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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第七章 戦と内政と
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二百四十六、伊勢討伐(七)

 姉小路家と伊勢北畠家との最初の本格的な戦闘である木造城を巡っての戦いは、ある意味で一方的な形で姉小路家の勝利に終わり、木造具政の降伏という形で木造城は姉小路家の手に落ちた。この次第については既に述べた。

 草太は捕虜のうち名のあるものを北にある名刹、浄土真宗高田派の総本山専修寺に預けて本格的な処分は伊勢討伐終了後とした。その中で最も大物は伊勢北畠家の当主北畠具教であったが、その当主は名ばかりであり実権は未だ北畠晴具が握って離さないということを草太は良く知っていた。兵の大部分は既に打ち破っていたもののもう一波乱ある、草太はそう感じていた。



 細川藤孝が提出したとされる伊勢討伐始末にこうある。

「北畠晴具、しきりに一揆を扇動するももはや動くものなし。鳥屋尾満秀、田丸城、笠木城を放棄して大河内城に手勢を集め、籠城の構えをとりたり」

 木造城近郊での戦いの終わりは、伊勢討伐の大半が終わったのと同義であるといってよい。なぜならこの戦が終わった後の伊勢北畠家の勢力は既に地に落ちたも同然であり、この後は農民兵でさえほとんど集めることが出来ず、結局のところ組織的な抵抗があった大河内城の防衛でさえも他の城の兵を集めて対応しようとしたとされている。もっとも木造城への援軍を集める際に既に大部分が集められており、守備隊を強引に引き抜いて対応していたため志摩の国人衆には無視されたという、権威の凋落を象徴するような事例も多数起こっている。力によって抑えてきた反抗が、より大きな力を目前にした瞬間に噴出した好例として語り継がれるという意味で、名を千載に残したといえるかもしれない。



 弘治二年如月八日(1556年3月20日)、霧山御所の庭にしつらえた四阿で北畠晴具は難しい顔をしていた。伴は近臣の藤方朝成のみで、四阿あずまやの外にも警護の者は見えなかった。

 霧山御所は北畠晴具の居城であり、評定の間で政務をとるよりも奥の院の四阿で少数の謀臣と謀を巡らせるのが近年の習慣であった。評定の間や政務の間でも良いが、家督を譲った身であるためあまり表に出ぬようにしていこうという意図があった。

 だが藤方朝成のもたらしたここ数日の報告は耳を疑うものばかりであった。足利将軍家と対立し姉小路家が討伐に駆り出された、ここまでは概ね予想の範疇であり、姉小路家の主力が伊勢へ向かっている間に三好家が西から山城を、また石山本願寺が各所で一向一揆を起こし身動きが出来なくなれば、甲斐武田、駿河今川なども東から上洛の動きを見せ、その窮地の中で伊勢北畠家のよりよい地位を確立するというのが策の大枠であった。予想よりも半月近く遅れたとはいえ、確かに姉小路家は動いた。三好家が河内が図らずも手に入ったので山城攻めから大和攻めへと変えるといっても、それはそれで微々たる差であった。いずれ姉小路家を西から攻めるという点には違いがなかった。むしろ六角家との連携が取りやすくなる分だけ大和でも良かったかもしれなかった。

 だが肝心の伊勢での戦いの推移は驚くべきことでしかなかった。姉小路家の本隊が出陣したのが如月三日、それなのに木造城での決戦が六日に行われ、しかも惨敗に終わったという。集めていた兵は、木造城付近に一万五千余、大河内城付近に三万余。だが木造城の決戦後には大河内城に三千を切る程度しか残っておらず、撤退してくる兵を収容しても五千には届かないだろうということであった。藤方朝成が言った。

「大殿、この霧山御所にも兵はおりますが、それでも戦力に数えられるのは精々二千といったところ。武芸の達者なものが多いのは事実ですが無類の強さを誇るわけでもありません。精兵はすべて大河内城へ、殿の馬廻りに編入してございます。それでも今後も戦うのであれば兵は必要でございますが」

