三、兼定の決意
東奔西走編がこのままでは長くなりすぎるので、分割しました。
丁度良いので、外伝の「一条兼定という男」も追加で投稿します。
弘治元年と改元され師走に入っていたが、一条兼定は京へ向かう船上にいた。定期的に京へ向かう船は出していたが、一条兼定が乗るのは久しぶりであった。潮風を顔に感じながら、一条兼定は自分を京に呼び出した手紙の内容を反芻していた。
一条兼定が京に呼び出された理由は、表向きは京の一条本家の家督を継いでいた一条兼冬が先年物故し、その喪が明けたため一条内基が正式に元服、加冠し家督を継ぐ、その席に連なるためであった。だが一条家の収入の根幹の一つである土佐幡多郡の荘園管理と家督継承の式に列席することのいずれが重要かといわれれば、明らかに前者である、ということにしたかった。政務を精力的に行っているということにはなっていたが、一条兼定がいなくとも政務は土井宗柵以下の重臣が滞りなく行うことは目に見えていたため、土佐幡多郡の荘園管理など単なる飾りだけでしかなく後者の方が重要、と本家が考えていることも十分にあり得る話であった。
だが、それでも荘園管理の方が重要であると考えたかった。であれば式への列席以上の何か別の用、ということになるが、一条兼定には心当たりが一つあった。草太関連の情報を集めている際に知ったことではあるが、姉小路家の支援の下足利義輝が上洛し弘治二年正月に諸大名を集めての大評定を開く、ということであった。土佐一条家は足利将軍家とは名目上も主従関係にはないため正式にその招待を受けていなかったが、おそらくは養父である一条房通のことである、誰かと、おそらくは草太がらみの誰かと会せるつもりなのだろうと考えていた。
土佐幡多郡から船に乗ること六日、堺より上陸し一条家御用達の幟を掲げて京に向かった一行は、堺より三日目の夕方、京一条家の邸宅についたのは、師走十八日のことであった。
一条兼定が驚いたのは、京一条家の邸宅が以前よりも良く手入れが行き届いており、何より活気が見えていたことであった。確かに式典もあるからには丹の剥げた柱などは修繕もせねばならぬだろうし、仕事が増えることからも活気が出るのは当然であった。しかし、一条兼定は世間知らずとはいえ、流石は土佐一条家の当主であった。その目が、それだけが原因ではないと見抜いていた。勿論、朝廷での権力という意味では五摂家という格式相応の権力はないではなかった。しかし義兄であり前関白の一条兼冬が物故し、次代を継ぐ一条内基はまだ九つ、頼るには幼すぎ、操るにも他の五摂家が当面は後見につくのが明らかなため難しい、その意味では一条内基にすり寄ろうとする公家は少ないはずであった。他の荘園の奪回に成功したという話も聞かないため、おそらくは姉小路家の援助を受けていると見るのが妥当であろうと思った。
その夜、一条兼定は一条房通の寝所の隣にある小部屋に呼ばれた。一条兼定の顔を見、一条房通は相好を崩した。その顔は久しぶりに見る、土佐幡多の地でよく見せていた顔であり、京へ戻った後の鯱張った顔からは遠く離れた、自然の顔であり一条兼定を慈しみ見ている顔であった。
「よく来た。大事ないか」
短く言った一条房通の言葉であったが、その中に無限の優しさが溢れているように一条兼定は感じた。が、ふと一条房通の顔が、白粉の上からもわかるほどに痩せているのに気が付いた。
「これか。ま、儂も相応に年だということだ。典医もおる故、心配せずとも大事はない。それよりも」
一つ短くせき込んで一条房通は続けた。
「気にかかるのはこれからのことじゃ。草太と、姉小路房綱と、そなたは顔見知りであったな。実はな、宮中のことはさておき世俗のことは姉小路家にそなたの後見を頼もうと思っておる。……言いたいことは分かる。まだ摂津、和泉、紀伊はおろか伊勢志摩でさえ姉小路家の影響下にはない。丹波は勢力下に置いているから播磨は突破できるだろう、だが播磨からなら瀬戸内を越えるのは難しかろう。そこからまだ讃岐、安房、東土佐を越えなければならぬ。後見としてもその効力は知れているだろう。だがな」
ため息をついて一条房通は尚も続けた。
「いろいろ考えた。だが土佐一条家ではなく一条兼定、そなたの後見を任せられる戦国大名は、遂に姉小路房綱しか見つけられなんだ。とりあえず長宗我部家の重臣吉田孝頼を呼んである。近いうちに姉小路房綱が京に来る故、常宿にしている双林寺でゆっくりと話でもしてくるがよかろう」
自室に戻り、一条兼定はしばらく無言で考えていた。
双林寺で何が話されるのか、おそらくは土佐を含めた四国全体のこれからの形、それを大まかにでもまとめるための、その第一歩としての話がなされるのは一条兼定にも分かった。その場に長宗我部家の者を参加させるという意味も同時に分かった。一条房通は土佐一条家の力を総動員しても勝てない、そう考えているのであり、それは一条兼定も同じであった。
確かに自分には土佐幡多郡を大過なく治めるだけの力はあるだろう。だが外敵を撃退し打って出て領土を広げる、例えば土佐一国を統一する、阿波へ侵攻し瀬戸内へも影響力を伸ばすといった事業ができるほどの力があるとは思わなかった。むしろ、戦をせずに済ませることが出来るのであればできるだけ戦は避けたい、領民も正業に付けて兵役などを課すのを好まないのが一条兼定の心根であった。
戦のない世の中にしたい、という理想は草太とは共通であったが、その過程として戦を厭わない草太に対して、理想論ではあるものの戦そのものを忌避するのが自分という人物であると、一条兼定がはっきりと自覚した瞬間であった。
そして師走二十日、草太が一条家の屋敷を訪れひとしきり一条房通と話をした後、一条兼定は草太と共に吉田孝頼を伴い双林寺へ入った。この様子は土佐問答として既に述べた。
一条兼定はこの後、元服の儀を行い土佐へ帰ったが、その胸中には一つの決意が確かにともっていた。それは、他力本願であるとはいえ戦のない世を作るための確かな道筋の一つ、そう見えた。当面は、その時が来るまで出来るだけ血を流さない形で土佐幡多郡を特に伊予国人衆から守ること、長宗我部家とは敵対せぬこと、そして仮に敵対することとなった場合には、苦手であるといえども可能な限り領民を守ることであった。
的のない矢に、的が出来た。
一条兼定が土佐に戻ったのは、既に如月に入った頃であった。出迎えに来た土井宗柵に、一条兼定は決然と言った。
「先日より話があった、伊予国人衆の宇都宮家との縁談を急ぎ進めよ。また安芸国虎殿と通の縁談は一時停止とする。それから長宗我部家とは当面、暗黙の了解として不戦同盟を結んだが、これも正式に形にする。支度を進めよ」
土井宗柵は、京へ向かった時と人が変わったように決然と口にした一条兼定の口調に、大きな成長があったものだとうれしく思ったのと同時に、長宗我部家との同盟を口にするということはいよいよ伊予攻めを本格化させる、あれだけ嫌っていた戦を行うという決意をなされた、とその変化を喜んだ。




