二百五十八、北畠具教の仕官
伊勢討伐を終えた草太が観音寺城に戻った次第については既に述べた。草太は少しの休養の後上洛し朝廷に参内、将軍足利義輝に拝謁すべく常宿である双林寺に宿を取った。
姉小路家日誌弘治二年弥生十五日(1556年4月24日)の項にこうある。
「姉小路房綱公上洛し伊勢征伐の報告をいたし候。将軍足利義輝公大いに喜び(略)北畠具教を伊勢志摩守護職に任じ候が守護代は姉小路家が任ずることといたし候。姉小路房綱公、長野泰治様を伊勢志摩守護代に任じ、長野藤定殿同又守護代に任じられ候」
姉小路家日誌の下敷きとなった高屋平助日記では北畠具教が足利将軍家に仕官する際、顔を隠し名もなき兵法者として吉岡憲法と立ち合い、その腕を見ての仕官となった旨の記述があるが、姉小路家日誌では削られている。もっとも、この草太の上洛と前後して北畠具教が幕臣となったのは他の資料からも間違いのないことのようである。
この記述は、実は重大な点を含んでいる。それ足利町幕府自身が守護職と実際の支配を名実ともに切り離した、という点である。実際問題として守護職と実際の支配が切り離されていることはこの時代では当然のことであったが、守護職であるということはその国を支配権がある、少なくともそれを名分に攻め込むことが出来る程度にはを主張できていたが、足利幕府自身が両者を切り分けたことでいわゆる武家官位のように守護職も名分だけに過ぎない存在となっていき、足利幕府自身の力が削がれる一因となっていくのである。
もっとも足利幕府が武家勢力の頂点から転落した原因という点から見るとこの名実の分離はあまり関係がない。象徴的な意味でも足利幕府が武家勢力の頂点であったのは領土問題の裁判権を名目上とはいえ持っていたためであるが、これが失われたのが原因とするのが一般的である。
上洛した草太が姉小路家の常宿、双林寺についたのは弥生十四日夜のことであった。草太は夕餉を取るのもそこそこに京都留守居役小笠原信定、北面の武士隊長阿閉貞征、田中与四郎の三人を一室に呼んだ。一通りの挨拶の後、草太は最近の京のことを尋ねた。
「御屋形様、朗報が一つと気になる噂が一つございます」
そう言って小笠原信定が切り出した。
「朗報は、かねてより某に申し付けられていた新貨幣鋳造の件、根回しも済み認可が進んでおります。九条稙通様も近頃は三好家の摂津、播磨、讃岐の国人衆の固めに奔走しております故、こちらの方の妨害も少のうございます。問題は足利将軍家でございますが、将軍足利義輝様、細川藤孝殿をはじめ重臣もかなりの割合でこちらに好意的でございます。伊勢貞孝殿も貨幣鋳造に一枚噛みたいという気持ちはあるようでございますが、勅許を受ければ許さざるを得ない、というところまで軟化しております。比叡山、興福寺、高野山などにも当たっては見ましたが、特に問題はない様でございます。反対というよりも懸念しているのは……」
小笠原信定が目で促すと田中与四郎が続けた。
「懸念しているのは我々商人でございます。どの程度の割合で発行されるのか、また永楽通宝一本に戻るような混乱に陥らないかどうか、そして異国に持ち出しても通用するかどうか、この辺りでございます。……既に行っている永楽通宝の密造、あれだけでは足りませんか」
「そうだな。当面は問題がなかろう。だが今後も見据えれば永楽通宝だけでは足りぬ。大口の取引には現在重さを量って取引をしている銀、金を通貨として用いることも視野に入れている。更には既に明では紙幣なる紙の通貨が発行されていると聞く。紙幣まで必要があるかは別として、商業を発展させるためには今後も多量の通貨が必要となる。そのためには永楽通宝だけでは、おそらくは足りぬ。また貨幣制度については各地域の慣習が異なっているのは知っておろうが、商売に差し障りもあろう。今のところはまだそれほど大きな問題にはなっていないが、近い将来には問題になるだろうよ」
草太は特に驚いた様子もなく続けたが、小笠原信定、阿閉貞征の二人は、初耳であっただけに驚いていた。お待ちください、と阿閉貞征が言った。