 藤方朝成が言葉を切った。北畠晴具も察していった。

「分かっておる。今更徴兵をかけても、無理に数を集めてもその後が続かぬ。下手をすれば内応されるだけで一利もない。……水軍はどうした」

「動かす暇がございませんでした。既に動員はかけておりますのでいつでも動かせましょう」

 いわゆる志摩七家十三地頭の大部分は伊勢北畠家の指示で戦力を集めていた。場合によっては姉小路家の後方に上陸しその背後を脅かす、というのがその目的であった。だが動かす間もなく合戦は終わった。であれば戦力は残っているはずであった。

「大河内城の鳥屋尾満秀からの献策では、周辺の城は一旦捨て、全兵力を大河内城に集めるべし、と」

「勝てると思うか」

 この問いの答えは難しかった。籠城で勝てる、というのは援軍が来るのでなければ相手が攻め疲れて引く以外にはありえないことを知っているためだ。だがそれを正直に言うほどの人物では北畠晴具の近臣は務まらなかった。

「現在のように分散しているよりは勝負になりましょう」

「ならば、各城の守備隊もすべて根こそぎに集めよ」



 一方の姉小路軍は木造具政が降伏した夜には木造城に入っていた。阿漕の陣は残してはいたものの、田中弥左衛門の家臣革島一宣が足利将軍家の越前兵が追いついてくるまでに必要なだけであり、その大部分はすぐに、畑や水路が損壊していた部分については一鍬衆が手を貸して修復し、裏作の春小麦の被害については市価に色を付けて買い取る形で復旧作業が行われることとなっていた。

 とはいえ細川藤孝を中心とした越前兵千については既に到着していたため、木造城に草太と共に入っていた。草太自身は雲出川の南に陣を取るつもりでいたが、そうはいかない事情がいくつかあった。一つは足利将軍家の越前兵にも手柄を立てさせるため越前兵三千がそろうのを待つためであり、もう一つはある人物と会うためであった。


 真宗高田派として知られる専修寺の堯真上人であった。戦が落ち着けばすぐにでも会えるようにということなのか、阿漕の陣のすぐ北の村で布教活動として末寺にいたらしかった。阿漕の陣で住む場所がなくなっていた民を受け入れ炊き出しをしていたとも聞いた。そのため戦がひと段落して草太が木造城に入った直後に訪ねてきたのだった。

 真宗高田派には内々には北近江を陥落させた直後から工作は始めさせていたものの、草太が実際に堯真上人に会うのはこれが初めてであった。当初草太は上座を譲ろうとしたが堯真上人は笑って「軍中でございます故」と取り合わず、それが自然であるとばかりに下座に、草太と向かい合う形で座ってしまった。草太が知る中ではこのような高僧でこういう真似ができる人間はただ一人、顕誓のみであった。この時点で草太は堯真上人を好ましく思った。

 互いに挨拶を交わした後、堯真上人は笑って言った。

「お願いがあってまいりました。というのはですがな、今回の調略、我らも大きく手を貸しまして、その恩賞を頂きたいのでございます」

 この言葉に草太の顔は一気に曇った。だがその顔にかかわらず堯真上人は続けた。

「恩賞というのは、長島に籠っている一向宗のことでございます。できる限りで結構でございます故、なるべくお助け頂けませんか。……なに、おなじ真宗同士、石山の先々代実如殿の頃までは対立もさほどではなかったものでございます。我ら僧にも欲がある、という考え方から武士の真似事までするようになりましたが、それは僧の罪、民にはございません。精々、石山本願寺への追放まででお許しいただけませんか」

「専修寺への荘園の寄進を要求するのでは」

 少し顔の曇りが取れた草太の発言に対して堯真上人は言った。

「寺社の維持ができれば、あとはさして不要に存じますよ。維持にも面倒がかかり僧兵も必要、別当も必要。それよりは民を善導する方がよほどに開祖親鸞聖人、真慧上人のご意思にかないます。最低限度、寺が維持でき僧が餓えなければ、現在の荘園も不要、僧兵も不要。といって僧兵は治安維持もさせておりますから不要と切り捨てるのは可哀想かもしれませんがな」

 草太の顔がかなり晴れたのを見て堯真上人は言った。

「比叡山のことは聞いてございます。寄進として金銭で維持費を頂けるのであれば、荘園については別当も引き上げさせましょう。治安維持をしていただけるのであれば僧兵団も解散させますし、よろしければ僧兵団を治安維持の一翼を担う者として差し出す用意がございます」

