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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
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二百三十三、赤松義祐と草太

 姉小路家の伸長を食い止めようと秘密裏に伊勢北畠家、石山本願寺、三好家、六角家、そして河内畠山家が手を結んだ次第については既に述べた。姉小路家はこの動きを服部保長の諜報網にて知っていたが、その企みの全貌に至るまでは遂につかむことができなかった。



 姉小路家日誌弘治元年閏神無月朔日(1555年11月14日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、観音寺城にて内治を忘れず、飛騨、越中、能登、加賀にて行われし乾田の法の成果に喜び、奉行の太江熊八郎を賞し候。また蕎麦と他の作物の輪作に対する建白書を喜び候。公曰く、乾田の法は広く広めるべし、蕎麦は徐々に進めるべし、とぞ。また穴太衆に命じて国内に灌漑を築かせ候。(略)大垣城に白菊姫を迎え、また尾張織田家の使者として木下光秀と会談致し候」

 観音寺城にあっても草太が姉小路家の内政を離れられたということはなく、また相変わらず祐筆を嫌ったために草太が自身で書いた書状が多く残されている。特に家中の将兵をほめる場合には草太は直筆で書くのを好んだようであり、この太江熊八郎の働きを「武略に対する槍の上での一番槍に勝る働き」と褒めている感状も直筆であり現在も残されている。同時にこの時期までには太江熊八郎の手の者になったと考えられる花背の衆にも相応の褒美が与えられたのは言うまでもない。また裏作の麦や田を作るのに適していない土地での蕎麦など、更には開墾の実が上がり始めていたために、姉小路家の台所事情はうれしい悲鳴を上げていたとされる。実際にこの時期以降、能登から輸出された物資に米を含んだ食料品の割合が増えている。

 それよりも白菊姫の輿入れがこの時期であるのはある意味では驚きである。この時期以前は、結局は白菊姫の空手形で美濃に兵を進めていたと言われる所以はここにある。とはいえ、歴史上の史実からすれば草太が白菊姫に会ったとされるのはこれ以前にはなく、白菊姫の色香に迷ったと言われるのは草太にとっては全く心当たりない事である。大垣城に出迎えたのは磯野員昌であるとされ、観音寺城まで美濃斎藤家の長井道利が付き添ったと諸伝では伝えられている。



 草太は観音寺城で久々の休息を得ていたが、外交上の用が数日おきにあり流石に観音寺城を留守にするのは無理であった。精々、忍びで城下町を平助と歩くという程度でしかなく、その時間も弥次郎兵衛に三刻までと決められていた。とはいえ観音寺城の城下町が出来つつあるのを忍びで視察するという程度のことが出来る程度には自由があり、さりとて外交上の用があるという枷から遠出できないという、ある意味で絶妙な計画を立てるあたりは、弥次郎兵衛の能力は高かったと言えた。もちろん、内治に関する報告や指示にも可能な限りすべてに目を通し、指示については可能な限りの便宜を図るというのは草太の基本的な姿勢であり、弥次郎兵衛は草太の命令を数日は数日間会議に置くように命じられていた。これは、拙速であるとしても数日の単位で修正できるものは全てその会議で修正すべきであるという立場からであった。

 無論、弥次郎兵衛の目的は草太が予想外の外出をしない様にすることであったが、そのことは草太にも知る由もなかった。



 茶の湯を通じて田中与四郎と赤松義祐の仲が良かったということはなかった。何しろ赤松義祐の茶道は控え目に言って田舎茶であり、最初の茶会は形は似たけれども心が入っておらぬ、と田中与四郎の日記に書かれるものであった。それを察知したのは、確かに黒田官兵衛の功であったといって良かっただろう、返礼を、と渋る田中与四郎の前に自身の手にあう茶器をかけ並べ、「茶席というものを教えていただきたい」と頭を下げれば田中与四郎も無下にはできず、さりとて茶器も安物の茶器、仕方がなしに使ったが赤松義佑が言った。

「由緒書きには何も書かれておりませぬが、手に合うものなれば使いました。安茶碗にてご無礼を」

 田中与四郎は茶碗を見て確かに安い田舎茶碗の類とは見たが、それを無下には出来なかった。というのも床の間にかざされていた青磁の香炉がどうにも目を引いていたからであった。その香炉を尋ねると黒田官兵衛は言った。

