二百五十三、続、下伊那の決戦
久米ヶ城に入った渡辺前綱が吉岡城へ兵を出し、また三州街道の要衝である平谷の宿へ兵を出した次第、および久米ヶ城周辺における陣立てについては既に述べた。一方の馬場信春も阿智村への街道が整備され輜重隊が物資の補給をさせぬようにすべく、物見間諜の類を夥しく繰り出し、また出陣の準備は怠りなく行われていた。
下伊那谷における支配の帰趨を決める、下伊那の決戦が始まろうとしていた。
伊那市高遠にある古刹、遠照寺の遠照寺文書と呼ばれる文書の内にこうある。
「下伊那は飯田にて馬場民部少輔信房様、久米ヶ城は姉小路家の軍勢と合戦仕り候。(略)高遠城にある武田左馬助信繁様、ひそかに下伊那での一揆を命じられ候。末寺より聞き及びし情勢により一揆を企てること難しく、また小笠原信濃守長時様お戻りとあらば地侍衆も参加は少なかろうと思料致し、この命、断るべきと思案いたし候」
ここで馬場民部少輔信房とあるのは馬場信春のことであり、後方に詰めていた高遠城の武田信繁の命令について書かれている。
日蓮宗の古刹、遠照寺の寺僧が住職に宛てて書いたとされるこの文書には、いくつか興味深い点がある。まず伊那谷、特に下伊那は小笠原家内部での紛争、特に小笠原長時と小笠原信貴の争いの中では小笠原信貴が治めていた地域であるが、この時点では小笠原信貴は船山城、もしくは高遠城で甲斐武田家に出仕しているにも関わらず、それでも小笠原長時が帰還となれば小笠原長時に着く、という点である。もっとも小笠原信貴に着く地侍の大多数は既に船山城などに籠っていたためかもしれないが、小笠原長時という名前が信濃ではまだ力を失っていない、という点が注目すべき点である。
さらに宗教勢力の影響の強いこの時代において、姉小路家の支配下に置ける「民の扇動が難しい」と寺僧が認めている辺り、仏姉小路の名は飛騨の隣国である信濃、その中でも松本のように直接鰤街道でつながっているわけでもない伊那谷や妻籠の宿であってもでも高かった、と考えざるを得ない点である。
如月二十四日朝、馬場信春は飯田城で、物見の報告を待っていた。物見というよりも威力偵察といってよいその方法は荒っぽく、三ツ山に陣を張るために安藤守就が着いた直後から二十三日夜にかけて小競り合いが続いていた。
一人の騎馬武者が十数人の兵を率いただけの小部隊であるため安藤守就も中筒隊に銃撃させることもなく、陣を築く手を緩めるのも面倒、とばかりに初日から一鍬衆の内三百を小競り合いに対応するための隊として編成して弟である安藤郷氏に宰領させて北部に展開させていた。安藤郷氏は隊を五十名ずつ六つに分け、二刻ずつの交代で一度に二隊を繰り出し発見次第撃破していったが、物見の数も多く、また少し戦っては馬を蹴立てて逃げるため、情報を完全に遮断することはできなかった。
二ツ山にも物見の兵は出されてはいたものの、二ツ山に押し寄せる前に安藤郷氏の兵に阻まれていたためにほとんど到達するものはおらず、到達した物見の兵も精々十数名でしかなく、現場での対応で事足りた。元々不破光治は陣らしい陣構えは取らずに出撃することを前提とした配置としていたため、接近と同時に近くに配された前衛が前進すれば、それだけで不利を悟った物見はそのまま反転して後退していった。
馬場信春は集まった情報から、依然阿智村への街道が開通していないこと、姉小路軍が鉄砲を使っていないことを確認した後、確かに姉小路軍は特に玉薬の不足に直面していることを確信した。また三ツ山、二ツ山の兵の配置も精々数百から一、二千、というところであり、この二山を抑えれば阿智村と久米ヶ城の間で小荷駄隊や援軍を抑えることもさほどに難しいものではないという重要性の観点からすれば、久米ヶ城からの援軍を期しているにせよ多くの兵が三河へと向かったというのも事実であろうと思われた。
そして馬場信春は、決戦を決断した。
翌如月二十五日、黎明に出陣準備を急いでいる飯田城の一室で、馬場信春は粥をすすりながら空模様を見ていた。小雨が降っており、おそらくは一日中降り続くと見られた。馬場信春は雨を見て、姉小路軍の主力である鉄砲が使えなくなったことに武運があると考えながら、昨夜の軍議を反芻し手配りに不足や誤りはないかを考えていた。
昨日二十四日も物見という名の威力偵察は続けられむしろ激しさを増してさえいたが、特に戦力が追加されたという報告はなかったため、姉小路軍は声東撃西の策と読み久米ヶ城の防備を固めているものと思われた。そのためまずは、既に出陣した赤須清玄率いる二千が久米ヶ城を東から攻撃し姉小路軍の目を久米ヶ城に引き付ける、そして払暁に馬場信春自身が兵一万を率いて出陣、二ツ山を落とし、可能であれば阿智村に進出し清内路峠越えの街道整備を妨害、頓挫させるというものであった。
同程度の兵力であり鉄砲という不安要素がなければ、馬場信春は自身の有利を確信していた。あとは有利を勝利に変えるだけであった。
最初に戦いの火ぶたが切られたのは、久米ヶ城の東方、伊豆木村であった。
天竜川を下り久米川沿いに攻め寄せた赤須清玄率いる二千の兵を物見が発見したのは、久米川と天竜川の合流地点に近い時又の地を越えた付近であり、久米ヶ城からはわずかに一里ほどの距離であった。日の出からそれほど時も経たない卯の下刻、渡辺前綱は物見の報告を聞き、言った。
