二百五十一、久米ヶ城の戦い
竹中重治の策による妻籠城奪取、そして奪回の兵を起こした木曽義昌の兵を稲葉良通が破り防衛に成功した次第については既に述べた。これにより渡辺前綱は、苗木城から妻籠の宿を経て伊那谷へ入る清内路峠越えの街道を兵站路としてつかうことを視野に、苗木城で軍議を行っていた。
姉小路家日誌弘治二年如月二十日(1556年4月1日)の項にこうある。
「渡辺前綱様、苗木城より出陣、妻籠の宿を経て清内路峠を抜け伊那谷へ入り候。馬場昌房、久米ヶ城に籠りたるも殿島重国の内応あり、半日にして攻略し候。馬場昌房、切腹するも渡辺前綱様、遺体を飯田城へ送り届け候」
この時期、竹中重治らの説得により伊那谷の国人衆の四割近くが寝返っていくが、寝返りを考える国人衆の多くを吉岡城に押し込め、自身と嫡男昌房の籠る飯田城、久米ヶ城には寝返りを行う国人衆を置かないように配置していたのは、馬場信春の目が利いたのであろう。或いは、吉岡城には馬場信春、昌房父子の目が光っていたために調略がうまくいかなかった、というべきなのかもしれない。たった一人、その目を掻い潜って久米ヶ城で寝返りを行った国人が殿島重国である。だが殿島重国が何のために内応をしたのかはわかっていない。また殿島重国の名がこの後資料に見えないことを見ると、名を変えて忍びや乱破の者として生きたのかもしれない。
苗木城に最後の陣が着いた。最先陣の安藤守就隊が着いてから二日、総勢一鍬衆一万二千、中筒隊四千、輜重隊および医療隊千五百がそろったのは予定より一日遅い如月十九日であった。一日遅れたのは、途中で吹雪が強くなり、進軍を一日遅らせたためであった。特に侵攻を受けているわけでもない場面で、無理に進軍をするよりも一日遅らせてでも兵の被害を出さぬようにすると平然と決断できる辺り、やはり斎藤道三の鍛えた武将の一人であった。
もっとも最先陣の安藤守就隊が着いたのは一日早い如月十八日であり、渡辺前綱は再会を喜ぶとともに軍議を命じた。軍議の席には渡辺前綱、安藤守就以下の武将衆の他、お伽衆の小笠原長時が参加した。といっても小笠原長時は自分の役割をよく承知していた。元信濃守護である自分は、信濃侵攻の旗印であり名目であった。そのため、共に清内路峠を越えて伊那谷へ攻め下るにせよ、兵を率いて戦うことは考えていなかった。
軍議自体は静かに進んだ。
まずは如月十五日に到着した長山九郎兵衛から報告がなされた。東美濃一帯から集められた長山九郎兵衛率いる人足二千五百によって街道整備が行われ、既に妻籠の宿までは通行に支障がない状況となっていることが確認された。清内路峠越えとなる伊那谷方面への街道整備も既に手が付けられており、妻籠の宿から伊那谷までの八里近い道の内、既に鍋割川の上流までを含む三里程度が通行に支障のない状況となっていた。無論、雪山のことであるから天候の急変はありうることであったが、阿智川沿いに開削が続けられ、天候さえ順調であれば三日以内には伊那谷までの街道開削、軍の踏破が可能となる見込みであった。
これを聞き、苗木城に荒川市介率いる一鍬衆千、中筒隊五百を残し、明朝全部隊出撃、攻略した妻籠城の兵力と合流する、と決断を下し、小野田次郎三郎に輜重隊と医療隊の編成と物資の輸送について命令を下した。勿論、軍学校二期生の輸送、内政畑出身である砺波市蔵に実戦経験を積ませることも忘れなかった。
軍議の終わりに渡辺前綱は小笠原長時に対して言った。
「小笠原長時殿、殿島重国、この名に覚えは」
小笠原長時は懐かしい名を聞いた。伊那谷の北部、殿島城の城主であり、共に武田信玄の侵攻に立ち向かった仲間であった。藤沢頼親の寄り子であり、武田家に臣従したと聞いていた。ということは、領民は前線で使いつぶされているのであろう、おそらくは東美濃苗木城付近での戦いでも、相当の領民が被害を受けているはずであった。
「その殿山重国だが久米ヶ城にいる。内応の手紙を書いてもらいたい。条件は、武将衆となるか、国人衆であれば殿島城の返還、という線でお願いする」
苗木城に残っていた渡辺前綱隊と合わせ、一鍬衆一万八千、中筒隊七千、輜重隊および医療隊千五百という兵力が苗木城から出陣したのはその翌朝、如月二十日のことであった。別段急ぐ道行きではなかったものの、苗木城から妻籠城まではわずかに五里、如何に冬の山道とはいえ既に整備されている街道である、夕方には妻籠城に入ることが出来た。正確には一部の兵は妻籠城に入りきれずに馬場に天幕を張って過ごさせることとなった。元々兵三千程度までを念頭に建物が建てられていることから、多少増築したとはいえ建物の中に入ることのできる数に限界があることは仕方がないことであった。
