軍に近い速度、ということは何かを切り捨てなければならなかった。
つまり、小荷駄隊を切り捨てたのであった。
その代償は兵糧のない軍であったが、兵糧がなければ奪うのが常識であった。単に奪う対象が、今回は三河国人衆である足助鈴木家の兵糧蔵であった、というだけの違いしか朝比奈泰能には認識がなかった。
「それで、田峰の菅沼定広殿は」
頼みの綱のように鈴木重直が言った。田峰菅沼家は近隣の設楽郡を所領とする山家三方衆の筆頭であり鈴木重直がこれほどの兵を養うほどの兵糧を借りるとすれば、他には岡崎城に頼み込む以外には当てはなかった。勿論、岡崎城に借りるのは、今川家の遠州兵のために今川家から兵糧を借りる、という事となるため、絶対に避けたかった。だが小原直重は首を振った。
「今のところは何も。これほどの兵のための兵糧となれば、田峰でも難しいのではないかと。念のために酒井家、水野家、大久保家、本多家にも使者を送りましたが、こちらも何も」
松平清康が横死したいわゆる守山崩れの後、鈴木家は松平家から半ば独立した立場をとっていたことがここでは裏目に出たといえるだろうが、それを言っても始まらなかった。どうにもならぬ、と朝比奈泰能と話をして至急姉小路軍と速戦で決着を付けさせるべく覚悟を決め、小原直重に指図を出した。
同じ日、平谷の宿に美濃からの兵が入ってきた。平野右衛門尉率いる一鍬衆五千、中筒隊二千、輜重隊及び医療隊千五百であり、松平元康の三河独立の援軍であった。その夕、静かな口論が陣幕では繰り広げられていた。
「何度も言っているように、私が伊那谷から率いてきたのですから、伊那谷から平谷へ入った軍勢の指揮は私が執るべきです」
竹中重治は何度言っても主張を曲げるどころか、頑として同じことを繰り返すだけで妥協を探る気さえみえなかった。平野右衛門尉は困った顔で言った。
「そのようなことを言っても、指揮系統を分けるのは得策ではない。これは自明だろう」
姉小路家でのこれまでの戦歴を考えれば竹中重治は、自分の口から平野右衛門尉に、自分の配下になれ、などという事は出来なかった。竹中重治には自分自身に対して絶対の自信があるために自ら折れるということも出来なかった。着地点を自ら見失った形で、竹中重治は議論を紛糾させているだけだと自分でも気が付いていたが、どうにも出来なかった。
平野右衛門尉は悩んでいた。ただ自分の立場に固執するだけで、竹中重治も平野右衛門尉の指揮下に入ることが良策であると理解しているとは、薄々感じ取っていた。おそらくは竹中重治の自尊心、これが邪魔をしているのだろうと思われたが、それをさらりと脇に置くには竹中重治は経験が足りなかった。なんとはなしに渡辺前綱の苦労がしのばれる気がしていた。
何度目かの不毛な押し問答をしながらも、もしこの場を何とか切り抜けたとしても今後意見の対立が起こるたびにこの調子、とあれば戦にも成らないのは明らかであった。平野右衛門尉が自ら退くことは簡単であった。或いは単身陣を抜けることも簡単なことであった。だがその場合にはこの平谷の宿にいる姉小路軍一万七千、後方部隊まで合わせれば二万に近い軍勢は三河で壊滅的な被害を受ける可能性が高かった。三河がもし成功裏におわったとしても、増長した竹中重治のままであればその危険はますます膨れ上がり、致命的な状況でその被害が起こるであろうとは容易に想像が出来た。どう考えても平野右衛門尉は退くわけにはいかなかった。
申の刻を告げる鐘が聞こえたころ、陣の中に俄かに騒ぎが起こった。
「竹中重元様が陪臣喜多村直吉、三河岡崎より到着いたしましてございます」
通せ、と短く言うと喜多村直吉が入ってきた。土地の農民の態を装ったらしい服装であったため、何かの潜入工作をしていたものと平野右衛門尉は見て取った。
「喜多村直吉、報告に上がりました」
と言った喜多村直吉であったが、主将の座るべき座が空いており喜多村直吉、平野右衛門尉が向かい合わせで座っているのを見て悟るところがあった。
「……平野右衛門尉殿、遠慮はせずに主将の座にお座り願えますか。采配もその手に握るべきでございます。若の機嫌など、取る必要はございますまい」
若と言われて竹中重治は赤くなったが、相手は父竹中重元の腹心喜多村直吉である、何も言えなかった。喜多村直吉は続けた。