「伊豆木までは止められぬ、か。……青地茂綱、村に被害が出るかもしれぬが仕方があるまい。一鍬衆二千、中筒隊五百を預ける。まずは伊豆木へ行き村人は山へ逃がせ。その後は久米へ陣を張り久米ヶ城を素通りできぬようにせよ。敵将は元々は久米ヶ城に籠っていた者、地理については向こうの方が詳しかろう。抜かるな」
小雨の降りしきる中、青地茂綱は急ぎ兵を率いて伊豆木村へ向かったが、戦の気配を察したのであろう、既に村人は逃げ散っていた。家々を見回り誰もいないことを確認すると、反転し久米へ退こうとしたが、その時物見がわずか五町の処に敵軍を発見した。赤須清玄率いる二千の兵は、特に隠れる様子もなく久米川を遡ってきた。青地茂綱は久米へ退くのを止め、伊豆木村での交戦を決断した。
「村の家の間に雨除けの天幕を張れ。中筒隊、不発となるのも厭うな。撃つのは一発だけ、それ以上は交戦し整備の時間の後だ。誰ぞある、殿に使いを」
慌ただしく周囲に命令を発しながらも、青地茂綱はどこかに違和感を感じていたが、それがどこかは残念ながら分からなかった。天幕が張られ、中筒隊が建物の中で、天幕の下で、油紙に包まれた中筒を出して弾を込め、そして村の境から半町、一町先にあるささやかな稜線を十分な数が抜けたのを確認して青地茂綱は命じた。
「撃て。射撃後、一鍬衆突撃」
赤須清玄に与えられた命令は久米ヶ城への敵軍の誘引であり、そのためには間道に隠れずに久米ヶ城へ向かう必要があった。黎明直後から降り出した雨が体を冷やしたが、それは姉小路家の鉄砲が使えなくなることを意味するものでもあったため、むしろ好ましかった。ただ、城の中から撃つのであれば雨でも関係がなく、近付きすぎずに気勢を上げるのがよかろう、というのが上穂重清と赤須清玄の一致した意見であった。まずはこの先の伊豆木村か、出来れば久米の里まで進むことを目標としていた。
陣中の中央よりやや後方を上穂重清、赤須清玄が進み、伊豆木村までの最後の稜線を越えた時、銃声が轟き、それに続いて鬨の声を上げて姉小路軍が突撃を開始した。
轟音が響いてはいたが、その実発射できたのは半分以下であった。天幕を展開しただけの簡易的な雨除けではやはり大部分が不発となり、曲がりなりにも家屋内に入ることが出来た者を中心に二百余名が発射できただけであった。細長い陣形をとってたために赤須清玄隊の被害は五十名ほどでしかなかったが、久米ヶ城に籠ると見られていた姉小路軍が、それも小雨とはいえ雨中に銃撃を加えてきたという事実に陣が乱れ、前衛部隊は赤須清玄周辺の指示を待たずに突撃を開始した。
青地茂綱は一鍬衆二千に迎え撃たせた。
一鍬衆と赤須清玄隊は、人数としてはほとんど変わらなかった。稜線を越えてきていることから、やや坂の上に位置する赤須清玄隊の方が地理的には有利であった。だがそれを差し引いても三間槍を使い三位一体の体制で確実に仕留めに行く一鍬衆と、個人の武勇を頼りに個別に戦いを求める甲斐武田家の兵との戦いは、ある意味では一方的なものであった。三間槍を見ても多くの兵はただ懐に入ればよいとしか思わず、赤須清玄が馬廻りに静止させようとしたときには既に前線は大混乱に陥っていた。その大混乱を尻目に一鍬衆がまさに壁を作り、後ろからの兵に押されては一鍬衆に槍で突かれ、あるいは久米川に追い落とされるという状況が続いた。無論、一鍬衆も前線を動かさなかったわけではなく、徐々に前進して稜線を確保することに成功した。この時点で赤須清玄はようやく兵をまとめて退き、二町近い距離を開けて対峙する構えを見せた。
この時までに赤須清玄隊の被害は、実に千を数えた。勿論全員が死亡しているわけではなく、負傷し動けなくなったところで、一鍬衆の壁に飲まれ捕虜となったものや、久米川に落とされて天竜川方面に流されていったものも多くいた。一方の一鍬衆も無傷であったとはいえず四百近い死傷者を出していたが、その大部分は数日で戦線に復帰できるほどの負傷であった。
青地茂綱は捕虜も含めた負傷兵の治療を左右に命じ、また稜線に土嚢を積ませていたが、発見した当初の違和感を拭いきることが出来なかった。
久米川沿いに赤須清玄隊が現れたとの報が渡辺前綱に届いた直後、十中八九までいないとは思っていたものの、念のために左右に後続の兵がいないかの確認に物見を命じ、そして命令を下した。
「三ツ山、二ツ山の安藤守就、不破光治に、合戦に備えるよう使い番を出せ。本命はそちらだろう。……物見が戻り次第、打って出る。稲葉良通、黒木典膳、一鍬衆五百、中筒隊千五百を預けるゆえ留守居を頼む。一鍬衆千五百、中筒隊八百、いつでも出られるよう支度をさせよ」
確かに阿智村付近を脅かし補給線を寸断することが出来れば姉小路軍が干上がるのは時間の問題であった。兵糧はまだしも火縄銃の弾薬は現地での調達は絶望的ですらあった。したがって、渡辺前綱にとって土地を知り尽くした赤須清玄が間道を通らずにある意味堂々と久米川沿いに向かってきたのは、囮としてこちらの目を引くためとしか思えなかった。
もっとも、後方から後詰めが多く続いており本当に久米ヶ城攻略を目的としている可能性もないではないため、その備えをなおざりにする渡辺前綱ではなかった。




