二百四十五、伊勢討伐(六)
今回はかなり長め(当社比二話分位)となっています。ご注意ください。
遂に木造城における姉小路家と伊勢北畠家の合戦の火ぶたが切って落とされた。伊勢北畠家は長期持久の策を取り姉小路軍の侵攻を木造城とその南部を流れる雲出川を頼りに食い止めようとしたが、伊勢国人衆の大量離反によりその戦略は根底から覆されつつあった。払暁よりほんの数刻の内に木造城より上流に作られた一の砦、二の砦は攻略されその背後に設けられた仮設橋も姉小路家の手に落ちた。この次第については既に述べた。
同時に滝川一益率いる姉小路軍左翼が木造城の下流にある三の砦へ手を伸ばし、また草太率いる姉小路家の中央も木造城に迫っていた。
姉小路家日誌弘治二年如月三日(1556年3月14日)の項にこうある。
「公、右翼の土肥但馬守、左翼の滝川一益の前進を見、また公自ら兵を率いて木造城を圧迫いたし候。木造城の籠城の構えを見抜き、中筒にて撃ち竦めて後方へ抜け候。雲出川南岸にて伊勢北畠家の本隊と野戦、大いに破り候処、木造具政、降伏いたし候。(略)田中弥左衛門、阿漕の陣にあり、足利将軍家の越前兵を迎え候」
木造具政の降伏はある意味で謎の多い降伏である。というのも、城内には銃弾こそ撃ち込まれていたもののほとんど無傷であり、水の手もあり兵糧も多く、姉小路軍がこの先に進むとすればのどに刺さった骨のごとく厄介な存在になりえる、そういう立ち位置である。もちろん姉小路軍が全力で力押しをすれば落ちるであろうことは明白だったが、姉小路軍の兵にも少なからぬ被害を出させることは難しくないように思われる。勿論、援軍の兵が目の前で破られたことが原因の一旦であったことは事実であろう。だが木造具政は猛将であった、というのが、これ以降の活躍からも知れるところである。
だからこの時点で父北畠晴具、兄北畠具教を裏切ってまで降伏したのは解せない。或いは家督争いのような暗闘が行われていたのかもしれない。
両翼が前進を開始し順調に進んでいるという報告を受けた草太は、少し奇妙なものを感じていた。順調すぎる、という違和感であった。勿論砦に入ることのできる兵には限りがあり、結果的に事前諜報の兵数とさほど変わらない数になっているということは十分に考えられる話であった。木造城に援軍全軍が入り野戦の構え、ということも考えないではなかったが、それならばそれで問題はなかった。或いは、氏家直元の言ったように、渡河後の待ち伏せ、野戦と挟撃を考慮しておくべきであろうとも思えた。
とはいえ、当初の作戦とは特に大きく変える必要はなかった。
木造城まで一町の距離から中筒隊千名に命じて威圧射撃を開始させた。これによる殺傷はさして期待していない、というよりも半数は火薬のみの銃撃であり弾丸は込めていない。どうせ壁を抜けるほどの威力がないのは織り込み済みであった。それよりも城内の兵が動揺すること、城内でくぎ付けになることを重視した戦術であった。弾丸を込めた隊は櫓の上部近辺を中心に撃たせた。こちらの動きを見られても不都合はないが、やはり見せない方が色々とやりやすいのも事実であるからだ。
銃撃の直後、二手に分かれて本隊が前進を開始した。念のため木造城から一町半ほどの距離はとっていたものの、左翼側を草太が一鍬衆二千、中筒隊千五百、騎馬隊二千を率い、右翼側を磯野員昌、九鬼嘉隆が一鍬衆四千、中筒隊千二百を率いて一気に川岸まで駆け抜け川岸で陣形を整えた後、木造城と雲出川の間にある仮拵えの木柵の陣を挟撃した。一瞥して青い旗が掲げられていないのを見て、左翼隊、右翼隊共に殲滅させる態勢に入った。