「大方、先についていたことを盾に自分が兵を率いる、平野右衛門尉殿を配下扱いするつもりだったのでしょうが……若は策に長けておりますが未だ器が付いてきておりませぬ。あとでよく躾けておきます故、ご容赦をお願いいたします。それはそうと……」
喜多村直吉が竹中重治を抑えるという事であれば、平野右衛門尉はそれ以上は何も言う事はなかった。ただ黙って席を改めた。
喜多村直吉の報告は、良い報告と悪い報告が一つずつあった。まず良い報告は松平元康が決断を下した、ということであった。三河の民の暮らしぶりは相当に酷いと言わざるを得ず、松平家の手に三河が戻れば民にとっては良いことであろうと思われた。無論、そのためにはこれからの独立支援は失敗できなかった。だが国人衆の大部分は松平元康につく、という通りであれば、尾張織田家の支援があり姉小路家の支援もあれば、それほど難しいことではなく、むしろ織田信長という男が三河をどうするつもりか、そちらの方に気を配る必要があるだろうと思われた。
それで悪い報せは、と平野右衛門尉が促すと喜多村直吉は言った。
「朝比奈泰能の率いてきた兵一万五千、足助へと展開してございます」
少し早い、と思いながらも平野右衛門尉が尋ねた。
「それで、何が問題だ」
「強行軍ゆえなのか、小荷駄隊の気配がありませぬ。おそらくは足助の兵糧を当てにしているかと」
喜多村直吉の返事に竹中重治が言った。
「足助城は近頃兵糧を集めているのは知っておりましたが、それほどの兵糧だとは……」
そんなにはございません、と喜多村直吉が言うと平野右衛門尉が眉をひそめた。
「速戦、はないな。平谷の宿まで足助からは十里余、この後は織田家との戦いもある、被害を恐れずに戦うことは出来ぬ故、簡単に攻め入ることは難しかろう。一方で兵糧が尽きたからと簡単に帰るのも難しかろう。となれば……」
竹中重治がその先を言った。
「しばらくは足助で略奪して食を繋ぐ、という辺りでございますか」
おそらくは、と喜多村直吉が言った。
どうする、という策はしかし、容易ではなかった。今川家の軍勢が簡単に平谷の宿へ攻め込めないのと同じように、姉小路軍も簡単に足助へと攻め込むのは難しかった。だが相手の動きを待つ、という戦略では足助は略奪にあい多くの民が苦しめられるのは明らかであった。
「少しでも前進してはいかがでしょうか」
と言って平野右衛門尉に喜多村直吉は絵図を指した。
「ここ杣路峠は平谷と足助の丁度中間地点にある峠であり、その先に武節城という城がございます。この城まで朝比奈泰能が手を伸ばす前に出る、という手はいかがでございますか」
その地点は既に三河、足助鈴木家の所領の内であった。攻めるのは松平家が立ってからという方針を破ることになるため、平野右衛門尉も考えこまざるを得なかった。
少しの沈黙を破ったのは、竹中重治であった。意地が平野右衛門尉に対しての態度をとらせていたが、今は頭が冷えているようであった。あるいは竹中重治が主将であれば、という意見が頭を持ち上げたのかも知れなかった。
「ここは攻める一手でございましょう。まずは松平元康殿の決断があったことが一つ。武節城付近までは小さな集落が幾つかある程度で国境を侵してもさほどに問題にはなりにくいことが一つ。何よりこのままでは足助の民が干上がるのみならず三州街道が封鎖されることによる物資の遅滞は、伊那谷をはじめとした信濃の民にも大きな影響が起こりかねません。更に言えば武節城にはさほどの兵は詰めておらず、さして大きな兵力は必要ございませぬ。その間に杣路峠とも防備体制を固めれば」
「そうだな、攻めるとするか。……あまり人目には付きたくない。明日酉の下刻に陣立ちをし夜襲をかける。竹中重治、先陣を。伊那谷より率いてきた兵のうち一鍬衆五千、中筒隊千五百で武節城を攻撃せよ。喜多村直吉、一鍬衆二千、中筒隊五百を率いて杣路峠に布陣し後詰をせよ。」
平野右衛門尉は決断をすると早かった。竹中重治は前もって平谷の宿に陣をはり十分な物見を行うなど抜かりなく調査が済んでいた。そのため夜襲をかけるとしてもさしたる問題はなかった。
弥生二十日早朝より武節城への攻撃が開始されたが城兵は門番程度しかおらず、攻め寄せる前に武節城は開城した。聞けば昨夜のうちに最低限の兵糧を除き物資も根こそぎ運んでいった、とのことであった。この報告に竹中重治は、既にそこまで足助城の物資は逼迫しているのかと驚き、実情を調べるべく細作を放った。