ついた日の夜、早速にして軍議が行われた。
まず確認されたのは木曾谷の状況であったが、これについては既に稲葉良通の手の者により調べがついており、すぐに動かせる兵は精々二千と見積もられていた。他の周辺国人衆にも動員をかければ八千程度の兵を作ることが出来るが、木曾谷や伊那谷の農村では仏の姉小路に治療してもらった、餅をふるまわれ糧食を渡され、路銀として銭までもらったという話が伝わり、また負傷兵を回収した際に農民兵のもつ武器胴丸の類は全て没収したため、武具も防具もない民の群れが半数程度を占めることになった。
この先日の戦の痛手を無視して今また軍役を課せば一揆すら起こりかねない状況であった。ここから渡辺前綱は、この妻籠城には最低限の兵を残せば足りると判断した。
そして、渡辺前綱は少し冷たい声で命じた。
「竹中重治、調略の状況について報告せよ」
さすがに渡辺前綱は、竹中重治が伊那谷の国人衆に対する調略を盛んに行っていることに気が付いていた。竹中重治は、無断に近い状況で行っていた調略について不興を買っていることに今更ながらに後悔しながらも、策を巡らすのが自分の役目と割り切って報告した。
「清内路峠を越えて伊那谷に入って一里ほどの地に久米ヶ城があり馬場昌房が、その北の飯田城に馬場信春が入っておりますが、これらの城にいる国人衆への調略では色よい返事は貰っておりません。最初色よい返事が来たものもおりましたが、すぐに吉岡城へと移されております。逆に吉岡城の下条信氏、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、宮田親房、小田切正則、松岡頼貞は内応の返事をもらっております。繰り返しになりますが、調略が成功した国人衆は全て吉岡城に集められております」
「ならば吉岡城は兵を出さずともこちらの手に下ろう。三河の情勢によっては兵を置く必要があるだろうが、当面は気にせずとも良い。問題は馬場昌房が久米ヶ城から、馬場信春が飯田城から出撃し、阿智川沿いに作られる街道の出口で迎撃される可能性があることだ。誰ぞ良き考えはあるか」
少しの間沈黙が座を支配したが、平野神右衛門が沈黙を破った。
「最近、妻籠の宿に甲斐武田家の間者が入り込んで居るようでございます。間者というより行商人が情報を商っている、程度であり、一々斬り捨てるのも面倒、また行商人が避けるような策は妻籠の宿には害悪にございますので、打ち捨ててございます。行商人の小商いであれば背負子での荷運びで足りることもあり、阿智川を遡り鍋割川を下るものも少なくございません。それゆえ甲斐武田家は阿智川沿いに街道整備が急速に行われていることを知っているはずでございます。それを逆手にとってはいかがでございましょう」
どういうことか、と渡辺前綱が尋ねると平野神右衛門は言った。
「通常であれば街道整備が終わってから出陣、と考えるでしょう。ですが清内路峠越えでは妻籠から伊那谷の平野部まで八里ほど、そのうち半分近くは既に整備が終わっております。残りの四里ほどもさしたる難所もなければ、速度は落ちるでしょうが通れぬこともありません。街道整備は輜重隊が通る時までに終わればよいでしょう。まずは伊那谷へ出、橋頭保を作ることが大事にございます」
よかろう、と渡辺前綱が決断を下した。
「確かに街道整備が終わるまでは敵方にも油断があろう。明日払暁、苗木城を発つ。長山九郎兵衛、人足衆と共に一鍬衆千五百、中筒隊三百を残す故、街道整備と併せて妻籠城守備を任せる。木曾谷からの攻撃はなかろうがこれから雪解けの季節、水も出れば街道も緩む時期だ。気をつけよ。残りの内輜重隊以外は薄暮の酉の下刻に出撃、清内路峠を越え阿智川沿いを一気に駆け降り久米ヶ城を包囲する。この季節の夜間、それも整備は半ば終わっているとはいえ峠道だ。温石等、支度は万全にせよ。腰兵糧の他、七輪、薪炭も準備させ、また凍傷が出ぬよう、特に中筒隊には移動中の手袋の使用を厳命せよ」
はは、と一同が頭を下げ軍議が終わった。
翌如月二十一日は朝方は晴れたものの、夕刻からは、雪が降るような雲ではないものの生憎の曇天模様となった。渡辺前綱は飛騨の生まれである、当然山の天気は気にかかった。吹雪にならなければ、多少の雪であれば行軍に問題はなかったが、急に吹雪くことも視野に入れての侵攻は、たとえ三分の一程度が苗木城付近で雪中行軍の訓練を積んでいたとしても、やはり心臓には悪かった。とはいえ結果として小雪が舞ったものの、案ずるより産むが易しの言葉通り、渡辺前綱の心臓には悪かったものの先陣は夜が明ける前に峠道を踏み越え伊那谷へ入り、如月二十二日朝には久米ヶ城に先陣が着き、巳の上刻には久米ヶ城を包囲することに成功した。