まずは上流側、下流側合計二千七百の中筒隊が火を噴いた。元々三千程度の農民兵主体の兵が、立っていれば上半身をさらすような低い土壁しかなく逆茂木ですらない柵があるだけの、いわば間に合わせの陣に居合わせただけであったため、最初の一撃で千近い死傷者を出し、更に陣内は大混乱に陥った。この陣とも言えない陣の守将である渡辺守信もこの銃撃で負傷して意識を失い、郎党の手によって急ぎ木造城へ運ばれていった。当然の帰結として残された二千近い兵も木造城に入ろうと殺到したが、これは完全な悪手であった。右翼より九鬼嘉隆に率いられた一鍬衆二千五百が、左翼より吉田右衛門に率いられた騎馬隊千、一鍬衆千が追撃を開始、木造城に入ろうとした兵の半ば近くを食い破り降兵は九百を数えた。逃げ散る農民兵も多く見逃したため、結局三千の兵の内木造城に入ることが出来たのは五百に満たなかった。草太は仮設橋を確保するとともに仮拵えの陣とも言えない陣を、空堀を掘り土嚢を積んで陣としての体裁を整えた。これは木造城からの逆襲に備えたものであった。
午の下刻、陣は一応の完成を見、また対岸にも空堀土嚢を互い違いに二重に引いた仮の陣が立てられ、流石に火を使っての煮炊きは憚られたため蕎麦餅で腹ごしらえをしたが、木造城は静観を保っていた。草太も川を渡り蕎麦餅を食べていたが、気にしていたのは大河内城に集結していたはずの兵四万の行方であった。姉小路家の調略に応じてその数を減らしているにしても、常備兵が少なく見積もって二万程度はいることが分かっていた。またいわゆる北畠四家老や北畠晴具の腹心、藤方朝成が調略に応じるとも思えなかった。服部保長の見立てでは三万程度が出撃してくる上限であり、またここで出撃しないのであればじり貧になるのは自明のため、出撃しない可能性は相当低いと思われた。
問題はその位置であった。こればかりは物見の報告を待つしかなかったが、仮設橋を確保して一刻半、未だに発見の報がなかった。
時は少し遡る。
如月五日、木造城からの使い番により大河内城で兵を集結させつつあった北畠具教は翌朝の姉小路家の攻撃を知り、驚いた。如月三日、姉小路軍が観音寺城を出た、という報告は既に受けていた。そこから移動するとしても木造城まで二十五里、途中鈴鹿峠もあることからまだ十日程度はあると考え、兵の終結と調練に重点を置き木造城近辺には付近の国人衆を中心とした兵を展開していた。
だが驚くことに既に阿漕に陣を張り降伏勧告まで行われていた。どれほどの兵力かは不明であるが、それにしても明日には攻撃、と挑発されたとあれば受けて立つのが武門の務めであった。
「芝山秀定、水谷俊之、そなたらは訓練地へ赴き兵をまとめてその地より出陣せよ。大宮含忍斎、今すぐに動ける兵をまとめて出陣準備だ。どれほどになる。……一万二千か。ならば大宮含忍斎、五千で先行せよ。残りは儂が直々に率いる。鳥屋尾満秀、二千を預ける。悪いがこの兵とそなたの手勢でこの城の守備を頼む」
お待ちください、と諫めたのは大宮含忍斎であった。
「そう急いで出陣するのは危険でございます。まずは物見を。それから訓練地から直接出撃と申しますが、まさかタンポ槍で戦もできません。木刀でもです。弓はございますが矢は鏃のないものしかございません。一旦城に戻さねば、戦にならぬのです。今は情報収集に努め我慢の時かと。それに大殿への報告をしてお指図も仰がなければなりません」
家督は、現在の当主は儂だぞ、と叫びそうになりながらも北畠具教はその言葉を飲み込んだ。ここで重臣たちといさかいを起こしても何も良いことはないためであった。
「なるべく急げ。明朝には出撃を開始する。指図が間に合わねば父へ頭を下げるのは儂がやる。……すぐに早馬を。訓練地にいる兵を呼び戻せ。出撃準備を急がせよ」
