二百五十七、草太の休日
北勢四十八家を巻き込んだ北伊勢騒動が発生し、ごく数日で鎮圧されたものの北勢四十八家のほぼ全てが改易、わずかに長野工藤家が国人衆として残り、他は全て郷士として名を残すか、千種家、神戸家、関家は当主が鞍馬寺で蟄居を命じられ、姉小路家の直轄領になるという大きな支配体制の変化がおこった。またほぼ同時期に長島城が陥落して石山本願寺の勢力が大きく後退したと同時に一向宗加賀派、真宗高田派の布教も強化され、宗教勢力の大きな変動も起こったことは既に述べた。
高屋平助日記弘治二年弥生十三日(1556年4月22日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、奥方様と共に近江加茂神社を微行にてご参詣され候」
近江加茂神社は観音寺城から距離は二里ほどにある古社である。奥方様というのが誰なのかははっきりしないが、ひいは出産まで一月余りと迫った身重の身のため参加したとは考えられず、つうが参加しなかったとは考えにくい。したがって白菊が参加したかどうかだけが議論が分かれるところである。
もっとも姉小路家の公式の記録にはこの参詣は書かれていない上、近江加茂神社側にも草太の来駕は記録されていない。参詣の記録が高屋平助日記のこの一行だけである以上、その目的は不明である。
弥生十日、伊勢討伐へ向かっていた姉小路軍は観音寺城に帰還した。草太は祝勝の宴も早々に切り上げ、奥へと入った。否、諸将に奥へと押し込められた。
「御屋形様、子は顔を見せねば親の顔でも忘れるもの、百合若様との確執など起こされては困ります」
「折角でございます、御屋形様だけしかできぬ役目をお果たし下さい。……奥向きの話は、某共では手を出しかねます」
口々にこういわれては、草太も苦笑しながら、広間での騒ぎを背に奥へ入るしかなかった。確かに草太は百合若との時間をとるどころか年の半分は観音寺城にもおらず、観音寺城にいても昼間は奥にいないため、百合若はなついてはいるものの未だに百合若という子供がいるということに慣れることが出来ずにいた。
奥では既に話が通じていたようで、つう、ひい、白菊が揃って出迎えた。無論、百合若もつうの膝の上にいた。といってもひいは懐妊中であることもありそれほど長くは同席できなかった。
「おかえりなさいまし」
草太はつうと白菊の手料理を堪能した。祝勝の宴があったということもあり赤飯に鳥と葱の焼き物、豆腐の味噌汁に香の物という食事であった。ひいこそ身重で早々に休んだものの、ひとしきり百合若の相手をして寝かしつけた後は湯殿で疲れを癒した。湯に浸かっていると湯殿番をするとつう、白菊の二人が入ってきた。
「白菊様、次はあなたの番でございますよ」
白菊の顔が真っ赤になったが、勿論顔が赤くなったのは湯のためだけではなかった。そうして閨に入った。草太はつうの膝で眠りたいと思わないではなかったが、二人を同時に閨に誘うのはためらわれた。その夜のことを覗くのは、野暮というものであろう。
翌朝、草太は北伊勢騒動の終息についての報告を受け、その後の北伊勢の動静については服部保長に情報収集を命じた一方で上洛のための兵を出した。危険こそなかったが上洛にはそれなりの行列を仕立てる必要があり、またわずかな供回りとはいえ細川藤孝とその馬廻り、郎党衆を伴う必要があるためであった。姉小路軍、特に騎馬隊を中心とした編成とすれば、領内から直接に京に入ることも出来る上に双林寺にある程度の支度も整っているため輜重隊もいらず、精々片道一日の旅程でしかなかったが、細川藤孝とその供回りであれば途中で一泊、あるいは二泊することが順当とされる旅程であった。
そのため草太は行列には加わらず影武者を立て師岡一羽をその護衛として送り出し、出発を二日遅らせることとした。といってもいないことになっている草太には政務を割り当てる弥次郎兵衛ではなかった。
「奥にいてください。御屋形様は既に観音寺城をお立ちになったはずでございます故、あまり出歩かれると困ります」
言葉ではこう言っているが、その実で弥次郎兵衛は草太が出来るだけ奥、それもつうと百合若、そして二人の側室との時間を増やそうと画策して影武者を仕立てたのは弥次郎兵衛本人であった。そのことを思い返し、草太は苦笑しながら奥へと入るしかなかった。
奥では、今日はひいの日であったらしく、といって身重の身であったから食事も作ることはできずに侍るだけであった。代わってつうと白菊が食事の支度をした。この日は普段通りの蕎麦掻であったが筍が添えてあり、また炙った鯉の味噌漬けと香の物であった。
「身重の身でございますから何もできませんで……」
とひいは恐縮していたが、草太はそれよりもひいの体調が気になっていた。
「あとひと月ほどと聞いている。あまり無理に動くものでもない」
はい、と言ったが、つうは何かまだ言いたげであった。
「実はお願いがございます。……西に二里ほどのところに加茂神社があり、安産の霊験あらたかですとか。明日にでもお守りを一つ、もらってきては頂けませんか」