「当家は永楽銭の私鋳を行っているのでございますか」
平助がこともなげに言った。
「なんだ、知らなかったか。別に秘密で行っているわけもなく朝廷も幕府も話が通っていることだ。大体、堺にも工房がある。最近は、わざとなのか腕が悪いのか質は良くないが石山本願寺にもできたと聞くな」
田中与四郎は、この発言には心底驚いた。鐚銭を集めて鋳潰し、私鋳銭を作っているのは事実であったがそれは極秘裏に行われており、姉小路家にまで知られているとは思わなかったからだ。その驚いた顔に草太は言った。
「もっとも、新貨幣の鋳造、流通は早くとも一年は先だ。鋳造そのものは半年もあれば出来るが百や二百を流したところで意味はないからな」
それで気になる噂は、と草太が尋ねると小笠原信定が顔を曇らせた。
「確かな噂ではございませんが、一条房通公の病が重くなる一方で既に床に就いている、と」
草太は正月に上洛した際の一条房通公の顔を思い浮かべた。確かに公家との接点として考えた場合には、既に近衛家とは縁戚関係にあるためそれ程の痛手、という訳ではなかった。しかし一方では草太自身の烏帽子親でもあり物心ともに世話になった身であった。見舞いに行かねばならぬ、と草太は考え、一条家へ訪問する手筈を命じ、また西洞院時当に問い合わせの手紙を出した。
翌弥生十五日、草太が二条御所に入ったのは午の刻であった。広間では将軍足利義輝が左右に細川藤孝、伊勢貞孝らの群臣をおいて待っていた。
草太が将軍足利義輝の前に進み平伏し一連の挨拶を述べると、伊勢貞孝から声がかかった。
「姉小路房綱、伊勢討伐、誠に大儀であった。正式な恩賞は後に取らせるとして、伊勢のことだ。近頃騒乱があったと聞き及んでおるが」
細川藤孝が言った。
「ご存知かと存じましたので私からは申し上げませんでしたが、既に鎮圧され仕置も済んでございます。既にこれ以上の詮議は無用かと」
それでも口ごもっていた伊勢貞孝に、将軍足利義輝は言った。
「儂らが命で戦をし、勝利し凱旋したからには恩賞もなしでは通用するまい。……だがその前に、姉小路房綱、そなたには儂に折り入って頼みたいことがあると聞き及んでいるが」
「はい、人を一人、幕臣として迎えていただきたく存じます」
草太は答えたが名は言わなかった。それを察して将軍足利義輝は尋ねた。
「何ができる」
「太刀を少々扱います。また戦に場数がございます」
ならば、と庭先を指していった。
「吉岡憲法との立ち合いを見、それで決めるとしよう」
吉岡憲法は、この日は二条城での兵法指南を行う日であったため城内にいた。急の呼び出しに何かと広間に入ると、将軍足利義輝が庭先で一手相手をすべし、との事であった。引き受けぬわけにもいかず庭先に出ると、既に相手はそこに平伏をしていた。だが頭巾を目深にかぶり面頬を着け顔を隠した相手に、頭巾の下は兜か、とすれば鎖帷子の一つ程度は着ているかと察し、介者剣術との立ち合いに吉岡憲法は少し戸惑いを覚えた。もっとも両者とも得物は同じ木太刀であったから、防具があろうとなかろうと違いはなかった。
「勝負一本、始め」
細川藤孝が立ち合いを務め、一間の距離から立ち合いが始まった。始まると同時に吉岡憲法の背中に嫌な汗が出た。尋常ではない剣気にあてられ、伊勢貞孝は硬直して動けなくなっていたが、流石に将軍足利義輝は柳に風とばかりに受け流し、草太も笑って受け止めていた。
「よく拾ったものよ。……あの型は新当流の流れのもの。それも正当な流れと見たが」
そのようですな、と草太は返したが、実のところ草太には型を見てもその流派の見分けは付かず、北畠具教の剣の師が塚原卜伝でありその流派が新当流であると知っているだけであった。
或いは対峙し、或いは激しく打ち合いながらも、双方とも浅手すら与えず、立ち合いは一刻あまりも続いた。最初の数合を過ぎると吉岡憲法は、立ち会っている相手を兜や鎖帷子を付けた介者剣術の使い手としてではなく、何らかの事情で顔を隠しているだけの正当な剣術使いだと認識を改めていた。既に両者とも荒い息をしていたが、決め手になりそうな手は吉岡憲法には考え付かなかった。ただ無心に対峙し、受け、払い、突き、そして木太刀を振るった。