だが、伊勢北畠家の動きは鈍いものであった。近年は戦も少なく、圧倒的な戦力差のある国人衆相手の戦か、さもなければ長野工藤家との小競り合いに終始していたため、更には兵数を重視する重臣たちの声には抗いきれず、三割程度は農民兵であったうえ、それぞれの家臣が軍役として挑発してきた兵のほとんどは農民兵であり、精々今回限りの渡りの傭兵であり、足並みを揃えての戦という意味では相当な訓練が必要であった。特に今回のように急の出撃のような鋭い動きは望むべくもなかった。結局訓練地に出ていた兵が全て戻ってきたのは翌朝のことであり、北畠具教が焦れて第一陣として出陣させた大宮含忍斎隊五千と重なったため出撃に半刻近くかかる始末であった。
戻ってきた兵に槍や太刀を渡し鏃のある矢を補充し兵糧を渡し隊の編成をしなおし、ほとんど夜通し動き続けて不平不満のたまっている兵をなだめすかしあるいは脅して、芝山秀定、水谷俊之がそれぞれ八千の兵を率いて出撃し、最後に北畠具教隊が兵八千を率いて出撃したのは既に辰の下刻を回っていた。
それでも最初に出撃した大宮隊との距離が二里まで離れていない辺り、兵の練度が低いという以上に疲労からくる士気の低下がいかに過大であったか、頻繁な休息や隊列の乱れなど、幸か不幸か途中で空中分解しないだけ能力が高かったことから進んではいたが既に戦える状況ではなかった。これは続いて出撃した芝山隊、水谷隊もほとんど同様であり、多数の白昼堂々の脱走兵を出し脱落兵を出しながらも進んでいた。
遠目にはほとんど軍というよりも難民の群れとしか見えない集団を、姉小路家の物見が見落としたのは無理もないことであった。
伊勢北畠家の軍勢発見の報が草太に届けられたのは未の下刻であった。一町半の処に四千ほどの集団がいる、その中に伊勢北畠家の笹竜胆紋の幟が立てられたという報告であった。続報は続き、その後ろから続々と難民とも農民兵ともつかぬ者たちが続いており、現在の四千の他に五千程度の集団、その後ろにまた五千程度の集団が続いている、最後尾の集団は北畠具教本人が指揮しているとみられる、とのことであった。合流するとすれば一万三千から一万四千という数となり、数だけでいえば現在の姉小路家と互角以上に戦える戦力となるように考えられた。特に背後に木造城を背負った状況では挟撃の危険性が高かった。
もっとも草太はこの集団自体をほとんど心配をしていなかった。逸を以て労を待つ、状況は完全にそれであり、しかも各個撃破してくれとばかりの伸びきった陣形であった。何らかの策か、と思わないでもなかったが、大河内城に集結している兵力は三万から三万五千、その半数を囮に使うとは考えにくく、伏せてある兵の報告は物見からも入ってこなかった。数百程度であれば林に紛れて隠れることもできるだろうが、さすがに万余の兵を隠すのは不可能であった。
振り返れば木造城の南側の櫓には人の気配があった。銃撃は加えたが櫓そのものは焼き落としてもいなかったためであった。そのためあえて見せるための戦い方を行うことにした。
「中筒隊前へ、……撃ち方三連」
木造城への抑え以外の、雲出川を渡った中筒隊は二千。その二千が前進して距離一町まで距離を詰め、そして碌に戦闘態勢も取れない大宮含忍斎の四千の兵に向け、射撃を開始した。射撃後には九鬼嘉隆を先頭に一鍬衆四千が突入する手筈となっていた。
大混乱。大宮隊の状況を一言で表すとこの言葉に他ならなかった。
朝から五里の道を歩き、ついてみると木造城へ入るどころか圧倒的に多い敵の陣容を前に陣を築けという指示に、農民兵や渡りの傭兵の多くが思わずへたり込んでしまった。それを叱咤激励し、棒で叩いてとりあえずの陣形を整えていったのは、確かに大宮含忍斎以下北畠家の能力は低くはなかったといえるだろう。
だが対峙している陣から整然と二千の兵が二列横隊で前進をしてきた。すわ突撃か、と陣容を固めようとしたが、その二千の兵は鉄砲を撃った。当然姉小路軍の中筒隊であった。まだ陣形を形ばかりに整えた程度で防衛設備もない、遮蔽物とてない大宮隊がこの攻撃に耐えられるはずはなく、各人三発撃った後には多数の死傷者が生じ、更に中筒隊の後ろから九鬼嘉隆が一鍬衆四千を引き連れて、大音声に言った。