「先々代以前より当家に伝えられている香炉かと。ご由緒がどの程度古いかは、大殿、ここにはおらぬ赤松晴政様しか知らざる事」

 確かに赤松家は兵庫の津を与えられ、密貿易の利を与えられていた。とはいえ、既にその利権など有ってないものとなっていたが未だ利がある、と見せようとしていた。だが田中与四郎は流石に堺町衆の棟梁格の家柄であり、その利が既に全くなくなっていることを知っていた。そこに利があるならば物が流れ銭が流れるはずであるが、ここ十数年一度も密貿易のものとみられる流れは見られず、細々と瀬戸内での商いの船が入るだけであった。密貿易の船はほとんどが堺、石山に船をつけているというのが現実であった。

 田中与四郎は考えた。この二人は自分を通じて何が望みか、口実として挙げた茶の湯を学びたいという数寄者であるとは到底見えなかった。ならば姉小路家への取次を、というのは田中与四郎に言われても手に余る、というよりも筋が違いすぎた。茶器やその他の融通を、ということであれば店の方に来ればよく、このような茶席を設けるのは意味が通りにくかった。考えながら茶をたてていると、田中与四郎に黒田官兵衛が言った。

「若殿の茶の湯はさしてよろしからざるものにございますが、赤松家も荷が手に入らぬようになってから中々、難しいところがございます」

 要するに貿易港の周旋か、と考えながら田中与四郎は答えた。

「心を学ぶのに荷が入らぬというのは理由になりません。現に姉小路房綱公は見事な茶の湯を立てます。例えば飛騨の春慶塗、あれを飛騨より見立てて持参したのは姉小路房綱公でございます」

 何事も精進という田中与四郎に、赤松義祐は言った。

「一つお尋ねしたい。茶の湯は奥深いものですが戦働きに何の働きがございますか。某には戦働きに関係ないものとしてしか見ることが出来ませぬ」

 田中与四郎は一つ息を吐き、立て終わった茶碗を赤松義祐に回していった。

「何であれ役に立てようとすれば立つもの、立てようとしなければ立たぬものにございます。例えば禅をして精神を落ち着ける法を探る、これも戦には立てようとすれば立つものにございます。茶の湯にても同じことにございます。とはいえ剣と同じく最初の型稽古で終わるものも少なくはないようで、まだ難しいものでございます」

 赤松義祐は何事かをしばらく考えていたが、やがて黒田官兵衛に茶碗を渡してから田中与四郎に言った。

「田中与四郎殿、筋は違うとは思うが姉小路房綱公にお目通りを願えるよう、口添えをしてもらえまいか」


 こうして赤松晴政の名代としてその嫡男赤松義祐が小姓黒田官兵衛と共に観音寺城の城下町に入ったのは、神無月二十八日(11月11日)のことであった。饗応役もつかず、他の供回りは京に残して二人での旅であった。ただ宗太という行商人が付き従い観音寺城の城下町への道先案内をするということであった。この宗太は、無論御伽衆の宗太であった。だが赤松義祐と黒田官兵衛は、単に行商人であるとしか気が付いていなかった。その宗太に赤松義祐は出発直後に言った。

「なぜ忍びでなければならんのだ。供回りを引き連れての行列で良いではないか。高々五十やそこらの兵が歩いていても問題はなかろう。それに輿は仕方がないにしても馬位は……」

 黒田官兵衛は言った。

「若殿、若殿は京での殿の先遣隊を率い京近郊を探るのがお役目。本来であれば公家の家々を回り寺社に寄進を行って回り、若殿の顔を売るのがお役目でございます。それ故に僅かなゆかりを元に田中与四郎殿、ひいては我らには及びもつかぬ程の姉小路家に顔をつなげるという身。その役割が果たせればこそ宗太殿に道先案内を賜っている身にございます。……言っておきますが、姉小路家は羽林家、代々我らよりも畏き位にあり当代も既に公卿の地位にいる身にございます。ゆめ、当家の顔に泥を塗るようなことはないようにお願い奉る」