そして更に一刻あまり経ち日も傾きかけたころ、突如として時ならぬ雨が降り始め水を差された形になっても、勝負はつかなかった。だが将軍足利義輝はこれをよい機として勝負なしとして立ち合いを終わらせた。
立ち合いが終わり身支度を調えて広間に入ってきた二人を前に、将軍足利義輝は上機嫌であった。
「大儀であった。仕官を許す。……面頬を外し面を上げ名を名乗るが良い」
頭巾を解き面頬を外し顔を上げ、名乗った名に将軍足利義輝は流石に驚いた。
「従三位権中納言、伊勢国主、北畠具教にございます」
視線を向けた将軍足利義輝に、草太はすまして言った。
「伊勢討伐は行いましたが北畠具教の首を挙げよとは命じられておりません。……既に北畠具教は幕臣でございますれば、有為の人物を斬る太刀は、某は持ち合わせておりません」
そうか、と将軍足利義輝は言い、暫く考えて言った。
「伊勢守護職は解任できるが、伊勢国司職でもある。こちらは朝廷の官位、幕府では解任できぬ。さてどうしたものか」
そして試すように伊勢貞孝を見た。伊勢貞孝は裏で北畠家と昵懇の仲であったため伊勢を北畠家に返そうと考えたが、流石に今すぐにというのは難しかった。しばらく考えた後伊勢貞孝は言った。
「少し変則的ではございますが、伊勢守護職もそのままに、伊勢守護代の人事権を姉小路家に付与する、という形ではいかがでございましょうか。姉小路家は名を捨てて実を取る、ということになりますが」
将軍足利義輝は細川藤孝をちらりと見、少し心配顔なのが気にかかったが、それでも構わずに言った。
「ならば伊勢についてはそうせよ。北畠具教は当面の間は、京での公家対策、そして事あれば一手の武将として活躍してもらう。左様心得よ」
はは、と平伏した草太に将軍足利義輝は言った。
「姉小路房綱、伊勢の守護代は誰にするつもりだ」
「中伊勢の雄である長野工藤家に任せようかと存じます。ただし現在は長野工藤家本家の家督は当家に仕官している長野泰治が持っているため、分家となり安濃津城を本拠とした長野藤定に又守護を命じようかと」
うむ、と将軍足利義輝は頷いた。
その夜、細川藤孝は将軍足利義輝と一室にいた。将軍足利義輝は尋ねた。
「先ほどの伊勢守護の件、何やら納得がいっていないようであったが」
「上様、ご存知かとは思いますが、守護職にその地を治める力があれば国司と守護が違う家であり守護が実権を持つという事自体はごく一般的に行われております。守護代が実質的に乗っ取ることも、又守護代という形で実質的に守護代を任免する権利を他家が持つことも、実際に行われております。しかし幕府が守護代を任免する権利を他家に恩賞として付与するというのは、守護職をただの名誉職とするおつもりかと、少々懸念がございます」
将軍足利義輝はこれに対し言った。
「足利幕府の権威化。実権はなくとも権威として生き残る。……興仙という比叡山の僧に会った際に、足利将軍家の目指す先を尋ねた時に示された答えだ。実情として考えれば、我らがここでこうしていられること自体、既に姉小路家の神輿と言われても仕方がない。実力がこれ以上増えるか、と言われてもおそらくは増えまい。とあれば、一つの方針としては興仙の意見も、あながち間違いでもなかろう。今回の件で少し試してみる。必要であれば姉小路家であれば伊勢守護にしても問題はあるまい」
前例を作ると後に引くのだがな、と細川藤孝は不安を消すことが出来なかった。
翌朝、草太は朝議に参内した。将軍足利義輝は伊勢北畠家の顛末についてのご下問に答えた後、こう申し添えた。
「北畠権中納言具教殿は現在京にありますが依然伊勢国司であり伊勢守護職に留まったまま、今後は幕府の帷幄に参じることとなりましてございます」
言葉の裏には、幕府に従わなかったから討伐はしたが、朝廷の権威を侵してはいない、という主張があった。