「遠からん者は風にも聞け、我こそは九鬼嘉隆なり。これまでの九鬼家への伊勢北畠家への仕打ち、忘れてはおらぬ故、義によって姉小路家側につく。そなたらも北畠憎しと思わば武器を捨て道を開けよ」
この気迫とその後ろから迫る磯野員昌率いる一鍬衆四千に、先の銃撃で多数の被害を出し浮足立っていた大宮隊は抵抗らしい抵抗もせずに諸所で降伏し、辛うじて大宮含忍斎と郎党数名が南へ脱出できただけであった。
後でこの口上を報告で聞いた滝川一益は思わず噴き出した。
「何が北畠の仕打ち、だ。抜け荷に海賊働き、火付けに詐欺。あやつの方がよほどひどいわ」
芝山隊、水谷隊は既にその境目も分からないほどになっていた。きちんとした指揮系統も機能しておらず、先の芝山隊も隊列を組んで進むというほどのことが出来なかったためその陣は伸び、その後方が水谷隊に追いつかれた結果であった。五千の兵を擁する軍団がいる、と遠目には見えたが、事実は二千五百程度の統制のとれない集団が二つ、その境目が分からないほどに混然としていたというのが正しかった。
草太からの伝令により仮設橋の守備隊を残して、左翼より滝川一益率いる一鍬衆三千五百、中筒隊八百が、右翼より土肥但馬守率いる一鍬衆二千五百、中筒隊五百が、両翼より挟撃することとされた。
「投げ槍一投、その後撃ち方二連。一鍬衆による突撃」
本陣からの指図はこれだけであった。だがこれで通じるのが姉小路軍であった。
投げ槍も一投のみ許可されたため、芝山隊、水谷隊は大宮隊よりも更に悲惨であった。距離一町半で姉小路軍が伊勢討伐で最初の槍を投げた。図らずも密集陣形を取っていない芝山隊、水谷隊にとっては幸運なことに、その槍の被害そのものはさほどではなかった。だが空から槍が降る、という異常事態に農民兵の大部分や渡りの傭兵の内信心深い者達は武器を捨ててその場に跪いた。
そこへ中筒隊の銃撃であった。跪いていない兵はこの挟撃になぎ倒され、二連の終わった後には一鍬衆が三間槍を揃えて突撃してきた。ここに至って大宮含忍斎、芝山秀定、水谷俊之の三人は捕縛され後方へ運ばれていった。
ところで投げ槍着弾の直後、短いとはいえ林立している数千本の槍とその隙間で跪いている千人単位での人間という図は一種の宗教的な衝撃として山岳信仰に取り入れられていった。事実、役小角と並んで草太が神格化されていくのであるが、それはまた別の話である。
一方の北畠具教であった。前方に送った物見の報告もなく、先に出発した軍からも報告は何もなかった。よもや既に全滅しているとも考えられなかったため、報告すべきことがまだないか、合戦などが始まったにしても霧山御所にいる父北畠晴具に報告を行わせているとしか考えられなかった。前者ならばまだよいが、後者であれば問題であった。確かに実権は父のものであろう、だが現在の当主はあくまで自分であるということを四家老ですらないがしろにしていれば、何のための家督相続であったのか分からないためであった。
雲出川より二里の地点で物見の報告があった。
「報告します、既にお三方の兵、すべて敗れてございます。降伏した兵は既に木造城より北に送られ、遺体は近隣の農村から集められたと思われる者たちにより具足を剥がれてございます」
