二百五十二、下伊那の決戦
渡辺前綱が兵を率いて妻籠城より阿智川沿いに整備をはじめた清内路峠越えの峠道を駆け下り、久米ヶ城を攻略した次第については既に述べた。落城の際、焼け落ちるのを辛うじて防いだ本丸の中から馬場昌房の死体が発見され、渡辺前綱はその体を縫わせ整え清めたうえで、飯田城にいる馬場信春のもとに送り届けられた。また竹中重治は吉岡城へ内応の指示を出し、吉岡城は戦わずして姉小路家の支配下となった。
かくして姉小路軍は伊那谷の南端に、確たる橋頭保を確保した。だがこれを黙ってみているような馬場信春ではなかった。
尾張一代記にこうある。
「竹中重元が策、三河に松平元康様入らねば成らず。織田信長公、その策を問うに竹中重元、ただ兵を集め候へ、と答え候。その心はと問えば、既に妻籠城落ちれば伊那谷にも兵入り、三州街道を通じて兵三河を窺えば今川家は三河に兵を出す、その際に松平元康、必ずや三河兵の旗頭として三河へ参りましょう、とぞ答え候。弘治二年如月晦日、平谷の宿に姉小路家の兵有との報あり、即ち公、兵を集め(略)」
伊那谷の支配をめぐる姉小路家と甲斐武田家の戦いは、伊那谷の領有という問題だけではなく、周辺地域の戦略とも影響していた、とするのが一般的である。特にこの下伊那を巡る戦いについては、尾張織田家の三河進出へつながる重要な戦略の一部であるとされるのが通説である。無論、これほどの戦略を竹中重元の独断で行うことは考えられないから、発案はどうあれ草太の許可が下りていたことは間違いない。もっとも同時期に草太をはじめとする姉小路家本隊は伊勢征伐のため北畠家と戦っていたため、これらの策がいつ頃に練られ裁可されたかは不明であるが、遅くとも苗木城への援軍が出発するまでには裁可されていたと考えるのが適当であろう。
如月二十二日朝、久米ヶ城の姉小路家より飯田城の馬場信春へ、軍使が出発した。軍使は正使が稲葉良通、副使が軍学校二期生、黒木典膳であった。黒木典膳については完全に場数を踏ませるためだけに参加させたものであり、用そのものは稲葉良通一人でも足りた。荷を積んだ大八車を引かせつつの軍使であったためその速度は速くはなく、行きは二里半の道を三刻かけての日程であった。道も半ばに稲葉良通は言った。
「黒木典膳殿、軍学校を出て武将衆に連なった感想は、どうだ。特に最初の戦場が日本一の強兵と名高い甲斐武田家との戦だ。どうだ」
「お気遣い、ありがとうございます。なれど相手が甲斐武田家といえども我らは我らのやるべきことをやるのみ、相手の心を忖度する必要はあろうかとは存じますが、必要以上に気負うことも無用に存じましょう」
うむ、と頷いた稲葉良通は再度言った。
「して、この軍使の用に某とそなたが参った、その意味は分かっておるかな」
「まず表向きは飯田城の馬場信春殿に馬場昌房殿のご遺体をお返しいたし最後まで戦われたことをお話しすること、おそらくは蹴られるかとは思われますが飯田城へ三月の停戦をお願いすることの二つにございます。その実、本当に行うべきは、近々起こるべき合戦、その戦場となるべき地の下見と城内の士気の高低を見ること、そして飯田城の南を流れる天竜川の支流、松川を見ることと存じます」
よく出来た、さても軍学校ではよく指導しているものよ、と感心したように稲葉良通が言った。
軍使が飯田城についたのは午の刻であった。馬場信春には軍使が着くという報はかなり早い段階で届いていたため、評定の間で国人衆共々会うことにした。荷があるということであったが、それは内門に置かせた。一通りの挨拶の後、馬場信春は言った。
「稲葉良通殿、お噂はかねがね承ってございますが、こたびはいかなる御用でございますか」
