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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第七章 戦と内政と
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二百四十九、妻籠城攻防戦

 草太が伊勢討伐を終えた次第については既に述べた。だが南北近江兵はその数を半減させており、その回復には時間がかかる見込みであった。だが同時期に東美濃でも戦の火の手は上がっていた。



 姉小路家日誌弘治二年如月十日(1556年3月22日)の項にこうある。

「渡辺前綱様、雪山を越えて兵を動かし妻籠城を攻め候。竹中重治、功ありといえども不賞しょうせず

 美濃の陣、その最終段階であり引き続き南信濃進行の最初期につながる妻籠城攻略が伊勢討伐の裏で行われていた。これは竹中重治の策、つまり三河松平家の当主松平元信を三河に釣り出す策、その一環としてのことであると考えられている。このことは直後に行われた南信濃侵攻時、三河との国境に当たる吉岡城にかなりの兵を入れていたという事実も傍証として挙げられている。

 実際、美濃の陣といった場合には、その最終段階は妻籠城攻略と木曽義昌に対する備えを行い、木曽路の妻籠城での防衛体制が完全に整うこの時点までを指すのが一般的である。



 荷を乗せたそりを引いた輜重隊がまた一隊、苗木城に届いた。

 冬の間の物資輸送は、流石に姉小路家にとっても骨であった。当初は大八車などの荷車を使っていたが、雪が積もってくると使えなかった。仕方なしに人足に運ばせたが、量が量である、膨大な数の人足が必要となり、さらに人足にも食事を充てなければならないという問題が起こった。だがそこは飛騨の山奥が元々の本領の姉小路家であった。当初は馬による振り分け荷物を使って急場をしのいだ後、橇を用いて荷車に匹敵する輸送網を完成させた。勿論夏の間の荷車と全く同等とはいかず、橇は橇で考えるべき問題は沢山あったには違いないが、それでも補給路はなんとか維持することが出来た。

 木曽路も、軍が進むことのできる街道という意味では雪に閉ざされていたが、人通りがなくなるわけでもなかった。行商人の類は常に出入りし、お互いにお互いの情勢を探りあっていた。竹中重治は南信濃の情勢をつかみ、また国人衆の調略を進めていたが、結果は思わしくないというのが現状であった。調略できたのは豪族に近い国人衆を中心に七家であり、目標としていた二十一家の半分にも届かなかった。

 それでも動くべきだと考えたのは、竹中重治の策に草太が付け加えた一項、三河寝返りの際に今川家が兵を出せば姉小路家も兵を出す、という一項を説得力のあるものとするには、早期の南信濃への侵攻、特にその南端の吉岡城を奪取する必要があった。


 渡辺前綱は、寒さしのぎの白湯を飲みながら妻籠城攻略の策を練っていた。力押しでは夏場であっても相当の被害を覚悟しなければならない、という結論は既に出ていたが、それでも被害を抑えるための方策を練るのが武将の務めであった。だがいくら考えても愚直な力攻めはあまりにも被害が大きく、かなりの問題があった。


 一方の妻籠城主島崎重綱は、正月に木曽義昌の屋敷に伺候した際に重要なことを言われていた。場合によっては木曽家は姉小路家に下る、と。

 先年の飛騨攻めで大きな被害を受けたばかりか、善光寺平での甲斐武田家と越後長尾家の戦いの裏では反乱の兆しありとして攻撃された。主だった重臣は全て甲斐武田家の家臣に置き換えられ、木曽義昌も重臣たちも人質を取られた。木曾谷の内政も実質的には甲斐武田家の監視の元で行われており、更に今後姉小路家との戦いでは最前線の一角として被害を強いられすり潰されることは目に見えていた。甲斐武田家に恨みもあれば実利として不利も多かった。ならば、と木曽義昌は、人質を捨ててでも寝返りをする、という方策をすら考えに入れていた。

