二十六、広瀬城下の開墾攻め
評定の結果のうち、庄屋たちに選ばせる形で、検地を行い、税制を改めることに成功した草太たちであった。更に草太には、太江熊八郎という人材という貴重な部下も登用できた上、庄屋たちに余剰となっている人口二百人ほどをも供出させることに成功した次第は、既に述べた。
さて一方で、評定で定めたもう一つの策である、三木領からの人口移転を実行に移すべく、まずは行列で入国した三十名のうち十名が、数人ずつに分かれて放下僧、山伏、小商いの商人などに身を変え、まずは広瀬城城下で情報を集めることから始めた。その情報を基に残りの二十人が勧誘を行う、という手筈である。今までは方針も決まっていないため下手に手を出さぬ方が良い、という理由で三木領を通過したものから話を聞く程度にとどめていたのだが、これからは多少大胆に足を踏み入れての実地調査を行うこととなった。
無論、手代衆は彼らに代わって帳面と算盤を使っての仕事である。
過去の帳面の数字と見比べ、相場勘を働かせて相場よりも酷く高いものを探し、裏を取る。或いは、日々の暮らしに必要な潰えはどの程度なのか、城詰の足軽は何名か、というところから試算をし、それが大きく違うかどうかを見る。長方形ではない田畑の面積の測定方法や田の状態による上中下の分類の方法などにはじまり、果ては村々の視察も場合によっては行わなければならない。養蚕業についての調査も必要である。ぶり街道を通る荷の内容と量についても調査しなければならない。仕事はいくらでもあった。こんなはずではなかった、と思った手代衆も多かったろう。
庄屋たちとの評定の翌日、草太は鍛冶場にいた。供周りは平助だけである。鍛冶頭の与助は平伏して出迎えた。
「平伏は良い、面をあげよ」
平助が言うと、黒く汚れた顔の五十がらみの男が顔を上げた。
「直答を許す。どの程度の鍛冶能力があるか」
一々直答を許す、といわなければならないだけ、自分は尊重されているのか、先日の領内において直答を許すとの触れがあまり浸透していないのか、悩ましいところではある。
「どの程度の、と言いますが、作るものによりまする」
「農具だ。開墾用の、な。とりあえず鍬だ。他に開墾用に役に立つ道具があればそれも含めてよい」
「鍬、それも平型の風呂鍬であれば鉄の種類にもよりますが、鍛冶組を総動員しても一日50も作ることが出来れば上々、おそらくは30から40という辺りでございましょう」
意外と少ないな、と草太は思った。
「50に満たない、とはどのような理由だ」
「鉄を鍛えるための時間にございます。鋳物のように型に流すにしても、鉄そのものを作る能力が精々その程度、と思し召していただければよろしいかと。風呂鍬ではなく三つ子のようにするのであれば、もう少し時間がかかりまする」
そうか、と草太は納得をし、ならば急ぎ開墾用の鋤鍬の類を、平型の風呂鍬でよいのでとりあえず200作るように命じた。
この分では鍛冶場もある程度拡張も視野に入れる必要があるように、草太は思った。
鍛冶場を出た時に平助が言った。その程度の農具であれば、各村に供出させれば宜しいのでは、と。だが草太は余り各村に負担をかけるつもりはなかったため、持ってきただけで良い、と取り合わなかった。これから三木領から二男、三男を引き抜いてくるとすれば、いずれ必要となるものである。
草太の頭にあるのは、屯田兵である。普段は農作業に従事し、事あれば軍兵になる。そういう存在である。実際に、この制度自体は史実では長宗我部が戦国時代に行い、四国統一のための原動力となっている。屯田制自体は、三国志にさえ出てくるほど昔から行われてきた制度である。ただし、この時代にはまだ足軽雑兵と農民の区別がないため、意味合いがあいまいになりがちである。戦を主とし農を従とするのが屯田制、農を主とし戦を従とするのが一般の農民、という位の認識で、とりあえずは充分であろうと思う。
姉小路家日誌の弥生二十日の項に、一鍬衆二百ばかり集め候。糧秣負担付、公直々に炊き出しを命じられ候、とある。
岡前館にも槍や具足の用意はあった。ただし数は三百程度に過ぎない。岡前館と小島城を合わせて千四百ほどであり、これが動員可能な数に相応なのだろう。
鍛冶場を訪れた翌日の正午、つまり庄屋たちに余剰労働者となっている二男、三男等を集めると命じた刻限であるが、200名に近い人数が集まった。幸いにも好天に恵まれたため、三々五々と集合してるようで単なる集団に他ならない。これに統制を加えてはじめて「使える集団」としての地位を形成するのである。ただ集まっただけであれば、特に何の意味もない。少しのことで逃散して、それだけである。
この集団を取りまとめることを命じられたのは、一門衆の渡邊筑前守である。具体的な初期方策は指示してあるが、詳細は任せた。指示自体は、第一に食事を摂らせること、第二に軍事調練を行わせること、第三に農業の割り当てをすることである。勿論、こうした場合に出てくる人間は村での持てあましもの、つまりあまり勤労ではなかったり、暴れ者だったりするものがほとんどである。が、根は良い者である。初日だから特別であると米の飯を食べさせ、腹が膨れたところで城に有った具足を着せ槍を持たせた。すわ戦か、と張り切るもの、落ち込むものも多かったが、彼らを戦力としてすぐにこれから戦をするつもりはない。戦は早くて秋以降である。