「ご存知とは思いますが、我らは妻籠城を攻め落とし木曽義昌殿を退け、更に進んで久米ヶ城を攻め落としました。武家の習とはいえ、久米ヶ城を攻め落とした際にご子息馬場昌房殿が討死致しました。敵とはいえ勇敢に戦った将、ご遺体をお返し致さんとお持ちいたしました。お納めください」
お心遣いありがたく、と馬場信春が言うのを待ち、稲葉良通は続けた。
「時に、伊那谷へ入りましたが民の負担が重く、また田植えはまだとはいえこれから農繁期に入ります。三月の間は戦を控える、というのはいかがでございましょう」
ふむ、と考えるふりをしたが、姉小路家に三月の時間を与えればその間に簡単には突破できない防衛線を敷くことは、馬場信春にも明らかであった。また三月というのが面白かった。今から停戦の文書を調えて三月であれば皐月の中旬から下旬、ちょうど鉄砲の使いにくい梅雨の終わる時期であった。その三月の間にまた兵を集め調練を加え態勢を立て直すことはできないではないが農繁期に兵を集めなければならぬということもあり、どう考えても利はないように思われた。
だが、策自体は面白いが蹴られるのは目に見えた提案であり、蹴られることを前提の提案をしてきた意味を掴みかねた。木曽路の整備、改修も順調に行われているということも聞いてはいたが、姉小路家も物資の調達輸送に苦労しているのか、とも思った。
馬場信春が少しの間があり、言った。
「お断りする」
稲葉良通は、それを聞いても少しも残念な顔をせず言った。
「左様でございますか。実は我らはご遺体を返すのみが仕事、三月の停戦は単なる口実にございます。如何に勇将とはいえただご遺体を返すだけの軍使を出す、など当家でも難しきことでございます。取ってつけたような停戦の申し出に心を砕いていただき、ありがたく存じます」
これを聞き、馬場信春は何かの違和感があったが、それは後に回してにやりと笑い、言った。
「ならば、次は戦場で会おう」
「その時が来たらば存分に槍をつけさせていただきます」
稲葉良通が言い、それでこの面会は終わった。
稲葉良通が退出した後も馬場信春は動かなかった。馬場信春が動かぬのだ、諸将も動くわけにはいかなかった。馬場信春は瞑目して何事かを考えていたが、目を開いていった。
「阿智川沿いの間道を探っている間者に姉小路家の小荷駄隊が通ったか。妻籠に着いているのは確認されている故、その後でよい」
「昨日の報告では悪天候のためまだ街道整備が麓にある清内路の口、阿智村まで残り一里半ほど終わっておらず、小荷駄隊も大部分が妻籠から動いていないとのことでございました。背負子に背負うなら別でございましょうが、荷車の類は使えぬかと」
傍らより飯島為政が答えると、それならば、と馬場信春が言った。
「おそらくはこちらを攻めるための物資が不足しておるのだろう。それも、鉄砲を主体とした姉小路軍だ、兵糧は何とかなるにしても鉄砲の玉薬については調達が難しかろう。攻め時かもしれぬな」
この時、吉岡城主下条家に入れていた間諜が戻り報告したのは、馬場信春にとって不運なことであった。
「報告します、吉岡城主下条信氏以下、吉岡城に入れていた国人衆、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、宮田親房、小田切正則、松岡頼貞の全てが姉小路軍に寝返り、吉岡城は開城いたしました。各国人衆は郎党衆を除き妻籠からの街道整備へ雇われ、希望次第で村への帰還も許されております。姉小路軍は軍を分け一部は下条の里を経て南へ、また一部は三州街道を下っているとのことにございます」
馬場信春はこの発言に、物見を出せ、と命じた。
「久米ヶ城一帯の姉小路軍の数を調べよ。以前より尾張織田家の三河進出の動きは報告を受けている。この出兵は南へ、三河攻略支援のためか」
