二百四十二、伊勢討伐(三)
背景には姉小路家の急激な膨張、そして朝敵六角家への支援をめぐる対立があったにせよ、足利将軍家と伊勢北畠家の対立に端を発した伊勢討伐が開始された。姉小路家は後顧の憂いを削ぐために尾張織田家の行動を封じるための策を竹中重元に講じさせ、西美濃の兵一万をもって補給路を盤石にすべく木曽川下流の長島城を囲ませた。この次第については既に述べた。
姉小路家日誌弘治二年如月三日(1556年3月14日)の項にこうある。
「細川藤孝殿、足利将軍家の越前兵の先陣を引き連れ観音寺城に入り候。姉小路房綱公、即日檄を伊勢国人衆はおろか伊勢北畠家直臣にまで遣わし、平野右衛門尉を先陣に鞍掛峠越えにて伊勢へ兵を進ませ候。遅るること二日、越前兵が揃い、馬揃えの上、公自ら兵を率いて伊勢へ向かい候」
先陣の出立はともかくとして実際に姉小路家の本隊が観音寺城を出立したのは如月七日のことというのは他の資料からも明らかである通り、この辺りの記述は数日分がまとめて書いてあると見なければならないのは事実だが、それ以上に注目すべきは檄を飛ばしたという一文である。実際にこの檄文は多くの史料により裏付けられており、欠落しているものを除く全ての文書において署名花押が細川藤孝のものであり、連筆のものは姉小路房綱名が後に来る、つまり主は細川藤孝であるという形で作成されている点である。この一戦で、姉小路家は最低でも三万多ければ五万と言われる兵力を動かしたのに対して、足利将軍家の動かした兵は精々五千を超えていないという点を考えあわせると、姉小路家がこの時期、足利将軍家を立てようとしているという状況証拠でもある。少なくとも一時期に言われていたような、傀儡としての足利将軍家の復活を求めた云々という言説は、少なくともこの時期には全く考えられないのである。
もう一つ興味深い事実がある。この際に送られた多くの文書は細川藤孝の署名花押を除いてほとんど全て姉小路房綱本人の筆跡であるという点である。筆跡鑑定をしても、現在のところ他人が真似したにしては似すぎている、という結果しか出ておらず、特に筆遣いでは重視される曲がり、止め、跳ねの全てにおいてどちらかと言えば近代の書法に近い本人の癖字を真似できた、それも他の書に残らない範囲でということは考えにくい、という結論が出ている。恐ろしいことではあるが、本当であればこの時期でも祐筆というものを、少なくとも対外的な重要文書には置いていなかった、という事になる。
むしろ食うや食わずやの地侍程度より上の階級で、何らかの書類に署名花押以外について祐筆の手をほとんど借りなかった、というのは姉小路家以外には見当たらない。これは姉小路家の特徴として特筆すべき事項である。一種の猜疑心の表れと見る向きも多いが、むしろ姉小路家の性質として草太が処理すべき案件をごく絞っていた、という側面があるように思える。
細川藤孝の率いる越前兵が観音寺城に入ったのは、弘治二年如月朔日(1556年3月12日)のことであった。もっとも細川藤孝の率いていた越前兵は先陣であり、本隊は翌日以降に到着する見込みとなっていた。到着の夜、饗応の膳もそこそこに軍議が行われていた。といってある程度の策は足利将軍家も姉小路家も既に取っていたので、そのすり合わせの意味合いが大きいものであった。
「まず、ここから木造城まではほぼ襲われることがないものと思われます。あり得るとすれば木造城の近辺位でございましょうが、一応の警戒以上は不要でございましょう」
滝川一益の意見に、下座の市川大三郎から声が上がった。
「峠をまず警戒すべきかと存じますがいかに」
「無用だ。そちらは長野工藤家が抑える手筈になっている上、伊賀からの兵にも既に伊勢へ大規模な援軍を出す余裕は既にない。鈎の陣について警戒すべきはむしろ近江だが、……藤堂虎高、分かっておるな」
既に手配りは済んでございます、との言葉に草太が満足げに頷いたのを見て九鬼嘉隆がその後を引き取った。
「木造城から先は某が先陣を仕ります。つうのも……いえ、というのも、九鬼家再興という分かりやすい名目があるからでございます。他にも伊勢北畠家に滅ぼされた国人衆は少なくありませんが、そこに動揺を与えるのが主眼でございますれば」
草太が笑顔で細川藤孝に目をやり、細川藤孝が言葉遣いは気にしない、というと九鬼嘉隆をはじめ一同は少し緊張が解けたような空気になった。九鬼嘉隆が続けた。
「つうても水軍は向こうが船を全部もってってます。潰れちゃあいやすが九鬼水軍の舟手は大体は残っている、伊勢大湊の町衆の動向は気にはなりやすが、木造城で対峙する、気が付くと後方に兵が現れて進退窮まる、ってことになりかねないのは事実。つうか、儂ならそうするな。……対策は言うのは簡単だが、補給隊にしっかりとした護衛を付ける、海岸線を見張らせる。この二つだけでございますや。見張らせるべき場所についてはこちらから指図させてもらいたい。この辺りは我が九鬼家の庭、どの辺りを見張ればよいか位は見当がつく」
半分放逐された遊び人の次男崩れがよく言うわ、と滝川一益が言うと九鬼嘉隆は返した。