 草太は不思議な気持ちになった。今回は戦ということで顕誓は連れていないが、顕誓と引き合わせたくなった。

「恩賞の件、相分かった。……紙筆を持て。二枚だ」

 小姓が差し出した紙筆にさらりと二枚の紙に一筆書き、署名花押を書き入れた。

「恩賞として手向かいせぬ限り今も長島城に籠る者達の一命は許す。これは僧も同じだ。もう一つ、これは節介かもしれぬが、城門前まで行く便宜を図るよう指示もしてある。平野右衛門尉に見せるが良い。城門から中は保証できぬがな」

 ありがたき幸せ、と下がろうとする堯真上人に草太が言った。

「会わせたいものがいる。近いうちに観音寺城に顔を出してもらえればありがたい」



 如月十一日夕、漸く越前兵が阿漕の陣に着陣した。草太は出陣前の軍議を行うべく、木造具政が最後の宴を行ったまさにその評定の間に諸将を集めた。

「皆、ご苦労である。軍議、というが既にほぼ全ての議論は尽くした。今日は最新の情勢の共有と今後の作戦確認が主となる。が、情勢の変化により気になることがあればいつでも発言するが良い。……では、服部保長」

 指名された服部保長が最新の情勢の報告を始めた。

「まず知っての通り我らは木造城攻略の折、大河内城から出撃してきた敵兵を撃破した。その数は一万四千から五千と見積もられていたが、大河内城を出撃した兵数は全く異なっていた。約三万という数であった」

 この報告に一同に少しどよめきが走った。それが収まるのを見てから服部保長は続けた。

「この一万数千の兵が今どこにいるか、大河内城やその他の城に入っているのか、どこかに陣を構えているのかについて調査をしたが、結論だけ言えば単に逃亡しただけだ。このまま北畠家の支配に戻せば山賊騒ぎや一揆が起こるかもしれないが、少なくとも集合して姉小路家と対立する可能性はかなり低い。むしろ善政を敷けば村に帰るだけで平和裏に解決される問題であろう。北畠家につく可能性は極めて低いといってよい」

 一息ついてから続けた。

「問題は、北畠家は伊勢を諦めたと見られることだ。ほとんど全ての城から守備兵ごと大河内城に引き込んでいる。そのために他の城は空だ。盗賊対策に数十人程度が残っているだけで、全部で大河内城に籠っている兵は五千程度になると見られている。ただし志摩と紀伊の国人衆は拒否した模様だ。それからおそらくはこの大河内城の兵は知らぬことだろうが、霧山御所へ向かう高須の峰の街道の難所に何カ所か、隘路を爆破するための準備と見られる封鎖工作をした兆しがある。霧山御所は攻められないと見た方がよかろう。大河内城の守将鳥屋尾満秀はおそらくは知っているだろうが」

 草太は少し不思議に思って尋ねた。

「霧山御所に籠ったとして、その先の展望は何がある」

「なにも。どこか味方勢力が伊勢を攻めとったとしても、既に恨まれすぎているために伊勢支配の旗印にも使えませぬ」

 服部保長はにべもなかった。最新の情勢で新たな意見も出なかったため、草太は命を下した。

「ならば大河内城攻略までは特に戦略は変えずとも好かろう。九鬼嘉隆、一鍬衆五千、中筒隊千で志摩を攻略せよ。予定より少し負担が大きくなるかもしれぬがよろしく頼む。磯野員昌、大湊へ圧力をかけよ。服部保長、大湊から大河内城への兵は……矢銭と傭兵か。ならば圧力は強めでもよかろう。織田信長殿との話もある故にな。市川大三郎、一鍬衆千五百、中筒隊五百を率いて阿坂城、田丸城、笠木城を落とせ。さして兵はいないからこれでも問題はあるまい。残りは大河内城攻めだ。出陣一番は田中弥左衛門、一鍬衆三千、中筒隊千で黎明に出撃、大河内城の直前に陣を築け。細川藤孝殿、出陣順は二番をお願いしたい。その後適宜、出陣する。土肥但馬守、一鍬衆千五百、中筒隊五百を残す。木造城を守備せよ」

 一同に異存がないことを確かめ、軍議は終わった。


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