一方の久米ヶ城では半分焼け落ちた本丸の周囲に天幕を立て並べて兵を休ませ敵味方なく負傷兵の手当てをした後、如月二十二日に、本丸の脇に設けられた陣幕の中では稲葉良通と黒木典膳は馬場昌房の遺体を届けに軍使として飯田城へ向かわせていたため不在であったが、それ以外の武将衆を集めての軍議が行われていた。実際、三か月の停戦は、全くの口実でしかなく、ただ馬場昌房という武将に敬意を表してその遺体を返すための軍使であった。
もっとも停戦が首尾よく認められたとしても甲斐武田家が守るとは渡辺前綱は思っていなかったため、軍議ではまずは久米ヶ城の復旧と久米ヶ城の北西にある二山、二ツ山、三ツ山へそれぞれ安藤守就、不破光治に各々一鍬衆五千、中筒隊二千を派遣し陣を築かせる命を発した。その上で山岡景隆に一鍬衆三千を与えて吉岡城に入れ、吉岡城にいる国人衆を率いて遠山の郷にいる信濃遠山家の和田城を攻めさせた。おそらくは山岡隆景のことである、上手く人死にを出さずに降伏させるであろうと思われた。
ここまでは、軍使の件以外は予定通りの行動であり命令であったため、諸将に改めて通達するというだけのことであった。
ここで竹中重治が一鍬衆八千、中筒隊二千を与え三州街道を南へ、国境近くにまで進ませることを提案してきた。渡辺前綱が言った。
「竹中重治、そなたがお屋形様の命で謀を行っているのは知っている。だが我らの受けた命令はあくまで伊那谷の攻略、三河、遠江の駿河今川家の動きも気になるが、三州街道の封鎖程度で一万もの兵は不要だ。まして街道が整備されているとはいえ三州街道を国境近くまでとあれば、その補給にも負担がかかる。我らの行動にもそれなりの配慮が必要だ。どういった策か、話してもらおうか」
ここに至っては竹中重治も、策について詳細は交渉次第ではございますが、と骨子を話さざるを得なかった。渡辺前綱は言った。
「織田信長殿次第、か。おそらくは三州街道に一万の兵を置き、尾張織田家が三河の西より圧力をかければ駿府今川家は三河へ兵を出さざるを得ず、三河国人衆の乱れが見えればその将の中には松平元康殿が入るであろう。そこで接触、独立か寝返らせ今川の力を削ぐ、というところか。その際に当家も兵を出す約定を入れるとは、お屋形様らしい。……まず、分かった。今この状況で一万の兵を、国境近くであれば平谷の宿辺りか。小野田次郎三郎、久米ヶ城にて宰領をせよ。平谷の宿は交通の要衝といえども兵糧を買い求めるのも限度がある。補給を忘れるな」
そして陣立てを少し変えた。
「二ツ山、三ツ山に展開する陣立てを変える。三ツ山の安藤守就、一鍬衆三千五百、中筒隊二千二ツ山の不破光治は一鍬衆千五百、中筒隊千を率いて陣を張れ。馬場信春が狙うとすれば補給路の寸断、向かうとすれば三ツ山を抜き阿智村へつながる街道の出口か、あるいはこの渡辺前綱の首を狙っての久米ヶ城攻めであろう。二ツ山の陣はいずれに兵を向けられても側面より攻撃できるように陣を張れ。もし二ツ山と三ツ山の間を通ろうとするなら、三ツ山の陣が実、二ツ山の陣は虚として動け」
「敵が久米ヶ城へ攻めかけた場合にはいかがなさいます」
安藤守就が尋ねると渡辺前綱が言った。
「その場合には天竜川沿いを下り久米川を上るはずだが、背後を二ツ山の兵で突けばよかろう。物見を密に出せば天竜川沿いに下るかまっすぐに阿智村へ向かうかは難しくなかろう」
ここまで言って渡辺前綱は一息を入れ、言った。
「距離も二里程度、城を出てから一刻か一刻半程度で到達するはずだ。物見も密にし、また鳴り子の類も抜かりなく仕掛けよ。また、三ツ山の陣と久米ヶ城の兵が押し寄せなかった側は飯田城を攻撃せよ。必ずしも落とす必要はないが、出陣した拠点が攻められているとあれば退却を余儀なくされよう。そこを追撃するのだ」