「どうせ神輿は軽い方が良い。また隗より始めよという故事もあろうさ。そちらこそ滝川本家が意固地に反抗する、などあるまいな。……一文銭投げて賭けようか、とは受けられんわ。両面表と裏、両方あるのは知っているからな」
「客が来ている」
弥次郎兵衛が苦笑いしながら短く言った。草太は普段はなかなかこの二人の掛け合いを見ることも出来ず、この正月も難しかったため久々に見たという思いが先に立った。それでも軍議を先にすべきであるとは心得ていた。
「さて細川殿、越前兵の集結次第に出兵と考えているが」
「某のみ近臣を連れて入りましたが、輜重小荷駄まで含めて越前より出たのは確認しております」
流石に細川藤孝にこの辺りの抜かりはなかったが、要望を二つ述べた。
「一つは観音寺城に入城後すぐにでも出陣、とはいわず、せめて一日程度は休息の余裕が欲しい、という点でございます。一般の兵の体力はまだ持つとしても、多分輜重隊が持たない。最前線で戦うにも足並みはまだ揃えられない。大殿からの命令も先陣を切れとは書かれておらぬのも、この辺りを勘案したものと思われます」
草太が一つ頷いたのを見て細川藤孝は続けた。
「もう一つは、大殿よりこれをお渡しするように言付かっております。……これへ」
一つの長持ちが運び込まれてきた。開かれたそれを見て感嘆の声が上がった。
「鉄砲か。それにしても大きいな」
後藤帯刀が珍しく感想を言うと細川藤孝は言った。
「抱え大筒にございます。七太郎の棒火矢、でございましたか。詳しいことは存じませんがあれは扱いが難しいと聞いてございます。これならば専用に必要なのは弾のみ。火薬も火縄も、中筒と同じものを使うことが出来ます。単なる石火矢よりも威力は大幅に高く、操作も火縄銃のそれに習熟して居れば容易であり、重さも軽く……」
少々うるさそうに草太が聞いた。
「何門ある」
「今のところ試作段階、堺にて作られている数までは分かりませんが、我らの手元に一門、越前で整備と訓練のために二門。合わせて三門だけにございます」
草太は苦い顔をした。堺で作られているのであれば、三好家には渡っていると見なければならないためであった。
問題は抱え大筒の取扱いであった。中筒よりも威力があるが、弾はそれほど遠くまでは飛ばず、また反動のために狙いは甘くなりがちであった。更に連射は出来ず、火縄銃と同等の機構を使っているために雨では使えなかった。これを櫓を壊し門を破るために使うという計画自体は草太も知っていたが、完成したものを見るのは初めてであった。
「三好家への対応はしばらくおくとして、伊勢北畠家の攻略で使う場面もあろう。その際はよろしく頼む。……弥次郎兵衛、田中与太郎殿に事の次第を調べさせよ。おそらく硝石が大量に動いているはずだ。当家からの抜け荷でなければ南蛮かどこかであろう」
そして草太は命を下した。
「平野右衛門尉、西美濃の兵五千を率いて長島城の包囲に加われ。これは新兵で構わぬ。訓練がてら囲め。現地の田中弥左衛門と交代し、田中弥左衛門の隊はそのまま前進させて北伊勢の治安を守らせよ。……どうも長野工藤家に任せるのは不安だ。正面から戦うのであれば別なのだろうがな。次に明後日、本隊を出す。三林善四郎、ないとは思うが念のために先駆けを命ずる。一鍬衆三百で充分であろう。最後に後陣として細川藤孝殿率いる足利将軍家に出陣していただく。饗応その他は、弥次郎兵衛、任せる」
如月三日、草太は二万の兵を引き連れて観音寺城を発して伊勢北畠家討伐のための軍旅についた。
一方の伊勢北畠家は、意外に遅い姉小路家の動きに奇妙なものを感じていた。家督こそ譲ったものの依然伊勢北畠家の実権は北畠晴具にあった。その北畠晴具は報告を聞いて、しばらく考えた後に言った。
「これまでであれば兵を動かすと決まれば数日で兵が動き始めていたのが、この度は半月近くかかっている。おそらくは正月の宴の前からの計画であろう、となれば一月を越える。動きが、妙だな」
「今回の出兵には越前よりの兵が加わるのが確定しております。この他に川並衆が出ております。またどうも練度から見て新たに出兵された美濃兵は練度が明らかに劣ります。これらから考えられるのは、どうやら姉小路家の底が見えてきたかと」
藤方朝成が言ったのを受けて北畠晴具は言った。
「なるほどな。兵全てを常備兵とすることを前提とする兵の練度、装備の充実、そして速さ。それと引き換えに失っているのは兵の数、か」
御意、と冷徹に藤方朝成がいうのに続けて北畠具教が言った。
「奴らは多分、領民からの兵を諦めて熟練した兵だけでこちらを責めていたのでしょう。確かに後方の治安維持ならば領民から集めれば十分。それでも最前面ならばやはり熟練兵が必要、と。ならば我らの取るべき戦略は」
「足止めだな。時間を稼ぎ後方を荒らし、三好家、石山本願寺をはじめとした諸勢力に目が向き下がろうとした背後から逆襲する」
北畠晴具が宣言し、各要所への伝達が行われていった。特に最前線となる木造城付近には増援が送られ兵糧その他の物資が集められ、またそのすぐ背後に流れる雲出川にも厳重な陣が築かれていった。
戦はすぐ目前にまで来ていた。