 田舎貴族の家柄を半ば誇っていた赤松義祐は頷き、だが宗太は言った。

「あぁ、いいんだよ。そういう格式ばった人の方が、お……、姉小路様の気にいるかも知れないでね」

 京は姉小路の変後の空き地に立った赤松義祐の泊まった宿屋にはその供回りであった五十人程の兵が並んでいたが、あくる日には下京にあるいくつかの寺に分散されて人手として使われていたのは確かであった。だが赤松義祐はそれを知らないし、知ったところで姉小路房綱と会う何の手にもならないことは自明であった。既に姉小路家、あるいは足利将軍家に取り入ろうとする勢力で目端の利くものが人足の派遣なり寺社への寄進なりという形で入っており、今更入る隙など無かったのである。勿論、人手のについては各寺社とも分かっていた。人手の足りない単純労働の増加、それも逃亡すればこの場合は赤松家になすりつけることのできる部分については、黒田官兵衛は勿論知ったことはあったが誰にも言わなかった。ただし対内部的に言わなかった・・・・・・だけであり、問題がないとは全く思わなかった。


 三人は四条河原にある旅籠の前で落ち合い、行商の荷を背負った宗太が先頭、次に武者修行の風体をとった赤松義祐、最後に黒田官兵衛がその付き人という形で日のあるうちに逢坂を越えるつもりであったが、ここでも赤松義祐の我儘が出た。本圀寺を見たい、そう言いだしたのであった。

「仮にも足利将軍家の御所が置かれたこともある由緒のある寺、見るのも悪くあるまい」

 黒田官兵衛は、期日にはまだ余裕があることから時間を理由に帰路に寄ることにしてこの場を収めることも出来ず、また宗太は発言権がなかった。というよりも、宗太は意識的に発言しなかったという方が正しいのかもしれない、と黒田官兵衛は考えていた。この宗太が姉小路家に連なるものからつけられたものであるとすれば、悪く言えば間者か、良く言っても御目付であった。行動を監視されるのは良い気分ではないが、それでも姉小路家に良い印象を持ってもらうためにはこの宗太に悪い気を与えない方が得策であるのは明らかであった。だが何といっても赤松義祐は言を変えず、最後に赤松義祐は宗太に言った。

「その方もこの従者に何か言ってはもらえぬか。ほんの半刻か一時でよいのだ。のぅ」

 言われて初めて宗太は口を開いた。

「双林寺へは参りましたか」

 双林寺への訪問は黒田官兵衛が行っており、赤松義祐自身は行っていなかった。赤松義祐の返答に宗太は静かに返した。

「我ら行商人風情といえども、いや行商人風情だからこそなのですかな、新たに訪ねた先ではまずは宿を確保してその主人に土地の有力者に紹介していただきます。通り過ぎるだけならば精々翌朝にはいなくなっている身、ですが商いをするつもりならば別でございます。表立っての上下はさておき、別のところを訪ねるとあれば、やはり後の方が心証は良くありますまい。双林寺は姉小路家の常宿にして鎌倉であれば六波羅探題ともいうべき方々がございます。京であれば我々民草であっても知っておりますから知らないとは言えますまい。そちらに詣でずに忍びで本家に詣でるというのに、その途上で更に上の足利将軍家に媚びるような真似は、さて」

 これには、確かに赤松義祐の心も折れざるを得なかった。忍びの旅までして京から訪れるはずの使者が途中で他家の重要な拠点を訪れているとあれば、やはり面白くないとは赤松義祐にも分かることであった。赤松義祐に本圀寺に詣でるのは帰りのこととすると言わせたのは、確かに宗太の経験上の言葉と内容に頷かざるを得なかったためであった。



 宗太は案内以外に課せられた役割があった。赤松義祐という人物を姉小路家に近い地位に置くか、単に謁見に来た一武将として扱うか、そのいずれかを勘案する役割であった。難しいことではあったが、その極め役は一人宗太のものではなかった。ただ宗太は赤松義祐という人物を、田舎貴族ではあるが朴訥で素直な人物、という意味で悪くは思わず、それ故にあまり姉小路家の中枢近くや京に近いところにあって権謀渦巻く場に置かぬほうが赤松義祐にとっては良かろうと思われた。このことは内々に報告されていた。黒田官兵衛はおそらくはそのことを察していたようであったが、それでも赤松義祐の耳に入れていないと思われることからあまり忠臣であるとは思えなかった。


 そして閏神無月朔日(11月14日)の午の刻、観音寺城下に作られた金森御坊別院の一室にて草太は赤松義祐と対面した。草太の供は平助、服部保長の二人であった。

しばらく色々と不自由な場所に居ました。いや今もいるのですが。

そういう訳で当分は不定期更新になります。可能な限り火・木・日には投下しようと思いますが、書いて投稿できるかどうか、中々難しいところであります。


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