ただ、具足をつけたまま隊伍を組んで進め、とだけ命じさせた。岡前館は国府盆地のほぼ北の端にある。ここから南へ、広瀬城を望む一郷まで進み、そこで反転して岡前館に戻らせる。草太がやらせたのはこれだけである。
そういえば日本の小学校では今でも列を組んで並び、行進し、班ごとに行動させる。流石に連帯責任制は廃れてきたらしいが、地域によっては残っていると聞く。これらは、日本においては軍事教練の都合により導入された制度であり、海外の小学校などではほとんど見られない、精々中国、韓国辺りの日本を参考にした国々だけである。
軍事教育を最も嫌っているはずの日教組らが、行列行進を好み進んで班ごと行動などの軍事教育そのままの教育を行っているのは、皮肉以外の何物でもない。
たまらないのは広瀬氏である。客観的に見れば、国府盆地周辺の里から足軽を集め、農繁期に差し掛かり雑兵小者が手薄になった時期に攻めよせて来たように見えるのである。陣触れを知らせる太鼓がなり、農民たちは農業もそのまま、田植えもそのままに城に集められた。物見の結果、数は200ほどと小勢であったが、城から出たところで小鷹利城、小島城などの兵を伏せられていてはたまらない。200程度で落ちるわけもないが、防戦の準備として湯を沸かし木石を集め要所に兵を配して待機させた。物見の報告では、渡邊筑前守が主将と見えた。
しかし、草太たちの狙いは武器防具をつけて隊伍を組んで歩くことに慣れさせる、というだけなので、広瀬氏の領内に入る手前でいったん止まり、反転して岡前館まで戻ってこの日は終了である。城に戻った後藤隊は、その日は仮設の陣屋を組んで眠った。
肩透かしを食ったような形になった広瀬城側であったが、兵が境を越えずに粛々と帰るのを見て、とにかく兵を農作業に戻していった。
翌日も同じように兵を差し向け、広瀬城側は今度こそはと思い兵を集める。しかしやはり境まで来て一旦停止し、反転して戻るだけである。これを3日繰り返した。
堪らないのは広瀬城側である。広瀬城主広瀬宗城は、城攻めこそないものの、誘い出して野戦を行おうとしていると警戒していた。特に仕えている三木直頼が現在の姉小路家当主姉小路房綱を暗殺しようとして失敗したことを知っているため、国入りの挨拶に向かった際も相当の覚悟を決めていた。もっとも、祝いの席で、名代を暗殺するなどは考えにくかったには違いないが。
そのため、連日の小勢での動きはこちらを誘い出す動きにしか見えず、兵を集めていた。この時代の兵は、即ち農民である。田植えは、時期を外すと収穫量が格段に落ちるが、背に腹は代えられない。しかし、年貢は検地帳に応じて作柄を見て決められるため、広瀬宗城にとってはそれほど大きな負担ではない。だが農民にしてみれば田植えの時期に兵として集められ、しかも年貢は変わらないため、損害は大きい。
四日目の夜、農具二百が完成したという知らせがあり、広瀬城との境にある荒れ地の開墾を命じた。五日目、主将は相変わらず一門衆の渡邊筑前守、副将に太江熊八郎とし、境に空堀を掘り逆茂木を組んだだけの簡単な陣を張った後、開墾、特に畑を作らせた。流石に具足や槍の類は用意してあるものの、やっていることは開墾である。大きめの石を転がして境に寄せ、時折生えている樹は材木として物見やぐらの材料として使われた。
副将の太江熊八郎は、流石に庄屋である。開墾も手慣れたものであり、荒れ地は旬日を待たずして畑としての体裁を整えつつあった。土地がやせているように思われたので、蕎麦畑である。蕎麦の実は、お救い倉の中のものを使った。雑草取りなど、それなりにやることは多いが、開墾が一段落し蕎麦を播き終わると、常時百名ほどを軍として教練を繰り返すことが出来た。
一方、これを広瀬城側から見れば、同数同士であれば充分に撃退できるだけの陣を張っているように見え、長期的ににらみ合うことを前提としている、つまり自分の属する三木氏と公然と敵対すると宣言されたに等しく思われた。広瀬城からの物見は逆茂木に阻まれて開墾しているというのは見えない。しかも、軍事教練を繰り返しているという報告もあった。数百という兵ではあるが、城を出れば後詰が出てくるのは確実と思われ、野戦で兵を失い過ぎれば広瀬城さえ落城する。そう考えると、野戦という選択は取れない。特に既に陣まで築かれた以上、最低でも秋までは警戒を緩めることは出来ない。兵は農地に返さなければならないにせよ、一部は残して守備兵を増やしておく必要があるように思われた。
一滴の血も流れず、一本の矢さえ放たれないが、広瀬城はじりじりと消耗していった。その意味でこの策は城攻めという側面も確かに持ち合わせていたといえるだろう。
活動報告にも書きましたが、飛騨統一までの間は毎日0時に更新します。
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