この動き自体は馬場昌房も夜明け直後に物見の報告が挙げられていたものの、発見した時には既に一鍬衆一万近くが伊那谷へ入っていた。久米ヶ城にはもとより五千しか兵はおらず迎撃も難しい、と見た馬場昌房は飯田城にいる本隊、馬場信春隊に使い番を発するとともに兵に籠城の支度をさせるのが精々であった。城内の物見櫓から見るに、包囲陣は二万五千を超える兵力と見えた。もっとも飯田城からの馬場信春隊と自身の久米ヶ城の兵の挟撃で、撤退に追い込むのは難しくとも随分と暴れて見せよう、という気概はあった。
この慌ただしい籠城戦の準備は、忍びの者にとって入り込む格好の機会であった。平野神右衛門に付けられた服部保長の臣伴長信は、悠然と久米ヶ城に入り込み殿島重国の元へと入り込み、小笠原長時の書状を渡した。書状を一読して、殿島重国は言った。
「確かにこの字は大殿、小笠原長時様の手、署名花押、全て懐かしきもの。それに確かに大殿は姉小路家にいるとも聞いている。疑う余地はあるまい。……して、何をせよと申される」
「内応を。殿島の庄から集められた兵はおそらく使いつぶすように外縁部に多く配置されているはず。その者たちに命じて門扉を開き、内部で騒乱を起こして頂きたい。そこさえ抜ければ久米ヶ城は小城、押しつぶすのにもさほどに時はかからぬかと」
殿島重国は短く諾、と答えた。
半刻後、久米ヶ城包囲が完了する直前に伴長信は何食わぬ顔で城を出、渡辺前綱に事の次第を報告した。
「よくやった。包囲が完成次第力押しに攻めつぶすこととしよう。……竹中重治、久米ヶ城が落ち次第吉岡城に使いを出しこちらへ引き入れよ。平野神右衛門、飯田城の馬場信春隊の動きを見張れ。動きがあれば報告せよ」
そして午の刻、渡辺前綱隊は攻撃に移った。
東側からは渡辺前綱が、北側からは稲葉良通が、南側からは安藤守就がそれぞれ一鍬衆五千、中筒隊千五百を率いて攻撃を行った。西側からはわざと攻撃自体は手薄にしていたが、竹中重治が一鍬衆千五百、中筒隊三百を率いて離脱してくるであろう馬場昌房を捕らえるべく兵を伏せていた。残りは予備として後備えにおいた。不破光治が万が一馬場信春隊が接近してきた場合には迎撃する役割を与えられていたが、おそらくは不要であろうと渡辺前綱は考えていた。
久米ヶ城の城攻めといっても、さほどの激戦にはならなかった。東側に設けられた大手門が一鍬衆の接近と共に開かれたのは、無論、殿島重国が寝返ったためであった。殿島重国は兵百五十ずつを北門、南門へ向け、また西門へ抜けるように指示を出し、残りを率いて槍を逆様に本丸へと突撃を開始した。突然の裏切りに北門、南門を守っていた上穂重清、赤須清玄は背後を突かれて大きな混乱を出し、その混乱をついて一鍬衆が大槌で門を叩き閂を破壊して城へなだれ込んだ。
「おのれ殿島重国め、これまで目をかけた恩を忘れ寝返るとは言語道断、者共、殿島重国の首を上げよ」
馬場昌房が叫び、馬廻り衆も呼応した。最低限の兵を残して西門前に陣取っていた兵を南北の門への応援として移動させ、本丸周辺に千に満たない兵を手勢として集結させた。最初に本丸にとりついたのは殿島重国の手勢七百であった。流石に殿島重国は城内の様子を知っていたから、その行動は早かった。だが士気が違った。練度も違った。最初にとりついた殿島重国は瞬く間に崩された。
「殿島重国、寝返りとは卑怯千万、その首は頂く」
馬場昌房の馬廻りの一人、島原重義が槍をつけ、殿島重国を打ち取ったが、反撃はここまでであった。渡辺前綱率いる姉小路軍が、まずは中筒隊の空砲二連射の後、一鍬衆五千が突入を開始した。手槍に小太刀という城内戦闘を意識した装備で足並みを揃えた一鍬衆の前には、殿島重国隊を屠るために犠牲を強いられ六百近くまで兵を減らした馬場昌房隊はひとたまりもなく組織的な抵抗すらおぼつかなくなってきたところに、更に南北の守備を突破したい稲葉良通、安藤守就が突撃を開始した。
「もはやこれまでか」
馬場昌房は本丸に火を放たせ、西門付近にいるであろう上穂重清、赤須清玄に飯田城へ落ちるように命じた。馬廻り衆が馬場昌房にも落ちるように説得したが、馬場昌房は言った。
「殿島重国の件があったにせよ五千の兵を預かり久米ヶ城を預かった儂が、半日足らずの力攻めで落ちるとは、何の顔あって生きられよう。この上は腹を切って詫びるのみ。……介錯を頼む」
こうして午の刻に始まった久米ヶ城攻撃は、夕刻までにほとんど一方的な形で姉小路家の勝利に終わった。