な、と北畠具教は内心驚いた。早すぎる、先頭の大宮含忍斎隊から半日まで遅れていないにも関わらず、二万を超える兵力が報告の使い番を出す暇もなく壊滅した、とは。実際にはその使い番は全て姉小路家の手の者により斬られ、奇跡的に情報を持ち帰ることが出来たのがこの物見が最初、というだけに過ぎなかったのだが、そのことを北畠具教が知る由もなかった。大河内城に戻ろうか、と一瞬頭をよぎったが、それはできなかった。二万余の軍が壊滅し自身の軍も四割近くが既に逃亡、脱落した後で一戦もせずに大河内城へ引き返せば、確かに自分の身は守れるだろうが武門が立つとは思えなかった。いざとなればこの太刀で、と目釘を改めたが、たとえ十や二十の兵を切ったところで戦局に影響はなかろうと思われた。顧みれば兵の士気は落ち疲労も蓄積し、万全の状況であれば武芸者はそれなりにいたものの現在の状況ではそれも難しいかもしれない、と思っていた。何より、勝たなければ恩賞はないのだ。そして勝ち目がないと思えば全力で勝つよりも生き残る方に力を注ぐのは明らかなのだ。
見えている敗北に向かって、それでも進まざるを得ないというのは、やはり自分は姉小路房綱には遠く及ばない、単なる北畠晴具の操り人形でしかないのだという思いで一杯であった。
沈痛な顔をしている北畠具教に対し、近臣の浅井石見守が言った。
「殿、我々の目標は木造城に入ることでございます。あの軍を引かせるのは難しくとも一部が突破する程度ならばなんとか。先陣は某と某の手の者が承ります故、後に続いていただくようにお願いいたします」
そうせよ、と北畠具教は命じた。浅井石見守が手勢八百を鋒矢の陣に手早くまとめ、その後ろに北畠具教は残りの軍勢を方陣に纏め上げた。突撃の合図とともに浅井石見守とその手勢が走り出した。
この動きを姉小路軍が見逃すはずはなかった。鋒矢の陣が組まれた時点で既に中筒隊が前面に出、中央の本隊の二千、再び左右に分かれた滝川一益隊八百、土肥但馬守隊五百が既に発射準備を整えていた。無論その直後には一鍬衆が控えており、本隊には騎馬隊二千が出番を待っていた。待ち構えている姉小路軍に策もなく突撃するのは、無謀というものであった。
だがそれが無謀であるということですら伊勢北畠家は知らなかった。これは驕りというものでもあっただろうし、あまりに国人衆程度の戦としては同じ土俵にしかいない相手との戦いに慣れすぎた弊害でもあった。古式通りに矢合わせの行われる位置まで前進しようとした浅井隊であったが、その前に姉小路軍の中筒隊が正面、右斜め前、左斜め前の三方向から火を噴いた。八百の兵に対し三千を超す中筒隊の銃撃が加えられたのだ。第二射で既に浅井石見守は討死し鋒矢の陣も完全に壊滅した。だが数百の死体を踏み越えて三千余の兵が方陣を組んで駆け込んできた。乱戦に持ち込めば鉄砲を使えない、という北畠具教の目論見もあっての突撃であった。
だがその目論見は、悪手であった。
「投げ槍二連、放て」
草太は思い切った手に出た。一鍬衆が持つ投げ槍は三本、両翼の滝川、土肥両隊は一本ずつ投げていた。回収できた分があったとはいえ、残りが豊富にあるわけではなかった。なにより伊勢北畠家の実権は北畠晴具であり、更にまだ後方に木造具政の籠る木造城が残っていた。二連を投げてしまうと、先頭に勝利した後に回収したとしても一鍬衆一人当たり一本以下、という数になると見られていた。勿論、阿漕の陣まで戻れば補給は可能であったとはいえ、これは思い切った手であった。
中筒隊と北畠具教隊の距離が半町を少し超えたあたりで第一投が、更に一発の銃撃の直後に第二投が投射された。この時点で三千余の北畠具教隊は五百に満たない数にまで減り、まばらに生き残りが集まっている程度で隊としての戦闘ができる状況にはなかった。物見により後方より後詰めが出てくる可能性がないことを確認していた草太は命じた。
「騎馬隊、出撃。蹴散らかせ」