草太は神頼みかとも思ったが、それでひいの心が落ち着くのであればそれでよかろうと納得した。するとひいはもう一つ、と言った。
「つう様もお連れ下さい」
白菊も誘ってはみたものの徒歩での日帰りは自信がないと断られた。裏では結託しているらしい、と草太は苦笑せざるを得なかった。
観音寺城の城下町は少し前までいくつかに分かれていたが次第に大きくなり、日牟禮八幡宮や近江加茂神社のの門前町も一纏めにまとめたのが安土の街であった。草太一行が微行で観音寺城を出て安土の街に出たのは弥生十二日の朝のことであった。弥次郎兵衛が旅の商人、草太は手代、つうは下女、平助は護衛という態であった。近頃の安土の街ではこのくらいの規模の商人は珍しいものではなくなっていた。
微行とはいうものの服部保長の手の者が周囲を固めているはずではあったが、流石に町人に紛れられては草太もどこにいるのか分からなかった。平助も同じようであったが弥次郎兵衛には分かるようであった。
「多羅尾光俊にいわせれば「どこにでもいてどこにもいない」というのが隠形の極意、とか言いますがね、服部保長の「居て当然の者になり切る」という方があたしにはしっくりくるんで。そういう人間の目利きなら、あたしの領分ですよ」
身内だけという気安さからか、砕けた口調で弥次郎兵衛がこともなげに言った。
「流石に活気がありますな。そういえば今日は広場には市が立っているはず。覗いてみましょうか」
市に入ってもそれほど目を引く店は少ないが、とにかく活気があった。六角家支配時代に既に楽市があったため売り上げに対する税はないが、市ではひと区画いくらという形でみかじめ料が徴収されていた。もっとも質の悪い客層からの用心棒でもあることから好意的に受け入れられており、沖島牛太郎が配下の配下にやらせているためそのみかじめ料も姉小路家に支払う矢銭の元であるとは多くの民は知らなかった。草太も弥次郎兵衛に言われなければ知らないところであった。
「市は活気があるが、どうだ、何か食わぬか」
平助は、流石に分かっているようであった。折角だから珍しいものを、と見回すと弥次郎兵衛が一軒を示した。
「あそこで食べましょう。……なに、食べてみてのお楽しみ、という奴です」
言われるがままに入り、出されたものを見て草太は驚いた。どんぶりの中には細い麺と共に餃子が入っていた。細い麺、これは素麺でよく見かけていたからそこまで驚きではなかったが、餃子は草太が戦国時代に来てから初めて見た。ふと店主を見ると奇妙な髪形をしていた。驚いたでしょう、という顔で弥次郎兵衛が囁いた。
「彼は女真族のマルデニといい、九鬼嘉隆殿の船に密航してきたそうです。この麺に乗っているのは餃子といい、彼らの伝統料理だそうです。……なぜこんなところで露店を、と言いますが、何かの事情で渤海に居られなくなったのだそうで」
唐渡りの料理、ということでそれなりに繁盛しているようではあったが、やはり土地の好みというものの壁もあるのか露店以上の店を構えることは難しいようであった。今までも職人や技術者を中心に明から人を受け入れているのは知っていたが、実物を見るのは初めてであった。だがこうして少しずつでも交流が広がっている、というところを弥次郎兵衛と平助は草太に見せたかったのかもしれなかった。
元々の日牟禮八幡宮や近江加茂神社のの門前町のあったあたりにまで差し掛かると、弥次郎兵衛は平助と共に一軒の屋敷に入ろうとして周囲に聞こえるような声で草太に言った。
「私たちはここで用を足しますから、二人はお守りを頼みましたよ。私たちは晩くなりますからそのまま戻りなさい」
草太は思わず反論しかけたがつうが赤くなりながら袖を引いた。草太は、どうやらしてやられたようだ、と思いながらも、苦笑と共に二人で近江加茂神社へ向けて歩き出した。草太が言った。
「迷子になったら困る。手を」
そして二人は手をつなぎ、近江加茂神社へ向かった。沿道の店先からは茶店の客引きなどが、笑って祝福していた。若い男女が幸せそうに手を繋いで安産祈願だけではなく縁結び、子授祈願でも霊験の高いとされる近江加茂社に行くというのは、やはりそういう仲と見られていた。それも当然なのであろうと思い、周囲を見回せば自分たちと同じような男女連れがちらほらと見受けられた。それだけ安土近辺も平穏と余裕を取り戻したのだろう、と草太は思いつつも、今その手の中にあるぬくもりを大切にしようと思い、他愛のない話をしながら参詣を済ませた。
「旦那様」
参詣をし、お守りを手に入れた戻り道に不意につうが声を出した。草太が返事をするとつうは続けた。
「大事に、してくださいましね」
そうだな、とその場では草太は照れくさくてそう言うだけに留めたが、その夜の閨はつうを呼んだ。睦言までは、流石に書けない。
翌朝、つうは草太の衣服の支度をし髪を調え送り出した。草太はわずかな供回りと共に愛馬秋雨に跨り、上洛の旅路についた。奥からは街道は見えなかったが、それでもつうは草太の向かった西の空を、いつまでも眺めていた。