 島崎重綱は流石に戦国武将であった。大事のために人質に固執しないことは結構なことだと思ったが、さりとてこれから先に行わなければならないことは難しいとも思った。妻籠城の防衛に手を抜くことは簡単であった。冬ということで現在では千五百が籠るのみ、これ以上は補給が持たなかった。この兵力を例えば春になっても増やさなければ、攻略されるまでにそれほどの時間はかからないはずであった。だが手を抜きすぎればそれを口実に木曽家はますますの窮地に立たされることは必定であった。

 島崎重綱の悩みは深かった。



 竹中重治は、雪のあるうちに妻籠城を落とすことを考えていた。木曽路を甲斐武田家の部隊が攻め上ってきた場合には妻籠城を落とすのは至難の業になることは明らかであり、木曽家が木曾谷から軍を発するだけでも厄介極まりないものにいなるためであった。早ければ如月十五日、遅くとも十八日前後には西美濃から一鍬衆一万二千、中筒隊四千が後詰めとして大垣城から苗木城へ到着することが決まっていた。ただし武将衆は木田八郎が引き抜かれた代わりに美濃衆より安藤守就が増派され、また後詰の将として不破光治と軍学校から二期生が二人入ることが決定していたため、将という面では不足はなかった。

 問題は、どのようにして妻籠城を落とすか、であった。

 少し調べただけで島崎重綱が木曾家を裏切ることは考えられないことであると分かった。更に木曽家も調略はほぼ不可能であることも分かった。木曽家の重要な方針を決めるのは、実質的には甲斐武田家からきたものであるためであった。そこで策を弄しての攻略となった。


 木曾街道の妻籠の宿から妻籠城に、毎日細々と人通りがあり荷が運ばれていることが確認された。その内容は食料の他、酒、女といったものであった。本格的に籠城しているわけでもなく、姉小路軍の出陣までは城内待機であったから、この位は十分に予想の範囲内であった。目立たぬように少しずつ、だが確実に竹中重治は手の者を妻籠城に入れていた。あるものは飯盛女であり、あるものは行商人であったが、潜入したにしても彼らが立ち入れるのは精々入り口付近までであった。平野神右衛門の手の者も猟師として獲物を売りに行き雑兵と入れ替わろうと試みたが、全員が顔見知りのような小城ではこの手を使うのは難しかった。そこで竹中重治は非情の手を取った。

「平野神右衛門、そなたの手の者を兵糧蔵に入れ、毒をまけ。死毒ではなくゆっくりと効く腹痛はらいた程度、下す程度がよい。出来るか」

「渡辺前綱様はご存知ですか」

「無論。何かあっても責任は私が取る」

 竹中重治は、無論ご存じない、と続くべきだが、無論、の後を誤魔化した。いつ腹痛が出る、と尋ねれば三日の内に症状が出、五日後には兵の大部分に症状が出る、とのことであった。

「腹痛で動けぬものが多く出た際に攻めかかり城を落とす。奇襲をかけるのは我が隊、一鍬衆千二百、中筒隊三百で行う」


 苗木城では定期的に軍議が行われていた。その軍議の大部分は兵と物資の状況と敵陣の様子の確認であったが、如月七日(3月7日)の軍議はそれで終わらなかった。渡辺前綱が言った。

「毎度のことながら確認をしておこう。兵も物資も特に大きな消耗もなく、調練も街道整備はやはり良い訓練になるし、平野部も調練を行う程度には開けているから、練度にも問題はない。伊那谷の甲斐武田軍の動きはどうだ」

 平野神右衛門が報告した。

「特に大きな配置変換は確認されておりません。まずは飯田城を中心に馬場信春が二万の兵を、高遠城には武田信繁が一万の兵を領しております。ただし馬場信春隊のうち半数以上は伊那谷から集められた兵であり、兵の練度は中枢の約七千を除けばさほど高くはないうえ、久米ヶ城、吉岡城に分散して兵を配備しております。分散している兵の内、久米ヶ城には馬場信春の嫡男馬場昌房が、馬場信春隊の内五千を率いて入っております。吉岡城は城主の下条信氏が付近の国人衆三千と共に入っておりますが、士気は完全に弛緩しております。高遠城の武田信繁隊一万の大部分は中信濃と甲斐の兵が中心であり、むしろ厄介なのはこちらでございましょう。周辺の城は国人衆に任せて高遠城の防備を固めております。伊那谷の北端、箕輪付近には諏訪家の兵がいるとの報告もありますが、今のところ少数なので気にすることはなかろうかと」