幸運なことに、というべきか不幸なことにというべきか、この時点では北畠具教は何とか生きており馬に乗って近習と共に退却を開始していた。だが愛馬は撃たれたためになく、何とか調達できた迷い馬に乗っての退却であった。だがこの馬に乗っての退却は大悪手であった。この規模の敗北を喫して、その中で馬に乗っての退却ができるのは、名のあるものに決まっていた。ならば狙われるのは当然であった。北畠具教も愛馬であれば逃げ切ることが出来たかもしれなかったが、慣れない迷い馬では限界があった。
「そこの武士、名のあるものと見た。青木重直、一槍馳走いたす。存分に戦い候え」
一隊の騎馬隊を引き連れた武士が現れ、勝負を挑んできた。ふと北畠具教は姉小路家らしくないと思いながらも、今回の戦の中で戦らしい戦は初めてであるということに気が付き、そして一騎打ちを受けた。
「我こそは北畠権中納言具教、こちらこそこの戦のせめてもの土産にその首をもらい受ける」
両者馬腹をけって蹴って槍を構えての一騎打ちであった。腕は互角と見えたが、青木重直は自らの愛馬であったが北畠具教は迷い馬に無理に乗っていた。その差が徐々に輪乗りの動きに、手綱を扱いながら槍を振るうその腕に差が表れだし、遂に北畠具教は左肩に槍の一撃を受けて落馬した。
とはいえ草太自らも参加しているこの追撃戦では首を討つつもりはなく、小者が走って括りにかかったが特に抵抗もせずに括られたところを見ると、北畠具教はこの戦いに満足したらしかった。一騎打ち自体、騎馬隊の突撃という局面においてすべきではないというのは青木重直にもわかっていたところではあったが、やはり自分は古い武人なのだなと改めて思い知らされた。
少し後の話になるが木造城降伏後の論功行賞においても、青木重直は勲功第一の座には輝いたものの昇進はなく、以後も騎馬隊の一隊長でしかなかったがそれに悔いはなかった。
援軍が悉く壊滅していくさまは、すべて木造城の物見櫓から見ることが出来た。
木造具政は軍議を開き改めて籠城を命じようとしたが、そこへ近習の海津喜三が入ってきた。何事かと問えば海津喜三は言った。
「降伏を勧めに参りました。……いえ、少し話をお聞きください。殿は北畠具教殿の弟君で大殿の三男に当たりますが、この城にいる木造家家臣団の大部分は北畠家ではなく木造家の臣でございます。殿が木造家の家督を継いでいるのは先代木造俊茂様の養子として力を背景に北畠晴具に家督を譲らされたからにほかなりません。北畠家が強いままであれば、おそらくは問題がなかったでしょう。ですが」
そのあとは言わなくとも分かった。北畠家よりも強い、そのことをいやというほど見せつけた姉小路家に木造家は寝返りたいのであろう。そしてそれに異を唱えるのであれば……この木造具政の首を手土産にしてでも降伏しようというのであろう。開戦前までは勇ましかったのに、全く勝手なことであった。
「今宵、軍議をする。重臣どもに伝えよ」
その夜、木造康親、田上玄番正、柘植保重、牧康信、森本俊信、渡辺守信が呼ばれ、木造具政の脇に海津喜三が座った。開口一番、木造具政が言った。
「明日払暁、降伏する。異存のあるものは退去するが良い。止めはせぬ。降伏条件は、この首であろうが飲むつもりだ。無論、兵の命を助けることが最低限だが、城外退去で済むとしても北畠家には儂は戻らぬ。その方たちの行動には口を出さぬが、降伏の条件としてその方らの首をも差し出せというのであれば従わざるを得ぬ。その覚悟だけはしておいてもらおう」
こういうことは機先を制するに限る、ということを理解し実行することが出来ただけ、木造具政は優秀であったといえるだろう。一同、徹底抗戦を言い出した場合には詰め腹を切らせるつもりでいたので毒気を抜かれた形になった。誰も異存なく、払暁に降伏の文書を携えた軍使として滝川雄利、渡辺守信が選ばれて軍議は終わり、木造具政が自ら降伏する旨の文を書いて諸将が連署し、あとは宴となった。どうせひと月程度は籠城する予定であったから宴の食材にも事欠くことなく、夜は更けていった。