 ご苦労、と渡辺前綱が声をかけこれで軍議は終わるのが常であったが、この日ばかりは竹中重治を見て言った。

「そなたは何か言うべきことがあろう」

 は、と竹中重治は策を述べた。渡辺前綱はやや不快気になりながらも平野神右衛門に毒のことを尋ねると、既に撒き終えており一部の兵にその結果が出始めているということであった。

「二日目か三日目から、長くとも十日ほどの腹痛と下痢、それだけの薬でございます。命に別状はございません」

「その隙に攻め寄せよ、というのが策か。竹中重治、それがそなたの知恵の限りか」

 渡辺前綱の声は不快を隠していなかった。竹中重治は平伏したまま、落城させるための策でございますというだけであった。


 渡辺前綱は、それでも将であった。罪は罪として、妻籠城を攻める絶好の機会であることは間違いなかった。そのため、この策を承認して言った。

「竹中重治、そなたに預けてある手勢千五百で妻籠城を攻略せよ。木曽路は整備してあるとはいえ冬のこと、明日戌の刻に出、夜の内に妻籠城下に入り、払暁より攻撃せよ。温石など防寒対策は忘れるな。落とした後は特に木曾谷からの兵へ向けての防備を強化せよ。相手は服属しているとはいえ甲斐武田家、防衛には万全を期せ。そこまでできればこの度の不祥事は不問にする。そして稲葉良通、そなたは明後日払暁、一鍬衆三千、中筒隊八百に輜重隊を率いて妻籠城へ向かいおそらく木曾谷からでてくるであろう木曽義昌の兵を防げ。ご苦労だが輜重隊には妻籠城増強のための物資も運んでもらう故、そのつもりで支度せよ」

 勿論渡辺前綱は自身が打って出ることも視野には入れていたが、そうなれば苗木城が手薄になりすぎ、また遅くとも五日後には到着する後詰に指図を出す必要性から苗木城から動けなかった。だが手は打つ必要があった。

「誰ぞある、お屋形様と飛騨の牛丸重親様に使い番を出す。支度をいたせ」

 さすがに一門衆に連なる渡辺前綱であっても、甲斐武田家との開戦を無断で行うことは憚られた。既定路線とはいえ、事後承諾でも報告をしなければならなかった。



 翌如月八日戌の刻、流石に温石など防寒対策は十分にしたもののまだ身を切るような寒さの中、竹中重治は一鍬衆千二百、中筒隊三百を率いて出撃した。向かうは無論妻籠城、距離にして約五里の峠道を払暁までに踏破し、払暁直前の寅の下刻に攻撃を開始する、というのが攻略作戦の骨子であった。物資輸送を担う輜重隊は後続の稲葉良通隊と共に向かうため、行軍速度は一刻一里と見込んでいた。竹中重治は自身の家臣である喜多村直吉に先陣を任せ、自身は中衛より少し後ろを進んでいった。妻籠城から半里の地点で小休止を取り、五平という平野神右衛門の手の者が城中の様子を教えてきた。竹中重治の策の通り、兵は大部分が腹痛で動けず、動けるものも看病に忙しいために妻籠城の警備は既に破たんしていた。

「策の通り、か。十人を毒で殺せば兵は十人しか減らずかえって警戒が強くなるが、十人を病に落とせば兵はその看病のために二十人、三十人と減り、警戒も緩むもの。後味は悪いがこれも世の定め。……黎明の頃には突撃する。喜多村直吉、土嚢袋に雪を詰め堀を埋め塀を越えよ。中の兵は降伏するものは降伏するに任せ、島崎重綱は可能な限り死なせるな。五平とやら、解毒の薬の用意はあるな」

 既にいつなりとも用意はできてございます、という五平の言葉に、竹中重治は言った。

「前進を開始させよ。妻籠城がいかに堅城といえども兵がなければ守れまい」


 妻籠城の守備兵に黎明の薄暗闇の中で突撃を開始した一鍬衆に気が付いた者はほとんどいなかった。病みついた味方を看病しつつ周辺を警戒していたが、それも夜明け直前の時間帯は最も見えにくい時間帯の一つであった。もう少し時間が過ぎ日が昇った後であれば人がいるかどうかは発見できることも多かったが、城下にある妻籠の宿からの行商人がほとんどであり、遊び女を迎えに来た牛頭馬頭もいないこともなかった。

 だが黎明の夜明け直前の時間帯では雪の積もったところと吹き飛ばされて岩場になったところ、吹き溜まりが出来てその陰になったところなど毎日のように変わり、小動物や鹿、猪の類、場合によっては穴持たずの熊まで見かけることがあり、動いているのは辛うじて判別できたとしてもそれが人かどうかは見分けろという方が無理であった。吹き込む風の寒さもあり、見張りをしている兵もほとんど外など見ておらず、時折見回しては火鉢で温まるのが常であった。

 そこに一鍬衆千二百が突撃した。

 瞬く間に半ば以上雪の積もった堀を埋め塀を乗り越え、手槍を構え、或いは小太刀を構えた一鍬衆が妻籠城に乱入した。乱入当時、妻籠城の守備兵千五百は八割以上がまだ眠ったままであり、或いは病のため動けずにいた。わずかに起きだしていた兵や不寝番を合わせても精々三百、それもほとんど組織的な抵抗をする暇も、下手をすると胴丸もなしに手に槍を持った程度で駆けだしてきただけの軍勢であった。このような奇襲を受けては敵うはずもなく、十名、二十名とまとまることもできずに降伏していった。


 島崎重綱は、流石に最前線の重要拠点を任せられるほどの武将であり、腹痛はあったが色にも見せず、甲冑は解かずに本丸にいた。騒ぎを聞きつけ周辺には既に近侍が十数名集まっていたが、既に勝敗は決したものと見えた。自身の脱出さえ無理があると見た島崎重綱は、迷わず切腹することを考え、本丸に火を放つ支度をするよう指示を出した。

 その指示を出して近侍が島崎重綱の前を出る前に軍使が来た。竹中重治の家臣喜多村直吉からの降伏勧告であり、妻籠城の割譲、農民からの徴募兵の解散を条件に、島崎重綱以下の城外退去を認める、という内容であった。無論、病人は姉小路家が治療にあたる、という条項も入っており、署名花押は竹中重治とあった。

 妻籠城の割譲、などというが、既に姉小路家の手に落ちていた。要するにこの降伏勧告は、島崎重綱を木曾谷へ落とすこと、そして割譲したという形をとることで木曾谷からの妻籠城への攻撃を防ごうという狙いがあるものと見えた。ならば、と島崎重綱は考えた。逆手にとって木曽家の兵をかき集めてでも再度攻撃する、仮にも自分が入っていた城であったから弱点も分かっている、充分な勝算があるように思った。

 結局、島崎重綱はこの勧告を受け入れ、木曾谷へ向かって落ちていった。


 その夜には妻籠城に稲葉良通隊が到着した。

 その間にも病人には薬を与え粥を与え、比較的軽症で看病に疲れた者達には一鍬衆に餅を突かせて共に喰らい、充分に回復した者たちとは共に酒を飲んだ。三日目には全員の病状が回復したため路銀として銭五疋と少量ではあるが食料を与えて解放した。千数百という口が妻籠の宿へ、そして木曾へ、また南信濃へと散り、仏の姉小路の名を高める役割を果たし、今後の姉小路家の支配に対し大きな利益として帰ってくるのであった。


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